第15回 狂人

 さて、与太話をしているうちにぼくらと定親王は、気がつけば紫禁城の裏門に当たる神武門の広場までやって来ていた。


 すぐ後方には美しい花々が艶と香りを振り撒く御花園に続く順貞門が位置し、紫禁城に残っていた文武百官らは、その門の左右に横長の隊列を組んで居並び、中へお戻りになる帝の鳳輦を待ち受けていた。沈みゆく太陽の茜色の光が彼らの横顔を照らし、石畳の上に長い影を描いている。


「あの、永暁さま。わたしはどこで待ちましょうか」


「別に、ぼくについて最前列にいたらいいだろ」


「そういうわけにも行きませんよ。官職ってものがありますから」


「いいから来い。親王の家臣にとやかくアヤを付けて、秩序を振り翳そうとする命知らずはここにはいないさ。それに、迎えると言ったって、精々膝をついて叩頭の礼をするだけだ。帝のお顔など絶対に見えないから安心しろ」


 そう言ってぼくは強引にアルサランの腕を引いて行き、文武百官らの行列の最前列に躍り出た。彼らは当然何奴だ、と眉をひそめるが、暖帽の頂戴に輝く紅玉と、補図外套の四方に縫い取られた団龍を見て忽ち緊張の面持ちで目を逸らす。


 それでも見続ける生意気な奴がいたら、帽子に差した孔雀の羽で鼻っ面を引っ叩いてやるつもりだった。


「ほら、最前列に出られただろ?」


「なんてことするんですか、全く恐ろしい……」


 ぼくの周りに立っているのは、いずれも皆名の知れた上位の皇族達ばかりであった。帝の第二皇子で事実上の皇太子とさえ言われる二阿哥綿寧、ここまで共にやって来た定親王綿恩、諸親王の筆頭格とされる粛親王に、詩画の名手として知られる礼親王。この他郡王、貝勒など爵位と名声を持つ貴人達がずらりと並び、激烈な科挙を制してきた士大夫達を後ろに従える。


 しかし、その中で居心地悪そうにキョロキョロと周囲を見回す相棒にも困ったものだ。お前が誰に仕えているのか、まだ分からないか。宗室諸王の内にも十人しかいない鉄帽子王、その一角たるこのぼくだ。余程の狼藉を働かぬ限り、ぼくの頷き無しにお前が罰せられることなど決して無いのだ。だから堂々としていろ。


「銅鑼と喇叭の音が聞こえるだろう、アルサラン。そろそろお出ましだぞ」


 儒教において礼楽──秩序を示す礼儀と並び、人心を感化する音楽は、極めて重要な位置を占める。衍聖公こうしは『論語』のうちで、人としてどう生きるかと言う心得と同じくらいの熱量を割いて、身分や状況に応じてどの様な音楽を奏でるのか、形式、楽器、奏者の人数などを含めて事細かに論じている。


 当然その姿勢は、かの時代より二千年を閲した我が大清の時代にも引き継がれており、天子やそれに準ずる貴人が儀式に参加する際には必ず仔細に定められた儀典に基づく楽隊が随伴するのだ。閑話休題。


「帝のお出まし」


 式部官というのは喉が強靭でなければ務まらない。輻輳する音楽にも負けぬ程の声量で、彼が帝の鳳輦が到着したのを百官に伝えるのとほぼ同時に、重々しく神武門の巨大な門扉が動き出す。


 先触れとして場内に入る騎乗の侍衛ヒヤが左右に広がって一糸乱れぬ列を組み直すと、今度は最もお側で帝をお守りする御前侍衛の列が続く。それが終わると漸く帝の乗り物が姿を現し、静々と順貞門まで敷かれた緋毛氈の上に降ろされる。


 高貴なる黄色の絹で四方を覆い、屈強な担ぎ手が前後に着いたそれが動きを止めるのと同時に、ぼくらと文武百官は石畳に膝を屈して叩頭の姿勢をとり、


「「帝のお帰りをお迎え致します。万歳万歳万々歳!」」


 例の如くにお決まりの言葉。轎の正面に組まれた棒がからんからんと取り外され、侍衛がばさりと正面の前掛けを翻すと、中から袞衣の裾を揺らして敷物の上に降り、こちらに向かって歩み寄る聖上の足音がかすかに聞こえて来る。


 その時であった。ぼくの真後ろ、他の皇族よりも一層深くに頭を下げていたはずのアルサランの気配が一瞬動いたかと思うと、はっと息を呑む動揺に変わる。何かあったのか、しかし帝の御前において問うことも出来ぬ。


「(何だ、只事じゃないぞ)」


 すると、やにわに彼は立ち上がると、そのままぼくの背中を飛び越えて足を前に進め、帝に向かって走り出したのだ!


「馬鹿ッ!」


 ぼくも顔を上げる。場の意識全てが彼に集中し、侍衛達が取り押さえようと体を動かしたその矢先──

「帝、危のうございます、後ろを!」


 影が、動いた。夕暮れ時の薄暗さ、神武門の左方に隠れていた一人の男。その男は胸から匕首をさっと取り出すと、そのまま鞘ぐるみ抜き放って矢の様に俊敏に走り出す。標的はもちろん、帝だ。


「帝、後ろです!」


 ご覧ください、などという時間は無い。ぼくも続くしかなかった。背の高い侍衛がアルサランを取り押さえようと動いた時にできた僅かな隙間、既に男の切っ先は帝のすぐ側に──あと二秒もあれば到達できる場所に至っていた。


「クソッタレ!」


 誰に向けた言葉かは、自分でも分からない。だが、確かにぼくは行動に移した。咄嗟に懐から愛用の煙管を取り出すと、さながら投壺遊びでそうする様に手に構え、男の広い脳天に向かって一直線に放り投げた。


「(規定だから仕方がないが、刀を預けてしまったのが心の底から悔やまれる、畜生)」


 しゃっ、と見事にすっ飛んだ煙管は狼藉者の脳天にぶち当たり、これまたごく一瞬の隙をその場に作り出す。付け入るより勝機は無い。ぼくはそのまま侍衛どもの肩に手をかけて人並みを跳躍して奴の前に着地し、一連の動作の終着点としてその鼻っ柱に拳を叩き込んだ。


 アルサランが折り重なる侍衛達によって取り押さえられ、苦しげな呻きを漏らすのとほぼ同時、立ち上がってかららものの二秒半ほどの出来事である。


「な、何事だ!?」


「狼藉者だ、者ども取り押さえよ」


「よもや二人連れとは。このっ、」


「馬鹿者!その男は忠臣だ、解き放て!」


 危うく揺動として私刑に遭いかけていたアルサランが解放されたのを後ろ目に見届けると、ぼくは口の中に酷く苦々しいものを感じながら、早々と体勢を立て直した目の前の男を顧みた。


 据わっている。肝も、覚悟も、何もかも。装いこそ如何にも貧相で、物乞いの群れの中にいても気が付かぬ程なのだが、ぼくとその背後におわす帝をしっかと捉えた双眸に宿る光は尋常のそれではない。


「(刺客か)」


 だとすれば、最も危ういのはここからだ。一秒前がそうであった様に、この男に全ての注意が割かれていては、万一の可能性が十に一までに跳ね上がることだろう。


「何をしている、早く帝を避難させないか!ここは瀏親王が引き受ける!」


 もはや振り返ることはやめよう。腑抜けの侍衛どもが、ぼくの相棒に汚名を着せて地面につくばわせた連中が今更になっておろおろしている風景など目に入れては、かえって自分の士気が下がるというもの。


「馬鹿め、全く」


 二重三重に救い難い低脳どもめ。これだけ雁首揃えておいて、奴の隙に乗じて取り押さえようとするものは一人もいなかったのだ。そんなに匕首が怖いか。怖い。だが、丸腰のぼくが立ち塞がっているのに、立派な佩刀をぶら下げた連中が何もしないままとはどういう訳だ。


「(何か他に使えるものは……)」


「やあッ!」


 考えている暇など無い。ぼくは咄嗟に身体を捻って肩口を大きく開き、左胸を狙って放たれた突きの一撃をそこで思い切り抱え込む。ここで力を込めて骨をみしりとへし折る──と、言うことができれば良かったのだが、力を込めるよりも早く右腹に恐ろしく重い膝頭の蹴りが突き刺さり、内臓に鈍痛が走った。


「がっ、はっ……!」


 思わずよろめいて地面に落ちる様に転がり、昼に口に入れた食物が胃液と共に逆流を始める。が、止まるわけにはいかない。清められた石畳を吐瀉物で惨めに汚しながら転がって追撃を避け、序でに煙管を拾い直してもう一度立ち上がる。


「さあ、こっちだ狼藉者。お前の相手はわたしだ、帝には指一本触れさせんぞ」


「いいや、お前の相手は私だ賊め!丸腰の相手よりは戦い甲斐があるだろう!」


 動きの鈍すぎる侍衛どももようやく状況を飲み込んだのか、アルサランからぼくと暴漢の方に視線を移し、周囲を取り巻いて次々と剣を抜き連ねる。他方百官と整列していた皇族達の中には、自らも武器をとろうとする者もあれば、帝と共に順貞門の方へ逃げる者もいる。


 無論、定親王は前者だ。彼はすぐさま手近の侍衛から武器を調達すると、ほぼ丸腰のぼくを守るように輪の中心に走り出て、


「叔父上、後はどうかお任せ下さい。お助けするのが遅れて、誠に申し訳ありません」


「定親王殿……奴は、膂力こそありますが戦い方は素人そのものです。動きにも無駄が多い。ご油断召されなければ敵ではないでしょう」


「ご助言、痛み入ります」


 狂気だ。朝に草葉の上に生じる露よりも純粋な狂気が、あの凶賊の中に渦巻いている。あれは、一体何だ。赤熱色の気配が臓腑から全身に広がり、脳髄を犯し、常ならぬ膂力を与えているに違いない。そうでなければ、二、三日は飯を食っていないであろう細い手足からあれ程凄まじい蹴りを放つことはできない筈だ。


「我こそは定親王綿恩だ、逆賊。本来ならば八つ裂きしてやりたいがそうも言う訳にもいかない。その代わり、この場で叩きのめしてやるからそう思え!」


「うおおお」


 獣の様に唸る男と親王が互いに武器を振り翳し、力の限り激しく戦っている。定親王は最初こそ、狂犬の様に恐ろしく喰らいつく奴の戦い方に戸惑っている様だったが、やがてどう戦えばいいのかの心得を掴んだ様で、二、三合も刃を合わせないうちに優位を確立していく。


「大人しく降参したらどうだ、少なくとも今この場では死なずに済むぞ」


「……」


 怒りと屈辱に顔を歪ませて、男は乱杭歯を露わにする。碌に手入れもしていないのだろう、茶色く汚れた歯の間には所々隙間があって、生活の劣悪を如実に表している。


 だが、同情などしている暇はない。定親王は最後の一押しとばかりに斬撃を放ち、男はかろうじて匕首の刃でそれを受け止める。余裕のある表情を見せる親王に対して玉のような汗を一杯に浮かべ、じりじりと後退していく暴漢。勝敗はもはや誰の目にも明らか。そう見えていた。


「……まずい!」


 だが、もう一幕あった。後から目撃したアルサランの話も合わせると、こんなことがあったのだ─けど突如、男の背中がぐにゃぐにゃと脈打つと、服を食い破るようにして、『三本目』が出た──禍々しく、鋭い爪に似た尖りを持った三本目の腕が現れると、誰かが止める暇も無く、定親王の背中に突き立ったのである。


「定親王殿ッ!」


 誰かの絶叫を契機に、その場に辛うじて保たれていた秩序が完全に崩壊した。二人の御前侍衛──後から聞いたところでは、駙馬拉旺多爾濟ラワンドルジと同じく丹巴多爾濟ダンバドルジ──が剣を構えて男を背後から切りつけたのを筆頭に、恐れのタガが外れた侍衛達が次々と殺到し、殺そうとする者と生け捕ろうとする者の間での同士討ちを含んだ凄惨な光景が展開された。


 ぼくは手傷を負った定親王とアルサランをかろうじて救出し、順貞門の中に避難したが、混乱に巻き込まれた皇族の中には重い傷を負った者も少なくなかったという。


 その後、帝の勅命を持った領侍衛内大臣らが駆けつけて場を収集し、驚くべきことに息も意識もあった暴漢の男をひっ捕えて獄に下した。一応形の上で事件そのものに決着がつく頃には、既に紐落ちて、遥か遠くで戌の刻を告げる時鐘が重々しく鳴り響いていたのだった。


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