第4回 容疑者

 さて、アルサランが孫侍医を宗人府に連れて行く為の手続きをしに役所へ戻っている間、ぼくはひどく青ざめた面持ちでその時を待っている彼の方に目を向けて、


「そういえば、その馬車を操っていたという御者についてだが」


「は、はあ」


「彼は今この屋敷にいるのか?」


「はい。使用人長屋の自室に眠らされていて、わたくしの助手が世話をしています」


「ならば、一度顔だけでも見ていこう。何、意識不明の負傷者を強引に揺さぶり起こすような真似はしない。遠目から少し見るだけだよ」


「は、はぁ。畏まりました」


 半分以上曲がり切った腰をえっちらおっちらと抱え、老人がぼくの先を歩いて主屋を出ると、東西の壁を端から端まで渡す様な形で、使用人長屋の扉が連なっているのが見えた。なるほど、あの向こう側が庭園ということらしい。


 道中すれ違った他の召使達は、皆揃えてぼくの方をじっと見ては視線を逸らし、中には横顔を一瞥するやこそこそと内緒話を始める若い侍女などもいたが、生憎と漢語が不得手なぼくは俗っぽい口語は上手く聞き取れないのだ。


「こちらでございます、殿下」


「あぁ」


 ぼくの目の前で、使用人が寝泊まりする粗末な一間に続く引き戸がゆっくりと開けられると、包帯に染み込んだ酒精と傷に使われるのであろう、生薬を練り込んだ軟膏の匂いが鼻をつく。


 見れば、部屋の真ん中には金盥が一つ置かれており、無愛想な顔をした若い男がそこに手拭いをつけては搾り、眠り続ける患者の汗や汚れを拭いてやっている。その患者というのは隅の簡素な寝台に身を横たえていて、辛うじて命だけを保っているという様な風情で、苦しげな呼吸を繰り返していた。


「これが、その御者か」


「はい。名前は葉天祥、歳は二十三です。彼は別荘へ行く時いつも御者を務めていましたが、今回の大事故で傷を負ってしまったのです」


「なるほど、不運な話だ」


 顔の半分以上は白い包帯で覆われていて、それ以外にも骨が折れたりひびが入ったりしているのだろう、どす黒く腫れ上がった傷に布を当て、脚を吊り上げて固定している。これだけでも、彼の体が被った苦痛を推察するには余りある状態だった。


「(すっかり形が変わってしまっているが、包帯の下の顔は存外整っているようにも見えるな。体つきも精悍に引き締まっていて、いい男だ)」


 さて、お前は一体何を見たんだ。願わくば目を覚まし、口を開いて教えてくれ。そんな詮無いことを頭の中で考えていた時、


「瀏親王殿下、お使いの方がお戻りです」


「早いな。今行く──それでは、老師。参ろうか」


「ははっ……」


 戸口から外に出ると、今にも雨を降らしそうな分厚い灰鉛色の雲が、空をずっと覆っていた。


 ちゃぽん。重い水が揺れる時の音を表現するのは、どうも難しい。どぷん、と言った方が今少し重く聞こえるが、これではどこか濁った水を連想させてよくない。たとえば、人が浸かれるくらいの水位で、尚且つ清潔な水が動き回るのを表す擬音というのは、無いものだろうか。


「また何かくだらないことを考えてますね、永暁さま」


「おや、どうして分かったんだ『名無し』」


「顔を見れば分かりますよ。ちょっと、失礼しますね」


 後ろに結び垂らした弁髪を解き、湯帷子姿になったアルサランは、普段よりもまた変わった雰囲気を纏っている様な気がする。浅黒い肌に湯気が当たってほんのりと色を染め、薄く張り付いた髪の下に見える引き締まった体つきを色っぽく浮かび上がらせている。


 彼は浴槽から熱めの湯を手桶に掬って取ると、一杯目は軽く自分の体にかけて、二杯目はそのまま奥の鏡台の前に持って行った。体を軽く洗うための糠袋と石鹸を手に取りながら、彼は言う。


「永暁さま、医師殿のお話については、どう思いますか?」


「うん?あれか、老貝勒の死は事故ではなくて、殺人であるという告発の話だろう」


「はい、そうです」


「そうだな、検討に値する事項ではあると思う─尤も、それをすると、ぼくたちは具体的な犯人像の提示であるとか、動機の解明といった面倒な作業に従事せざるを得なくなるけれども」


「その面倒な作業を追い求めていたんでしょう?永暁さまは。目がきらきらしてるのを抑えきれていませんよ」


「バレたか」


 苦笑いしつつ、ぼくも床に埋め込まれた浴槽の中で身じろぎした。万事質素を旨とし、父の代から殆ど手をつけていないこの屋敷の中で、唯一少なくない銀をかけて改装したのがこの湯殿である。床と浴槽を肌触りの良い高級な石材で造らせ、蒸気風呂と熱気風呂もついでに併設し、大量の湯を沸かせる様にかまど周りにも随分と手を入れた。


「(お陰で考えをまとめるには良い場所になる)」


 ぼんやりと高い天井に登る湯気を眺めながら、ぼくはあの侍医が語ったことを一つ一つ、記憶の頁から取り出していく。


「(脳漿に入り込んだ細かい鉛の破片、か)」


 棍棒の様なものを使って人を殴打する時、威力になるのは単純な重さだ。太い木の棒よりも鉄の棒の方が強い様に、目方とは戦場においては一つの正義だ。


「鉛は柔らかく加工しやすい上、市場にも多く出回っている金属の一つだ。しかも、鉄に比べて同じ体積あたりの重さが大きい。木の棒に埋め込むだけでも相当な威力になるぞ」


「破片が入り込んでいた、ということは、やはり鉄の鋲みたいにして打ち込んだと考えた方がいいんでしょうかね」


「可能性は高い。それから、もう一つ気になる点があってな」


 事故にあった時、老貝勒は馬車を操る御者の他一切付き人や召使の類を連れていなかったらしい。お前も普段からそんなことをしているだろうが、と言われれば何の反論もできないのだが、それはあくまでもぼくの感性がおかしいのであって、普通の身分ある人間ならば決してしないことだ。


「となると、まさか貝勒は予め殺害された上で、馬車に載せられた可能性があるということですか?」


「お忍びで別荘に行った帰りだったらしい。屋敷の外でのことだ、もしかしたら物盗りかに何かに殺されたのを、隠して京師に移送する途中で起こった出来事だったのかも知れん」


「でも、そんなに死亡時間に差があったとしたら、検視の時に気づかれると思いますがね……」


「まあ、これは突拍子もない可能性の一つだよ。だが、実際鉛の破片が頭蓋の中に入り込んでいたということは、単なる事故死ではどうしたって考えにくい事態だ。この案件には間違いなく、『何か』あるぞ」


「何かって……一体なんです?」


「それはわからん。だが、人間が死ぬということには必ず理由がある。理由のない死というのはこの世には存在しないわけだ」


「死の理由、ですか」


「殺人であれ事故であれ、何にせよ報告書は作らねば収まるまいな──可能ならば、意識不明の御者からも話を聞きたいところだが、面会を謝絶されては仕方ない。根気良く治療を待つしかないだろう」


「永暁さまにしては随分と、物分かりのいいご判断ですね」


 髪と体を洗い終えたアルサランがぼくの隣に体をつけて、ふぅ、と大きな息をつく。せっかく足を伸ばせるほど広く造ってあるのに、わざわざ狭いところに集まらなくてもよかろう。


「遠くの方はお湯がぬるいので」


 そんな言い訳をして、今日もこいつはぼくの側で休んでいる。多分、明日もついて来るだろう。


「アルサラン、明日は暇か?いや、暇だろう」


「断定されるのは気に入りませんが、暇ではありますね」


 こうして、明日の予定は決まった。

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