第3回 訪問

 崇文門。三階建ての高楼の下を潜り抜ける車からは、ツンと鼻をつく酒の香りが漂っている。ガラガラと木製の車輪が回る音を小耳に挟みながら、ぼくはぼそりと呟いた。


「相も変わらず人通りの多い門だ。流石のぼくでも馬を簡単に進められんぞ」


「何しろ、この都で一番忙しい門と言いますからね。すぐ側には通恵河の荷揚げ場があって、いつも品物のやり取りがありますので」


「宣武門の辺りとはえらい違いだ」


「あそこはどうも、死門ですから。野菜を買いに行く時以外は近寄りたくもないものですね」


 そんな軽口を叩いている間に、検分使の一行は目的地─老貝勒の邸宅前に辿り着く。このご時世、皇族といえども多くは零落し、庶民同然の暮らしを送っていることも珍しくはないが、流石は第三位の貝勒というべきか。門は朱塗りの立派な柱に支えられており、奥の方には『和光同塵』と記された扁額が掛けられている。


「『和光同塵』ねぇ。自分が菩薩とでも思い込んでいるのか。こんな豪華な屋敷に住んでおいて俗塵も何も無いもんだ。喉元まで世俗に浸かりきってやがる」


「永暁さま、口が悪いですよ」


「事実を指摘して何が悪いもんか」


「でも、その実瀏親王府の方が遥かに豪華じゃありませんか」


「当たり前だ。ぼくは世俗側の人間だからな」


「それもある種の仏道なんですかねえ」


「変なところで腑に落ちるな、お前。ほら、軽口はいいから早いところ屋敷に声をかけてこい。いつまでも外で待ちぼうけでは、向こうのほうも不審がるだろう」


「分かりましたよっと」


 アルサランは一旦馬を降りて門の方に歩み寄ると、先程からずっとこちらに不審の目を向けていた門番に対して、ぼくらが故貝勒の死について事情を聞く為に宗人府から来たことを伝え、取り次ぎを願い出た。


「帝の名代として参上した。何方か居られるか」


「ただ今、奥様にお取り継ぎ致します」


 との答え。奥様とは誰でしたか、言う顔の相棒を見てぼくは少し記憶の層を掘り返し、


「確か、王氏とかそういう名前だったと思う。前妻の劉氏が死んだ後、程なくして迎えた妻だ。まだ十年も経っていなかったはずだ」


「子供はいないんですか?」


「最後に見た戸籍では、娘は複数いるが男子はいない様だった。いずれも側室や愛妾に産ませた子供だ。となると、爵位は兄弟か庶子に承継される規定だが」


「ただ一階級降格する決まりですよね」


「そうなる。だが、近頃は皇族が多すぎて恩典や禄が財政の負担になっているんだ。成り行き次第では、このまま廃絶もあり得るのじゃないかな」


 元より皇族というのは多くの妻を持ち、それだけ子供も多く生まれる。康熙帝には二十人以上の皇子がいたし、乾隆帝はそれよりも多かったはずだ。それ以外にも傍流の親王や郡王などがぽんぽんと男子を産むものだから、数は世代を越すたびに増える一方だ。


「何しろ、嘉慶年間の戸籍に登録されている宗室だけで二万人以上、準皇族の『覚羅ギョロ』層まで含めれば、十万人近くになる。これだけの連中に恩典や禄を下していては国家財政は破綻まっしぐらだ」


「あぁ、だから永暁さまのところにも就職を世話してくれ、っていう宗室の方々がお見えになるわけですね」


「お待たせしました、瀏親王殿下。どうか中へお入りください」


 仰々しく正面の門が開かれ、ぼくらは駒を前に進めて屋敷の中に足を踏み入れた。ぼくは相棒の方を振り返って、


「ま、そういうことだアルサラン。とりあえずここから先は、口の聞き方に気をつけろよ。大家の未亡人ほど扱いにくい者もおらんからな」


「気をつけるべきは永暁さまでは?」


 さて。屋敷の中に通されてみると、門の構えに比べて中は存外質素であり、柱に絡みつく龍の飾りも、屋根を装飾する七宝や螺鈿の細工もなく、それこそ寺か道観の様な雰囲気を漂わせる建物が甍を重ねていた。


「こちらでどうかお待ちください。今、奥様をお呼び致します」


「奥様というのは、王と仰る方かな」


「はい」


「では、もし叶うならば、前の奥様の位牌も拝ませてもらおう。昔少し縁があったものでね」


「畏まりました」


「え、永暁さま何かお付き合いでもあったんですか?」


「あった様ななかった様な。まあ、覚えてはいないけどな。なんとなくだよ」


 淹れたての茶を少しずつ啜りながら待っていると、やがて髪につけているのだろう、金製の飾りがゆらゆらと揺れて擦れ合うあの特有の音と共に、一人の女性が客間の戸口に姿を現す。彼女はにっこりと笑ってこちらに頭を下げ、


「遠路はるばるご苦労様でした。故人の妻で王鳳琳と申します」


「こちらこそ。瀏親王永暁だ、宗人府宗令として検分に罷り越した」


 丁寧に結い上げた両把頭には金と七宝の飾りをいっぱいにぶら下げて、厚く塗り込んだ白粉の上にはよく目立つ紅を染め、ぱっちりとした瞳の奥にはぼくの顔までしっかりと映り込んでおり、こちらの眼に溜まった紅色までも読み取れそうであった。


 服装は深い緋色の緞子織に飛び回る孔雀の模様を刺繍した羽織に、胸元を大きく開いて強調する様な形の綸子の衣を合わせていて、全体的に兎に角目の毒だという印象を抱かせる。


「(夫を亡くしたばかりの妻には思えないな)」


 歳は二十五か、三十路に手が届いたとしてもそう大きく過ぎてはいないだろう。妻に先立たれた貴族や士大夫が若い女を後妻に迎えたと聞けば、基本的には財産目当てか愛人を囲う淫婦かと疑いを向けられるが、この時のぼくもまた例外ではなかった。


 何しろ、艶めかし過ぎるのだ。妻としてある程度過ごした女に備わった落ち着きが無く、男を常に狙って誘い込もうという濃い色気をいっぱいに振りまいている。


「これはこれは、瀏親王殿下。我が夫が生前御懇意を願っていたと伺っておりますわ」


「(どういう色を含んだ目なのだ、それは)」


 仄かに赤らんだ頬は化粧の為せる技か、それとも本当にこちらに媚を売ろうというのか。生の人間の欲望が自分に向けられていることを自覚すると、どうにも抑え難いぞわぞわとした感覚が背中に走る。ぼくは内心椅子ごとこの女を蹴り飛ばしてやりたい衝動と闘いながら、なんとか二の句を継いだ。


「……本日は、正式な弔問ではなく、故老貝勒がどの様にして身罷られたか、その事情を伺いたく、足を運ばせてもらった。聞けば不幸な事故だったそうだが、心からお悔やみを」


「ありがとう存じます。お話しするのも恥ずかしいことではございますが……ひとまずは、夫の顔を見てやってはくださいませんか?」


「そうさせてもらおう。ほら、行こうか」


 ぼくが立ち上がると相棒も共に立ち上がったので、ガチャガチャと刀が腰で擦れ合う金属音が響く。これだから武器は嫌なのだ、と言いたいところだったが、無ければいざという時身を守れないので仕方がない。


 京師の住処というのは基本的に皆、同じ構造を取る。中央に中庭を置いてそれを囲う様に建物を建て、隣接する棟も同じ様にし、最終的には中央の棟を囲い込む様にして更に大きな屋敷を形成していく。下級士大夫の家から帝の住まう紫禁城まで、この形に則らない家というのは中々ない。


 老貝勒の屋敷もご多聞に漏れずその形をとっており、中央の主屋に主人の居室と祖先を祀る霊廟を設け、左右の建物を通じて子供一家や妻、使用人たちの住む長屋へ向かえる様になっている。


 唯一の例外は庭園の中核にある離れであるが、元々多くの屋敷では形式に則った邸宅の部分と、主人の趣味が自由に反映される庭園を殆ど別のものとして分離する為、さしておかしいことではない。ぼくの屋敷でもそうしている─例え狭苦しく、庭というより家庭菜園ほどの広さしかなかったとしても、だ。


「離れには誰か住んでいるのか?」


「亡き貝勒様の御息女で、我々は『六の格格ゲゲ』様とお呼び申し上げております」


「ふうん」


 まあ、そんなところだ。


 貝勒の遺体は生前長い時間を過ごしていたであろう主屋の寝室に安置されており、正式な葬儀の予定が決まった後には、霊廟の方に移して弔問を受け付ける予定だと王夫人は言った。


「主人でございます」


「お目にかかります」


 アルサランが丁重に頭を下げるのをよそに、ぼくはそのまま前に進み出て、寝台に寝かされた老人の顔をじっと覗き込んだ。


「(やはり、とても若々しいな)」


 愛新覚羅弘侃、享年八十一歳。雍正元年に生を受け、三代の皇帝の世を過ごした帝室の長老ともいうべき人物。しかし、寝台で永遠の憩いに至ったその表情はあまりにも若々しく、白くなった髭を生やしている他は、少し老け込んだ五十代の男と言われても素直に信じてしまいそうだった。


「肌には皺一つなく、亡くなる直前まで元気に遠乗りに出掛けていたとか」


「あやかりたいものだな、本当に」


 老人の遺体には既に一通りの清拭や死化粧が施されている様で、見たところ事故で亡くなったという悲惨さの面影は見えない。しかし、相棒がゆっくりとその頭を支えて後ろ側を覗き込むと、思わずうっと顔を顰め、


「酷い傷跡だな、これは」


「どうだ、アルサラン」


「頭が全体的に大きく裂けてしまっていた様です。今は縫合されているみたいですが、発見した時には手遅れなのが明らかだったでしょうね」


「そうか……」


 だとすると、事故の詳細がやはり気になってくるな。ぼくは小さく頷くと、


「それでは、供物の類は後で渡すとして。客間に卒去の確認をした医師を呼んでくれないか。話を聞きたいから」


「は、はあ」


 形式的な訪問と調査ではないのか?そんな思いが王夫人の顔一杯に浮かんでいた。だが、元々ぼくがそんなことを言った覚えはない。言ったとしたら、こいつの責任である。


「なんでそこでわたしを見るんですか、永暁さま」


「いや、なんとなく……まあその、なんだ。貝勒ともなれば、屋敷に専属の侍医がいる筈だ。そいつを連れて来てくれないか。あと、実際に馬車を運転していた御者にも会えるならば会いたい。その話を聞き終えたら、改めて報告書に直して帝にご報告申し上げることにするから」


「……畏まりました」


 「帝」の一言はやはり強いものだ。そんな思いを新たにしつつ、客間で再びじっと待っていると、四半刻程してその侍医とやらが姿を現す。こちらは歳の頃五十そこらであると自己紹介していたが、主人のそれに比べて何という老いさらばえ方であろうか。身体全体から疲労と苦痛の煙が溢れ出ている様で、かの北斗星神が居ればこの様な姿であろうとさえ思わされる。


 名前を孫惟庸と名乗った彼は、ぼくに対してよぼよぼの腰を屈して挨拶をしようとしたので、慌ててそれを留め、


「老師どの、ご足労をおかけしてすまない。だが、これも仕事だと思ってくれ。其方の専属医師としての最後の仕事だ」


「はい、殿下。検案書はこちらに用意しておりますので、お目通しくださいませ」


 侍医はそう言って手に持った文箱から、麻紐でまとめられた何枚かの紙の束をぼくに差し出した。びっしりと漢文で記されたそれは、老貝勒の死に関する詳細な報告書であり、件の馬車の事故に関する記述から、外部観察の範囲内でわかる身体の損傷についての詳細な記録を含んでいる。それを見てぼくは思わず顔を顰め、


「(おいおい、見るだけで頭痛がしてくるぞ。複雑な単語が多すぎるじゃないか、これは)」


「永暁さま、代わりに読み上げましょうか」


「頼む、相棒。あと、ぼくにこんな難しい漢文の文章は読めない。今後はみんな満文で書けと伝えてくれないか」


「無茶です、永暁さま。というか、いい加減漢文のお勉強もしっかりして下さいよ、全く」


 不得手のぼくに代わってアルサランは報告書を引き取り、その大まかな内容について報告してくれた。曰く、まずは老貝勒の死は次の様な状況で引き起こされたものだった……。


 嘉慶八年閏二月十六日。


 春には珍しくもない、一寸先も見通せぬ濃い朝霧が立ち込める中でのこと。京師の郊外を流れる永定河の辺りで、横転し激しく損壊された馬車が発見された。轅は根っこの辺りから引きちぎられる様に破壊され、車輪の片方は脱落し、乗客が座る部分が辛うじて形を留めるのみという凄惨な状況である。


 馬は早々に逃げ出したのか姿はなく、代わりにすぐ側には御者と思しき男が重傷の状態で倒れており、車の中には主人であろう豪華な服を着た貴族が頭から血を流した状態でぐったりとしていた。


 旅人の通報により、すぐさま周辺の宿場や砦から人が派遣され、事故の救援のために駆けつけた。殆ど粉々になってしまった馬車は、装飾の豪華さからして公爵や皇族の持ち物であると予想が立てられたことも騒ぎを大きくする一端となり、その日のうちには京師の人々の間で、大事故の噂が広まるに至った。


 駆けつけた兵士と医師の対応により、重傷を負っていた御者─屋敷お抱えの若い者だったそうだ─は一命を取り留め、意識不明の状態が続いてはいるものの、京師への帰還を果たした。しかし、彼の主人である貴族、即ち弘侃貝勒は頭部に致命傷を負っており、その場でほぼ死亡の扱いとなった。正式に宣告が為されたのは遺体が京師の屋敷に帰還した夜のことであり、戸籍上はこの時の時間を以て死亡時刻となる。


「頭蓋骨はほぼ一直線に破断して出血がひどく、一部には脳漿の流失も見られた。発見当初から呼吸や心臓の鼓動も確認できず、一通り救命措置を試すも、効果なく卒去と判断す……だそうですが」


「理に適った判断だな。其方は現場の医師の判断を追認する形で死亡を宣告したのか?」


「はい。ですが、お屋敷にご遺体が戻られた後も、再度わたくしの目で傷口の確認を致しております。この報告書にある通り、傷はひどく深く、事故によってつけられたものだとしたら、即死は間違いなかったでしょうな」


「待て、今其方は、事故によってつけられたものだと『したら』と言ったな。どういうことだ、一体」

「ちょっと永暁さま、落ち着いて下さい」


 ぼくは半ば本能的に椅子から立ち上がると、驚きに目を見開く老侍医の襟首を掴み、半ば釣り上げんばかりに力を込めて吠える様に問うた。


「もう一度聞くぞ、老師殿。『したら』とは何の謂だ。何故そんなくだらない留保をつける?漢人ニカンの言語では、いちいち自分の主張に仮定形をつけねばならぬという文法があるのか?」


「永暁さま、早口の満洲語では聞き取れませんよ!」


 アルサランは激昂寸前のぼくに代わり、冷静な調子で孫侍医の耳に何かを囁く。恐らくはぼくの質問を幾分か柔らかくした内容を伝達したのであろう。老人は何度か首を縦に振って、


「じ、実は脳漿の中にですな」


「中に?」


「鉛の、鉛の破片が入り込んでいるのを見つけたのです。すごく、ごく細かいものですが」


「「それを早く言わんか!」」


 期せずして相同した二人分の叫びを聴いて、バタバタと庭で鳥が飛び立っていく羽音が聞こえる。賢い選択だ。


「老師殿。まことに済まないが、貴殿は今から宗人府に御足労願い、詳しく話を聞かせてもらうことになる。何、案ずるな。老貝勒の死に不可解な点が無いかどうか、改めて確かめるだけのこと。拷問の様なことは決して行わない。いいな?」


 にっこり。最も甘く、最も辛く、それでいて鋭い笑顔をくれてやると、孫侍医は氷の棒を背中に差し込まれたかの様に震え上がり、糸で吊るされた人形同然の姿勢で、


「ご、ご命令に服します!千歳、千歳、千千歳!」


 おい、これじゃあぼくが悪役みたいじゃないか。

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