二
「どうしようかね、これ。骨董品店にでも売るか?」
大勢の親戚たちが集まって、祖父の実家の蔵を整理中、多くの骨董品がゴロゴロ出てきた。
もう動かない時計やオルゴール、さらには置物まで。そもそもこれが本当に骨董品としての価値があるのかどうかはわからないが、かなり古いものであるのは確かだ。
「どうせガラクタでしょう。捨てちゃいましょ」
少し小太りな叔母がそう言ったのを聞いて、ほとんど手伝いもせずに見ていただけの由奈が慌てて止めた。
「ちょ、ちょっといいですか?」
「なんだい由奈ちゃん。なにか欲しいものでもある?」
欲しい物。欲しいのだろうか。少なくとも今までこんなものを欲しがった覚えはないが。
「これだけ、いただいてもいいですか?」
親戚たちを押しのけて手に取ったのは、手のひらサイズの懐中時計。凝った模様が掘られてはいるが、特別目立つようなものではない。
それでもなぜか、これだけは持っていたかったのだ。
眼鏡の位置を直しながら尋ねた由奈に、みんなは少しとまどいながらも頷いた。
「ありがとうございます」
頭を下げて、足早に蔵を後にする。太陽の下で明るい場所で見てみると、さらに奧深い"なにか"がある気がして、心が踴った。
当然時を刻んではおらず、二時五十二分で止まってしまっている。電池を入れたらまた動くだろうか。それとも、もう……。
少し周りを散歩するだけのつもりが、時計に魅入っている内に知らない道に迷い込んでしまったようで、慌てて足を止めた。
不安から指で髪をくるくるといじりながらスマートフォンを見たが、圏外で現在地を調べられない。
「圏外って、なんでこんな街中で……」
とりあえず元来た道を辿るべく引き返し、少しでも見た事のある道に出ないか辺りを見回す。とはいえ、年に二回ほどしか来ないので、駅から家までの道くらいしか自信が無い。辺りを見て場所の検討がつく訳もなかった。
あまり遠くには来ていないはずだ。しばらく歩けば、知っている道に出られるはず。そう信じて歩いている内に、建てられてから相当な年月が経っていそうな木造の骨董品店が見えてきた。
「つ、くも……がみ、専門店……?」
付喪神というのはなんだっただろうか。というより、神様を専門に取り扱う店とはどういうことだろう。窓から見える感じではただの骨董品店のようだが。
しかし、由奈を招くようにひとりでに扉が店側へ開いて、ぽかんとしてしまった。
少し怖いが、道を聞けるかもしれない。駅の場所だけ尋ねよう。そう考え、恐る恐る店内へ足を踏み入れた。
「すみませーん、誰かいますかー?」
一応すぐに閉められるようにドアノブに手をかけながら、店の中を見渡す。大小さまざまな置物やガラクタにしか見えないもの、私よりも一メートルほど大きい振り子時計もある。店内を照らすのはところどころに点在するオレンジの小さなランプのみ。外観から感じるイメージよりもかなり広いようで、数えきれないほどのものが一つ一つ丁寧に置かれている。
「あの、道に迷ってしまって……道を聞きたいんですけどー」
返事がない。聞こえないのかと思って中に入ろうとすると、奥の壁ががたんと音を立てて左右にずれた。扉のような形ではなかったはずだ。隠し扉のようなもの、だろうか。
壁の中から出てきたのは、淡い朱色の着物を着た十一、二歳ほどの少女。日本人形のような整った顔つきと美しい髪に、思わず言葉を失ってしまった。
「いらっしゃいませ。付喪神専門店へようこそ」
見た目に似合わず落ち着いた口調の、透明感がある声。
「あ、えっと、私お客さんじゃなくて、道を聞きたいんですけど……」
慌てて事情を説明したのだが、少女は首を横に振った。
「いいえ、あなたはこの店の大切なお客様です」
「えっ?」
聞き返すと、少女はくるりと自分が出てきた方へ踵を返した。
「どうぞこちらへ」
恐る恐るついていくと、五角形のお店よりもさらに暗い部屋へと案内された。天井がかなり低く、背の高い男の人ではかがまなければ入れないだろう。
揺り椅子、机とその上に置かれたからくり人形以外は何もない本棚に囲まれた部屋。ぎっしりと詰められた本の背表紙には何も書かれておらず、どのような本なのか見当もつかない。
「そちらの懐中時計を見せてください」
そう言われて、左手に握っていた懐中時計を差し出す。
「これがなにか……?」
すると、少女は私の手からそっとそれを取り上げた。ひんやりとした小さな手。
「ええ、とても大事に扱われていたのですね」
大事そうに手で包み込みながらつぶやく様は、まるで時計と会話しているようだった。
「柏木由奈さん」
突然私の名前を呼ばれて、驚いて固まってしまう。
「彼をここまで連れてきてくださって、ありがとうございます」
「えっ? どういう……あなたは……?」
困惑している私に、彼女は優しい笑みを浮かべた。
「ここは付喪神専門店。付喪神様をお迎えし、平穏をお与えするのがこの場所のお役目なのです。私のことは店員のようなもの、と理解していただければそれで結構です」
「付喪神って、その懐中時計に?」
開いた口が塞がらないとはまさにこういうときのことを言うのだろう。少女はうなずいて、私に懐中時計を返した。どれだけ見つめても、この中に神様が宿っているとは思えない。
「驚くのも無理はありません。ですが、由奈さんには決めていただきたいのです。その懐中時計に住まう付喪神様の未来を」
いよいよ話がわからなくなってくる。そんな私をよそに、少女は本棚から深緑色をした表紙の本を手に取った。
「これはこの付喪神様の記憶、懐中時計の記憶です。かなり大切にされていたようで、付喪神様が宿る前の記憶も残っています。ある意味では、由奈さんのおじいさまの記憶の断片とも呼べるかもしれません。由奈さんに差し上げます」
「記憶、ですか?」
「ええ。どのようにしておじいさまの手に渡り、どのように扱われたのか、それがわかる本。というよりは、わかるように言いますと絵本でしょうか。文章ではなく絵によって付喪神様の記憶の一部が描かれています」
そう言って、少女は少し色あせた表紙をめくった。あくまでイメージのようで、はっきりとした絵ではない。薄墨のような淡い筆跡で、懐中時計を手にしている一人の女性が描かれている。幸せそうな笑みを浮かべているその人は、なぜだか祖母であるような気がした。
声が聞こえる。よく知っているようで、少しだけ若い声。
『一生大切にしますね』
『照れくさいことを言ってくれるな、君は』
次のページは男女が寄り添っている姿が描かれていて、女性の手に懐中時計が大事そうに握られていた。
『また持ってきているのか』
『ええ、だってこれは特別ですもの。あなたが私に送ってくれた、最初の品。身に付けない方がおかしな話です』
懐中時計が時を刻むとともに、二人は少しずつ、それでも確かに歳をとっていった。同じように懐中時計もその役目を果たせなくなっていく。
『そろそろパーツの替え時かしら』
『もう四十年くらい経つだろう? 新しいのを買ってあげるよ』
『でも、これは……』
『普段から使っていなくたって、持っていてくれるだけでうれしいものだからね』
『そう……? それじゃあ、甘えようかしら』
懐中時計がその時を止めて役目を終えてもなお、祖母はポーチの中に入れて持ち歩いているようだった。
暗闇の中で、幸せそうな声だけがかすかに届く。しかし、静かな平穏は長くは続かない。
『まさか、君が先に逝くとはなあ……』
祖父の手には、祖母が肌身離さず持ち歩いていた懐中時計が握られている。
『――きっとすぐ会いに行くから、寂しがらずに待っていておくれ』
次のページではもう、蔵の中にひっそりとしまわれていた。
「これはもともと、おばあちゃんのものだった……」
蔵にしまわれてしまったのはこの幸せな時間を思い出して悲しくなるからだろうか。しかし、この懐中時計にとってはそれこそ悲しいことだ。
無言で、懐中時計を握りしめる。少女はそっと本を閉じて私に渡してきた。あまり厚い本ではないはずなのに、ずっしりと重みが伝わってくる。
「神様とはいえど、付喪神様の多くは力も弱くなにか権能を持つわけではありません。大切に扱われたものがその記憶によって意思を持つことで、神のような存在となるのです。当然悪い扱いを受けたものは神などにはなれずに、むしろもののけを宿すのが関の山ではありますが。ほとんどの付喪神様は、存在に気づかれることなくそのものの形が失われると同時に消滅します。ですから、あなたのように付喪神様の気配を感じた者に、このようにして付喪神様をこちらへ連れてきていただいているのです」
あのとき、私が捨てられそうになった懐中時計を持ち出したのは偶然なんかではなく、付喪神の気配を感じたからだという。そのようなことを言われても、にわかに信じられる話ではない。
「私、霊感なんてないと思いますけど……」
「ええ、ここへ付喪神様を連れてきてくださる方のうちの多くはそういった能力はないと言います。ほとんどの場合が持ち主や、あなたのように持ち主であった人の血縁者が、迷い込むようにして付喪神様をここへと連れてきてくださいます」
不思議なことですね、と微笑む姿は、私よりもずっと大人に見えた。
とはいえ、と少女はさらに続ける。
「付喪神様の全てがこの場所に導かれるわけではありません。この懐中時計のようにものとしての役目を終えたり、不要とみなされてしまったり。その中で静寂を望んだ付喪神様だけがこの場所へ来る可能性を得ることができます。ものである以上、使われることを望むのが当然のことではあります。しかし、使われなくなってしまったのであれば静かに眠りたいと考える方も多いのです」
ここにあるもの全てに付喪神様が宿っていて、静かに眠っているということ。
「だから、付喪神専門店……この本はどうやって?」
悲しいようで、こういった本のような形で記憶を残せるのであれば良いことでもあるように思えた。
そもそも、時計の記憶をどのようにして本にしたのだろうか。考えてみればありえない話。声が聞こえるのも説明がつかない。
「説明するとなると難しいのですが……」
ふとした疑問に、少女は少し沈黙してから、小さな声で笑った。話すときの声音とは違うかわいらしい笑い声。
「では、私は何者だと思われますか?」
「え、それはここの店員さんで……」
唐突な質問に戸惑いながらも答えると、少女は首を横に振った。
「素直なお方なのですね。このような年端もいかぬ娘が、一人でお店を切り盛りできると思いますか? もちろん、正確にはここはお店ではないのですが……」
確かに、そもそも彼女は働いていいような年齢ではない。ごもっともな指摘に納得しながらも、さらなる疑問がわいてくる。
「それじゃあ……?」
「付喪神なのです。その時計に住まう方と同じように」
言葉が出ない。今まで会話していたのは人ではなくて。
もうすでに現実が受け入れられていない状況なのに、さらなる衝撃で思考が停止してしまった。
「あなたが? でも、なにかの中に宿るって……」
そこまで言ってからようやくピンときて、思わず声をあげてしまった。
「ええ、私はこの建物に住まう付喪神。ですから、この建物の中に入ってきた由奈さんや付喪神様のことはある程度把握できるのです。もともとこの建物は普通の骨董品店として人間が営業していましたが、他の骨董品店とは違って〝いわくつき〟の一品が取り扱われていました。霊感のあったこの建物の管理者は、その中から付喪神様が宿るものだけを買い取って、こうやって集めていたんです。その頃はまだそれだけのことでした。私の存在は認知されていましたが、ほとんど言葉を交わすことはありませんでした」
おもむろに店の方へ戻って、近くにあった万年筆を手にとる。
「この万年筆は男性、さらには彼の娘に受け継がれ大切に使われていましたが、ボールペンが普及すると同時に使われなくなってきてしまいました。では、この万年筆はどういった日々を過ごしたのか、見てみましょうか」
そう言って、私にてきとうに本を取るように言ってくる。言われるがまま黄土色の本を引き出して開くと、そこにはなにも描かれていなかった。
「あれ……?」
「ここにある本すべてに付喪神様の記憶が描かれていて、私がいらっしゃった付喪神様の本を手に取る。それではこの部屋ではとても収納するスペースはありませんし、不可能です。ですから、このように……」
少女が本に手をかざすと、にじみ出るように懐中時計の本と同じような絵が浮き出てきた。男性が手紙を書く姿や、女性が彼から万年筆を受け取る様子が描かれている。
「この本は確かに万年筆の記憶ですが、直接付喪神様の記憶が描かれているわけではありません。私が付喪神様から受け取った記憶をイメージとして白紙の本に反映させています。どうやらこんなにも付喪神様が集まってしまうとこの建物に――そして付喪神である私にも力が宿ってしまうようで」
どこかさみしさが含まれているように感じる言葉。
「気づけば、建物が霊体として現実と乖離してしまったのです。ここに住んでいた人間は実体としての建物に残り、私は霊体となったこの建物と共にあの世でも現実でもない狭間に放り出されていました」
にわかに信じられるような話ではない。それは少女も理解しているようで、信じてもらうために話しているわけではないようだった。
「ですが、骨董品店として存在していた時の付喪神様を集める性質は変わらず、むしろ強くなってしまっているようで、由奈さんのように時々付喪神様を連れた方がいらっしゃいます。私は、かつての主人と同じように付喪神様を集め続けることを選びました。さらに力を得た私は、この本棚に囲まれた部屋を創り出し付喪神様の記憶を記録し始め……ここに付喪神様を連れてきてくださった方にお渡ししています」
少女がしていることは素敵なことだ。少なくともここに迷い込んだ人や付喪神にとっては悪いことはないように思える。でも、彼女にとってはどうなのだろう。
「あなたは……これからもこの店を続けるんですか?」
「付喪神様がいらっしゃる限り、私はこの役目を果たす義務があります。だって、私はこの付喪神専門店の付喪神なのですから」
静かに、しかし揺るぎない意志が伝わってくる。
「辛くは、ないんですか?」
「〝辛い〟だなんて感情は付喪神には必要のない感情です。私たちは大切にされてきたものから生まれることができるもの。そもそも負の感情を抱くことはありえないのです」
そう言ってから、この話は終わりとでも言うように万年筆の記憶が書かれた本を棚に戻した。
「説明させていただいた通り、ここは不安定な場所ですから長居はよくありません。話をしてしまったのは私のほうではありますが……懐中時計、こちらでお預かりしてもよろしいでしょうか」
懐中時計に目を落として、一つ息を吐く。二人が大切にしていた宝物。そう思うと、手放すのが惜しくなってきてしまう。この少女が言うようにこの場所で眠らせてあげるのがこの懐中時計――付喪神にとってはいいことなのだろう。そうだとしても、手元に置いておきたいと願ってしまう。
「……もちろん、必ずその懐中時計をここで眠らせなければならないとは言いません。先ほども述べたように懐中時計の行く末を決めるのは由奈さんです」
「このまま持ち帰ってもいいということ?」
「大切にしていただけるのであれば」
長い沈黙。悩んだ末に、一つ結論を出した。
「この懐中時計、あなたに差し上げます。このお店にではなくて、付喪神のあなたに」
ずっと一人。それではたとえ付喪神でも、というよりは人に大切にされて生まれた付喪神だからこそ、辛いことだろう。ここにいる付喪神たちはあくまでお店のものであって、きっと少女が言っているように彼女のことを気にかけることなく眠っているのだろうから。
「この中にいる付喪神がどういう方かはわからないけれど、きっとあなたの話し相手になってくれるんじゃないかと思って……受け取ってもらえますか?」
少女は美しい笑みを浮かべて、うなずいた。
「由奈さんがそう決めてくださったのであれば、喜んで」
懐中時計を手渡すと、彼女は大事そうに胸元に抱えた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「あ、でもそれ、もう動いていなくて……パーツを変えたら動くかもしれないんですけど」
すると、少女は首を横に振って、私に懐中時計を見せてきた。さっきまで止まっていたはずの針がチリチリと小さな音を立てながら時を刻んでいて、懐中時計と少女の顔とを交互に見てしまう。
「これもあなたの……?」
「いえ、ここは現実とは少しだけ離れた世界。付喪神様が動くことを望めば、この針は動き続けます。たとえ柱が一本折れてしまっていても、バランスを保ったまま私を揺らしてくれる椅子のように」
背後の揺り椅子を見ると、たしかに左側の脚が一本折れてしまっていた。
「この椅子も?」
「はい。実は、お店にではなく私にと預けてくださる方は由奈さんだけではないのです。もちろんその中にいらっしゃる付喪神様が静寂を望まれたらいつものようにお店の方で眠っていただいているのですが……またこのお部屋がにぎやかになりました」
そう言う姿は嬉しそうで、安心した。この揺り椅子に付喪神がいるというならば、恐らくからくり人形やもしかしたら机にも宿っているのだろう。
「一人じゃなかったんですね……よかった」
「ええ。ですから、安心してください。お見送りさせていただきますね。外に出ることはできませんが、入り口まで」
ここにあるもの全てに付喪神が宿っている。入ってきたときには考えもしなかったことだが、それを知ってから見るとなんとなく特別なものであるような気がした。付喪神の気配のようなものは一切感じられないけど、そのくらいあいまいなほうがむしろいいのかもしれない。
出口まであと少しといったところで、唐突に一つの考えが浮かんで振り向いた。
「あなたの本は?」
「えっ?」
初めて、少女が冷静さを失ったように見えた。自分で驚かせておきながら無理もないと思うが。
「付喪神の記憶を本にできるのなら、あなたの記憶も本にできるんじゃ?」
困惑した表情を見せながら、まあ……と口ごもる。
「もちろん、勝手は同じでしょうから、可能ですが……」
「あなたの本もほしいというのは、だめでしょうか?」
彼女は少し迷いながらも、わかりましたとうなずいてくれた。
「待っていてください。持って参ります」
五分ほどで彼女が本棚から持ってきたのは、身に付けている着物と同じ朱色の本。
「ありがとうございます……!」
「これは、家に帰ってから読むようにお願いします。今はこの道をまっすぐ、振り向かずに歩き続けてください」
家が連なる一本道。その先はかすんでいてよく見通せない。改めてここが本来なら辿りつけるはずがない場所であると理解して、同時にもうここへ来ることはないだろうと気づいた。
「本日は付喪神専門店にお越しいただきありがとうございました。懐中時計は必ず、大切にさせていただきます」
その言葉に微笑んで、店の外へと足を踏み出した。振り向かない。少女に言われたように、帰ることだけを考えて歩き続けた。
気づけば祖父の家の前の通りを歩いていて、はっと振り向く。しかしそこには、見たことのある道が続いているだけだった。二冊の本はしっかりと抱えていて、さっきまでの出来事が夢ではないことを教えてくれる。
空は暗くなりかけていて、家に帰るとお母さんからかなりきついお怒りを受けてしまった。なんとかごまかして、逃げるように荷物を置いている部屋にこもる。一つため息をついて、本を読もうと椅子に腰かけた。
懐中時計のほうは一旦置いて、少女が最期に渡してくれた本を開く。
しかし、そこには何も書かれていない。次も、その他のページも全て白紙だった。
「どうして……」
もしかして、あの場所でないと読むことができないのだろうか。だとしたら、懐中時計の本も……。
ふいに少女の声が聞こえてきて、深緑色の本に伸ばしかけていた手を止めた。
『私の本を欲しいと言っていただきありがとうございます。本当はきちんと記憶をお渡ししないといけないのはわかっていたのですが、声を残させていただきます。申し訳ありません』
お店で聞いていたよりもいくらかやわらかい声音。
『……ですが、きちんと過去のこともお話させていただきます。店主とは話さなかったと言いましたが、本当は何度か言葉を交わしたことがあるのです』
それを聞いて静かに机に本を広げてしっかりと座りなおすと、それを待っていたように少女の声は語り始めた。
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