第2話 信州そばの情

えー、毎度、柴亭ぽち之助でございます。

旅というのは不思議なもんでしてね。

歩けば腹が減る、腹が減れば情に出会う。

そういう理屈になっております。



東海道を越えて、信州は雪の残る峠の道。

鼻の先が冷えすぎて、くしゃみが「わんっ」から「ぶぇっくしょん!」に変わる頃の話でございます。



寒さに震えながら歩いておりますと、

ふと風に乗って、香ばしい香りが流れてくる。


「こ、これは……そばの匂い!」


もう我慢ができません。

鼻の導くまま、藁葺き屋根の小さな店に飛び込んだんです。


「ごめんくださいわん!」


中では、白髪のそば職人がひとり、黙々とそばを打っておりましてね。

店は古びてるが、空気に張りがある。

まるで打ってるのはそばじゃなくて、人生そのもの……そんな感じ。



その職人が言うんですよ。

「犬の客は久しぶりだな。わしのそばを食うか?」


「食うわん!」と即答しましたね。


出てきたのは、湯気もくもく、信州そば。

口に入れた瞬間、鼻に抜ける香り……。

思わず涙が出てきましてね。


「うまい……人の情けが練り込まれてますわん」



すると、職人が少し寂しそうに笑って言いました。

「実はな、明日で店を閉めるんだ」

「え? なんでですわん?」

「息子が江戸でそば屋を始めてな、もう年だ。腰も抜けちまって…」

そう言いながら、腰をさすっておりました。



しばらくして、若い男が駆け込んでくる。

「親父っ!!」


聞けば、その息子さん。

江戸で繁盛してるが、どうしても親父の味が出せないってんで、

何日もかけて山を登ってきたんだそうで。



親父は言いました。

「そばの腰も、人の情も、抜けたら終わりだ。

でもな、やわらかすぎてもダメなんだ。

人には“しなやかな腰”ってのがいるんだよ」


息子、黙ってうなずく。

湯気の中で、二人の背中がそっくりでね。

あっし、胸がぽかぽかしました。



しばらくして息子さんが江戸に帰るとき、「犬さん、ありがとう」って、

お土産に小さなそば玉をくれたんです。


それを大事に抱えて峠を下る途中、

うっかり転んで、雪の中にぽとん。


でもね――その雪の中に、ふわっと湯気が立ちのぼった気がした。

きっと、そば職人の“情”が生きてたんですな。



旅は不思議なもんです。

味を求めて歩いたはずが、心の味に出会う。

そばの香りは、情の香り――

あっしには、そう思えてならねぇんですわん。



翌日、道端で野良猫が言いました。

「犬、お前そば食ったのかにゃ?」

「食ったわん」

「お前、それより“人の味”を覚えたんだにゃ」

……にゃんとも言えねぇやつでして。



「情けの味は、冷めても温かい。」


おあとがよろしいようで、わん。

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