第8話 それぞれの思惑

「嫌よ、あなたの奥さんと一緒に生活するなんて」


その晩、LINEで「どうする?」と訊いたのに対して奈緒はこう即答した。


「まあそうだよな。でもせっかくのチャンスをみすみす逃してしまって良いのか?」


「そりゃ残念よ。せっかく両親からも離れられるわけだし、通勤も楽になるし」


「だよな。俺らだけが辞退できれば良いけど、ルール上、お前らも辞退することになっちゃうからな」


「そうね。逆に慎司さんは奥さんを説得できるの? 都合が良過ぎるかも知れないけど、できればこちらが辞退したからではなく、お互いにそうしたという形にできれば良いんだけど」


「そうだな、ちょっと考えてみるよ」


とは言ったものの、菜穂子を説得できるロジックは思いつかなかった。ただ、彼女もあまりにも大きい生活の変化に少し戸惑っているところもあり、最終的に俺に一任するということになった。


そして迎えた土曜日。


広尾駅前のカフェで待ち合わせをする。お互いの住まいの中間地点であれば例えば新宿の方がアクセスも楽で店の選択肢も多かっただろうなと思うが、奈緒と二人で会う事が多い新宿を敢えて選ぼうとは思わなかった。


今回は子ども達二人に留守番をさせ、夫婦だけで来た。向こうもきっとそうするのかなと勝手に思っていたが、想像に反し奈緒は耕太くんを連れて来ていた。やはり義父母に預けるのは嫌と見える。この歳になれば一人で留守番もできないわけじゃないと思うが、一人っ子のせいか彼は少し幼く見える。


頼んだ飲み物が出揃ったところで、俺が口火を切った。


「今回のお話なのですが、とても素晴らしい条件の物件で、幸運にも恵まれてその物件に入居する権利を得たということなのですが、この都会の生活環境は必ずしも子ども達の為になるという訳でもなく、我々大人だけの都合で…」


そこまで言ったところで奈緒が口を挟んだ。


「あ、あの、私たちと致しましては、是非とも入居したいと考えていまして、神永さんたちにも是非ともご同意いただけないかと思っていまして」


そこまで一気にいうと、小さくふぅ、と息をついた。そして、口が開いたままになっていた俺を一瞬いつもの目で見たあと、


「いかがでしょうか。お願いします」


と頭を下げた。隣の旦那さんも慌てて頭を下げる。


「あ、いや、えっ?」


しばらく固まっていたが、隣の菜穂子に肘でつつかれて、かろうじて


「え、あ、まぁそういうことなら、よろしくお願いします」


と答えていた。


帰りの電車の中。菜穂子は「うん、あの方達なら絶対うまくいく」と何度も自分を納得させるように呟いていたが、乗り換えた後、疲れが出たのかいつの間にか寝てしまっていた。それを横目に奈緒にLINEする。


「ね、どういうこと?」


「ごめんなさい。実は耕太がどうしてもって言うから。お姉ちゃん、お兄ちゃんと一緒に住みたいって」


「んー、そういうことか。でもそれならそれで事前に連絡してよ」


「それもごめんなさい。実は今朝になってあの子がそれを言い出したのよ。たぶん私たちの話を聞いていてずっと思っていたんだけど言えなかったみたい。今朝出かける間際におばあちゃんのところに預けようとしたら嫌だ自分も行くって。それでもパパが無理やり置いていこうとしたら怒って泣いて、それでようやく『一緒に住みたい』って言ったのよ」


さっきは少し幼いという印象を受けたが、パッと見の穏やかさの奥に、強い意志と気性の荒さを持っているようだ。そこも奈緒の遺伝子を受け継いている。


「じゃ、お前はいいのか?」


「うん、もう吹っ切れた。菜穂子さんもとても優しい方みたいだし。私たちうまくやっていけると思う。それに慎司さんとも一つ屋根の下に暮らせるし(笑)」


「おいおい、寝室は別だぞ?」


「わかってるわよ(怒)」


これからどうなるのか皆目見当がつかないが、何か歯車が動き出したのは確かだった。

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