第17話 ドキドキしててもちゃんと当ててね
高校二年生の
父親が有名な弓術家で、美鈴は物心つく頃から、弓道の英才教育を受けて育った。
武道の基本は〈心・技・体〉だ。
特に、
「いつ、いかなる時も、平常心であれ。わかったな、美鈴」
「はい。お父さん」
美鈴は、父の厳しい指導のもと、苦行の果てに、若くして弓道の極意を会得した。
中学に上がる頃には、六十メートル先の、柿の実を射るに、百発百中。
高校生の今、すでに称号を有する高段者だった。
しかしその類まれなる才能と実力により、常に孤独であり、気軽に話せる友達はいなかった。
唯一、心を許せる親友で、部活仲間の
大多数の生徒は、美鈴の技に驚嘆し、畏敬の念すら抱いたが、
中には、陰口をたたく者もあった。
「まるで
「同感。無表情で、笑ったとこ見たことないし。
「いい気になってるんじゃない?」
心無い言葉が、美鈴の耳にも入ってきて、つらかった。
十二月も半ばに差し掛かかり、色鮮やかだった紅葉の山々も冬枯れて、高い山の頂は白く雪化粧をしている。
そんなある日のこと。
放課後の部活動が始まる頃、美鈴は弓道場で、明香にそっと声をかけた。
「ねえ、明香。部活が終わった後、話したいことがあるんだけど」
「うん。いいよ」
話したいことってなにかな、と明香は思った。
(やけに真剣な顔だったから、きっと大事なことだよね)
ほかの部員の前では、言いにくいにちがいない。
さて、いつも通りの練習メニューをこなして、部活は終了。
ほかの部員たちは皆、着替えを終えて、出て行った。
静かになった道場には、弓道着姿の美鈴と明香の二人だけが残った。
「美鈴、話ってなに?」
「わたし、弓道をやめたい」
「え、いきなり、どうして? 大活躍しているのに」
「前にも話したかもだけど、わたし、ドキドキしたことがないの。常に心の波を静めるよう、ずっとお父さんに言われてきたからなんだけど」
「それで弓道をやめるの? ドキドキしないって、むしろ良いことじゃない?」
「競技ではね。わたしの場合、ふだんの生活でも、そうなの。昔からずっと」
「まあ、たしかに美鈴って、表情に乏しいとこあるけど、私はわかるよ。ちゃんと見ているから」
「ありがとう。でも、周りはそうじゃなくて……サイボーグとか、鉄仮面とか、言う子もいるし」
「腹立つね。やっかみだって。無視してればいいのよ」
「悔しいけど、気持ちが淡泊なのは、当たってるかな。なにをやっても感動が薄いの。テストで百点を取っても、大会で優勝してもそう。だから、弓道から遠ざかれば、感情の起伏が戻ると思うの。わたし、みんなみたいに、ふつうの高校生として、明るく青春をエンジョイしたい」
「せっかく今まで頑張って来たのに? もったいないよ。やめるのは考え直した方がいいって」
「弓はすっかり
「なるほどね。中島敦『名人伝』、〈
「どうやって?」
「こうやって―――」
明香が迫ってきたかと思ったら、頬にキスをされた。
「えっ、明香、なんで……」
「
「それって……」
「そう、告白。ふふっ、美鈴、顔赤くなってる。それに、ほら、ここも」
「あっ」
明香がいきなり手を伸ばしてきて、道着の前合わせを、ぱっとはだけたものだから、美鈴は驚いた。
「ちょっと、明香、なにを?」
明香は片方の耳を、はだけた美鈴の胸に押し当てた。
「あっ、やめ……て」
「美鈴、静かに―――ほら、こうやると、心臓の音が聞こえるでしょ。ドクン、ドクンって。激しいけど、なんでかな?」
「それは……わたしも明香のこと、すごく好きだから、とっても嬉しくて……」
「ふふっ、わかってるよ。さあ、弓と矢を持って。その状態から的を射られる?」
「今から射るの?」
「そうよ」
明香は美鈴から離れて、弓立て、矢立てから、美鈴の弓と矢を丁寧に持ってきた。
いずれも名人美鈴に
「見事、的中すれば、弓道をやめてもいいわ」
と言いながら、すっと美鈴に手渡した。
「わかった」
美鈴は言われるままに、弓と矢を受け取ると、射場に出て的に向かった。
美鈴にとって、近的(28メートル)の的など、朝飯前だ。
目をつぶっても当てられるといっても、過言ではない。
射場の床にしっかりと足を踏み開き、構えを整えた美鈴は、
最高級といわれる、京の
一連の動作は優美そのもので、射形も完璧だ。しかし―――
(だめ。ドキドキが、まだ治まらない。指先まで伝わってくる。こんなこと初めて……)
それでも美鈴は、なんとか狙いを定めて、矢を放った。
幾ばくかの動揺があったとはいえ、名人と言われるほどの腕前である。
澄んだ
しかし矢は僅かに的を逸れて、
「あ―――」
美鈴は少なからずショックを覚えた。
「外れた……的を外すなんて、十年ぶり」
「うふふふ。まだまだ修行が足りないぞ、美鈴。やめるなんて言わないで、これからも一緒に頑張ろ。ドキドキしてても、ちゃんと当たるようにね」
「うん。ありがとう、明香。わたし、まだまだ未熟だ。弓道、続けるよ」
「練習はいつも付き合うからね。色んな方法で、ドキドキさせてあげる♡」
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