第2話
朝食の席に着くと、既にお父様とお母様が待っていた。
「おはよう、イザベラ。今日は早いのだな」
お父様が、少し驚いたように私を見る。
一度目の人生のこの頃、私は家族との関係があまり良くなかった。特に、厳格なお父様とは、ほとんど会話らしい会話もなかったように思う。
「おはようございます、お父様、お母様」
私は優雅にカーテシーをし、静かに席に着いた。
「まあ、イザベラ。なんだか今日は、とても落ち着いているのね」
お母様が、不思議そうに目を細める。
無理もない。以前の私なら、マリーが王宮に来る日だと聞いて、不機嫌さを隠そうともしなかっただろうから。
「ええ。今日から、王宮に新しい方がいらっしゃると聞きましたもの。公爵家の長女として、失礼のないようにしなければ、と」
完璧な模範解答。我ながら、虫唾が走るほど優等生な台詞だ。
しかし、お父様とお母様は、私の言葉に満足そうに頷いた。
「うむ。その心がけは立派だ。ヴァルディオス公爵家の名に恥じぬよう、努めるのだぞ」
「ええ、お父様」
食事中、私は努めて穏やかに、そして聞き役に徹した。
お父様が話す国内の政治情勢、お母様が話す今度の夜会の準備について。以前の私なら退屈だと感じていたであろう話も、今は重要な情報源だ。
処刑されるまでの六年間で、何が起こったのか。私はその全てを知っている。
この知識は、私の最大の武器になる。
「イザベラ、お前も今度の夜会では、アルフォンス殿下のエスコートをしっかりと務めるのだ。お前は、未来の王妃なのだからな」
お父様の言葉に、一瞬、ナイフを握る手に力がこもる。
アルフォンス殿下。あの男の名前を聞くだけで、腹の底が煮え繰り返るようだ。
しかし、私は表情を変えない。
「はい、お父様。殿下のお立場をお支えできるよう、精一杯努めますわ」
にっこりと微笑んで見せると、お父様は満足げに頷いた。
簡単なことだ。彼らが望む「完璧な令嬢」を演じるだけ。そうすれば、誰も私を疑わない。
朝食の後、私は図書室へ向かった。
そこには、兄のエリオットが分厚い本を読んでいる最中だった。
「おはようございます、お兄様」
「ん?ああ、イザベラか。おはよう。珍しいな、お前が自分からここへ来るとは」
エリオットお兄様は、私と違って読書家だ。一度目の人生では、妹である私のことをいつも心配してくれていた。私が処刑される時も、最後まで私の無実を信じ、助けようと奔走してくれた唯一の家族。
そのお兄様も、結局は権力に屈するしかなかった。
今度は、お兄様にそんな思いはさせない。
「少し、調べたいことがありまして」
そう言って、私は本棚から一冊の古い歴史書を抜き取った。
「ほう。お前が歴史書とはな。何かあったのか?」
お兄様の鋭い視線が、私を射抜く。彼は昔から、私の些細な変化にもすぐに気づく人だった。
「いいえ、別に。ただ、聖女様をお迎えするにあたり、過去の聖女様方がどのような方だったのか、改めて学んでおこうと思っただけですわ」
これもまた、完璧な言い訳。
お兄様はしばらく黙って私を見つめていたが、やがてふっと笑みを漏らした。
「そうか。お前も、少しは大人になったということか。良い心がけだ」
「からかわないでくださいまし、お兄様」
私は少し頬を膨らませて見せる。これも計算のうち。十二歳の少女らしい、可愛らしい反応。
「はは、すまない。だが、本当に感心しているんだ。今日のマリー嬢のこと、お前がどうするかと少し心配していたからな」
「心配?わたくしが、何かするとでも?」
「お前は、プライドが高いからな。平民出の娘が自分より注目されることを、面白くなく思うのではないかと」
さすがはお兄様だ。私の性格をよく理解している。
一度目の人生の私は、まさにその通りだった。
「まさか。わたくしはヴァルディオス公爵家の娘ですもの。個人の感情で、家の名誉を汚すような真似はいたしませんわ」
「……そうか。なら良いんだ。もし何か困ったことがあれば、いつでも私に言え。お前は、私のたった一人の可愛い妹なんだからな」
お兄様はそう言って、私の頭を優しく撫でた。
その温かい手に、思わず涙が溢れそうになる。
この人を、今度こそ守らなくては。私を陥れた者たちへの復讐は、このヴァルディオス家の名誉を守るための戦いでもあるのだ。
「ありがとうございます、お兄様。わたくし、頑張りますわ」
私は兄の胸に顔をうずめることなく、ただ淑女として完璧な笑みを浮かべた。
これ以上、誰かに甘えるわけにはいかない。
この復讐は、私一人で成し遂げなくてはならないのだから。
王宮へ向かう馬車の中で、私は窓の外を流れる景色を眺めていた。
見慣れた王都の街並み。しかし、今の私の目には、全てが違って見えた。
この平和な光景が、六年の後、偽りの聖女によってかき乱されることになる。
それを防げるのは、私だけ。
王宮に到着すると、既に多くの貴族たちが集まっていた。
皆、これから現れるという「聖女」を一目見ようと、期待に満ちた表情を浮かべている。
愚かな人たち。その期待が、やがて国を揺るがす災厄を招くとも知らずに。
やがて、広間の扉が大きく開かれた。
アルフォンス殿下にエスコートされ、一人の少女が姿を現す。
亜麻色の髪に、大きな青い瞳。小動物のように可憐な容姿は、庇護欲を掻き立てる。
マリー。
あの日、断頭台の上から私を見下ろしていた、憎い女。
彼女は、集まった貴族たちの数に圧倒されたのか、殿下の腕にしがみついて怯えたような表情を浮かべている。
そのわざとらしい演技に、吐き気がした。
しかし、私は顔に完璧な笑みを貼り付ける。
さあ、ご挨拶といきましょうか。
わたくしの、愛しい復讐相手に。
私はゆっくりと、人垣を分けて前へと進み出た。
周囲の貴族たちが、道を開ける。
誰もが、私とマリーがどう対面するのか、固唾を飲んで見守っていた。
一度目の人生では、私はここで彼女を睨みつけ、侮辱の言葉を浴びせた。
しかし、今は違う。
「ごきげんよう、アルフォンス殿下。そして、初めまして、マリー様」
私は、マリーの目の前で、完璧なカーテシーを披露した。
その声は鈴のように澄み渡り、表情は慈愛に満ちた聖母のよう。
マリーが、そしてアルフォンス殿下が、驚いたように目を見開くのが分かった。
してやったり、と心の中でほくそ笑む。
あなたたちの予想通りには動いてあげない。
これから始まるのは、あなたたちのための舞台ではない。
この私、イザベラ・フォン・ヴァルディオスが脚本を書き、主演を務める、壮大な復讐劇なのだから。
「私が、イザベラ・フォン・ヴァルディオスです。どうぞ、お見知りおきを」
笑顔でそう告げると、マリーは一瞬、怯えたような表情を見せた後、すぐにアルフォンス殿下の後ろに隠れた。
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