第7話 レイニーブーツ③

 彼は少しずつおかしくなっていった。




「五号、A-5の部屋には何がある?」


「人が五人。全員男。あと空魚が三匹」


 アサギは瞼を閉じ、完全に映像の供給を断っている。背中からコードを接続されて、モニターにはたくさんのデータが映し出された。


「ウスバも来てるんだね。生きていた時はどれほど物が見えていなかったか、思い知ったよ。ふふ」


 彼は硝子で隔絶された先にいるウスバに声をかける。よく笑うようになった。最初は見えすぎることに疲弊しているようだったが、段々とこの状況を楽しめるようになっていた。


「キミは今も生きているよ……」


「そうだったね」


 戸惑うウスバに対して、彼はまた笑った。






 極端に怒っている時もあった。早朝、眠っているウスバを見下ろして、手を握りしめた。


「私は君をウスバと呼ぶのに抵抗があるよ……だって君はお婆さんじゃないか。ねえ、ウスバはどこに行ったの?君は偽物なんでしょう?どこかに隠しているんでしょう?かえせ、ああ、返せよ、偽物。返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ。ふふ、これだって狂っているフリだ。早く本物の身体が欲しい。私の身体。同期している身体、血の通った身体、こんな玩具じゃない身体」


 アサギがウスバの首を握って持ち上げる。


「ア、サギ……痛い、痛いよ」


 ウスバがうめき声をあげるとぱっと手を放した。音を立てて車椅子の上に落ち、反動で後退する。


「痛いってなんだっけ?忘れたな」


 ロボットが小首を傾げる。ウスバは恐怖でものが言えない。


「忘れるのって人間の脳の特権なんだっけ?忘れたな」


 彼は顔を覆って、しばらく考えている。ウスバの息が荒い。うまく呼吸できない。


「わかったよ。私達、深海に住んでいるから、雨を知らないんだ」


 突然アサギは笑いだして、そのまま出て行ってしまった。






 その日、ウスバは深夜に目を覚ました。また夕方に眠ってしまっていたようだった。電源がついたままのタブレットにはニュースが流れている。それを消し、廊下に出ると明かりの漏れている部屋があった。おそらくアサギだろう。ドアを開ける。


 その部屋にはたくさんの水槽があり、全く未知の異形が眠っていた。一つ目の化け物。口だけがむき出しになっている化け物。人間の手のひらが大量にくっついた化け物。どれも半透明で、オレンジ色の液体が透けている。その水槽を背にアサギはこちらを見ている。


「アサギ……それは、何だ」


 ウスバの声が震える。アサギは人間のように、特に必要のない瞬きした。


「透けていて、きれいだろう。空鯨の遺伝子を参考にしたんだ」


「そんな話をしてるんじゃない……」


「うーん、私の身体、なのかな。うまくいかなかったよ」


「なんで……こんなものを」


 その異形は明らかに人体でできている。誰かの命を使っている。


「ウスバ!」


 彼はいつものように優しい微笑みを浮かべた。


「君はまだ自分が人間だと思っているの?」


 久しぶりにウスバはアサギの目が輝いているのを見る。星空のもとで語り合った夜を思い出した。


「言ってみてよ、あの口癖……機械の私にはもうキスしてくれないのかい?君は私の身体を用意する過程でどれくらいの命を使ったの?みんなが命を賭けて戦った相手に簡単に従ったの?」


「ボクはただ、キミに会いたかった……もう一度……キミだけは失いたくなかった、だから」


「さよならウスバ。地獄で逢おうよ」


 瞬間、水槽が割れて針のように変質した異形が全てを貫く。うその肉が砕けて、赤い欠片が飛び散った。血の雨すらも降らない。ウスバは前のめりに手を伸ばして車いすから落ち、気絶した。








 誰かが名を呼んでいる。ウスバが瞼を開くと、研究員たちがこちらを見ていた。


「ア……サギ……」


「目覚めたか。全て覚えているな。貴様はコアロボットの六体目だ。五体目の代わりとして、研究に協力してもらう」


 駆動音がする。心臓の音がしない。瞼を開けたり閉じたりして、周囲を伺う。


「こんな感じかぁ……。良く動くいい身体じゃないか」


 長身の研究員が椅子に座らされたウスバを見下ろしている。ウスバは手を握ったり開いたりした。身体の外見は簡素なもので、髪の毛も、余計な凹凸もない。胸の中心に赤いコアが埋め込まれているのも視認できる。


「早速だが実験だ。この施設に脱走した生物兵器が潜んでいる。その知覚能力で探し出せ」


 ウスバは勢いよく顔に指を突き刺し、レンズを取り外して握りつぶした。白い床に破片が散らばる。どよめきが起こった。


「何をしている!」


「ふふ……ハハハ!確かに必要なかったな。キミのために良いレンズを探した時間がバカみたいだ!」


 笑いながら立ち上がり、床に座り込む。研究員の男が蔑む目で息を吐いた。


「壊れたか。一旦停止コードを送れ。リミッターも強化しろ」


 直後、男の後頭部が撃ち抜かれた。


「こんな部屋も武装していたか。金のかかった施設だ」


 天井の壁が外れ、裏に装備されていた生物兵器のための銃が覗いていた。煙が揺らめく。


「防衛システムが乗っ取られた!」


「リミッターは!?」


「なぜ停止コードが機能しない!」


 硝子ごしに見ていた研究員が叫ぶ。撃たれた男の白衣が血で染まる。ウスバは両手を床につける。


「ボクのコアが触れ合っているなら……それは全てボクの身体ということになるなあ」


 口を開いていないのに、スピーカーから声がした。


「滅茶苦茶だ」


 研究員の一人が呟いて、撃たれた。






 研究所のありとあらゆる銃器を暴走させ、破壊の限りを尽くしていると、多くの異形のいる檻まで辿り着いた。


「キミ達、声が出せるのか」


 ウスバは以前聞こえなかった声に驚く。炎が迫る中で、檻を捻じ曲げた。しかし、誰も出ようとはしない。


「……そうか。そう望むか」


 ウスバは地面に手をつく。壁が外れ、大量の重火器が現れる。異形達は集中砲火を受け、ただの肉塊となった。




「本当にいい身体だ。悪夢も見ないし、強迫観念に駆られることもない。アサギ、キミのこと、全然わからないよ」


 ウスバは自由だった。研究所に残ったアサギの生物兵器に関わるデータを全て削除した。その過程で、ウスバはあの異形がコアを抜き取った人間から作られること、有脳体と呼ばれていることを知った。


「生きる意志があるのは君だけか」


 燃える研究所を背に歩くウスバの隣には、小さな有脳体が一体。ユーニと名乗った一つ目の化け物はくるりと一回転した。


「ボク、アサギのこと、全然わからないけど、それでよかった。わからないままで受け入れられたのに」


 ユーニは尻尾でウスバの目元に触れた。


「あァ、でも、そうか……」


 二人は明かりから遠ざかるように歩く。最早光は必要なかった。


「この身体だと、泣けないんだ」






























 茫漠とした砂丘に車が停まっている。


「クソ……なぜ気づいた」


「んに~。コアの空間認識能力を舐めてかかったなァ」


 これは半分ハッタリであり、ウスバは散りばめられたカメラの映像を受信して追手の存在に気付いた。後方一キロの車を心だけでは検知できない。


 紺の軍服を着た男が苦境に歯を食いしばった。仰向けに転がされて両手を上げている。荷台の大きな車のそばでウスバが男の額に銃を突き付けていた。男の身体は所々腫れて格闘の痕が残っている。


「この大きい荷物はなんだ?ボク達を追う以外にも何か命じられているのか」


「なんでだろうなあ」


 ひげ面の男は冷や汗を流しつつも笑う。


「んに!ボクは尋問なんて面倒な手段はとらないぞ。キミが語らないならキミの脳に聞くまでだ」


 ウスバが銃口を額から喉に動かす。


「ロック解除!全員出ろ!」


 突然男が叫んだ。荷台の天井が開き、有脳体が次々と浮かび上がる。ウスバは口腔型に体当たりされ男から離れた。数十の異形が彼女を取り囲む。


 男が鼻血を拭い立ち上がった。風が吹く。


「胸の中に本体コアがある。そこを狙え」


 ウスバは右腕を左の二の腕に引っ掛け、取り外す。断面から武骨なガトリングが覗いた。






 突然地響きのような音がして、アリカ達は外に出る。街の人間もざわついて同じ方向を見ている。何かが崩れる音がした。ユーニは何かを感じ取ったようだった。


 ウスバ よんでくる ここで まってて


 ユーニが通気口から一直線に飛び出す。


「ユーニ!」


 アリカは一人で取り残された。道は逃げる人で溢れている。家の前で音の源の方向を見ていると声をかけられた。


「おい、逃げろ!聖遣様がお怒りだ」


「……聖遣」








 荷台の開いた車の傍らで様々な有脳体が倒れ伏している。ウスバは昏倒させた追手の記憶を読んでいた。膨大な映像の中に飛び込む。


 ――――――――――――――――――――


 宮殿にいる。長髪の男がこちらの肩に手を置いた。顔つきは険しい。


「貴様の任務は二つ。一つは幽霊ウスバ堕蛇ラッセルの追跡。一つは贄の運送。奴らは聖遣様のおられる第二都市に向かっている。捧げ続けているが、まだ神の贄が必要だ。頼んだぞ」


「はっ。王命とあらば……」


 記憶の中の一人称は緊張している。


「不安か?」


「……すみません、少し」


「堕蛇は秘密裏に消さねばならん。贄を使役してもよい。……貴様だけが頼りだ」


 男が微笑む。


「必ずや遂げて参ります。グソク様」


 ――――――――――――――――――――


「まずい……」 


 ウスバは記憶を読むためのヘッドギアを置いた。


 聖遣が近い。






 轟音が響いて粉塵が舞う。


「ウウ……」


 聖遣―――エリィがゆらりと上体を起こした。本体は浮遊しているが、背中から数十体の有脳体との管が繋がっておりそれを引きずっている。天井が崩れ、拘束装置の破片が落ちた。


 吹き抜けの教会を模した部屋にそれは浮かんでいる。ステンドグラスの光が半透明の触手に色彩を与えていた。淡いドレスがたなびく。


 爆発するように触手が拡散し、周囲のあらゆるものが抹される。研究員達が逃げ惑う。






 道端で転んだ子供に、鋭い触手が迫った。


 黒い血が飛び散る。


「あ……あなたは」


 子供が目を丸くする。歪な部分を覆い隠していた包帯が落ちる。傷ついた右腕の筋肉が新しく生まれ、再生した。


「平気か」


 半身に白い肉を纏う女性が跪く。アリカだった。


「あ……れ……どうして、ここにいるの……」


 高所に浮かぶエリィがアリカを視認する。子供を逃がし、アリカは彼女を見上げた。エリィは光を背に受けて、アリカを隠している。今目覚めたかのようにエリィの表情はぼんやりとしていた。アリカはエリィが生きていたことに安堵しつつも、背中の管を見て痛ましさを感じた。


「エリィ、ずっと……会いたかった。アタシ、エリィにいっぱい言いたいことがあってさ」


「アリカ姐」


 ぎこちなく言葉を並べると、エリィが遮る。エリィが触手を伸ばし、強引にアリカの身体を包み込んだ。足が浮き上がり、目線が揃う。


「もう私のために頑張らなくていいよ」


「……エリィ?」


 さらに首元に触手が巻き付く。目も覆われた。次第に締め付けが強くなっていく。血が迸って半透明の触手が赤黒くなっていく。


「覚えてくれるだけでいいって言ったのに。こんな姿、見られたくなかったな……」


 エリィは表情を変えないまま呟く。


「待て……エ、リィ、話を」


「ねむって」


 エリィに向かって伸ばした手が空を切る。






 非可視の熱線が触手を穿った。繋がりが解け、落下するアリカを巨躯が受け止めた。触手がぼとぼとと地面にこぼれる。


「ボク以外に殺されるな、アリカ!」


「ハ、へんな、セリフ……っう!?」


 アリカはウスバの腕の中でうっすらと微笑んだ後、何かに苦しみもがき始める。


「アリカ!おい!」


 ウスバの呼びかけや揺さぶりに反応しない。目を瞑り、呼吸は荒く、耳を押さえて震えている。冷や汗もかいていた。


 触手の追撃が来る。ウスバはアリカを抱きながら飛び、エリィに問いかける。


「アリカに何をした」


「疲れているみたいだから……寝かせてあげたの」


 エリィは熱線で途切れた触手の断面を見る。黒い血が流れるばかりで再生できない。ウスバはエリィの追撃をひらりとかわしながら触手を撃つ。瓦礫に黒い肉がいくつも落ちる。


「アリカ姐は、望んだ夢のなかにいるから……もう起きないよ」


「殺したようなものじゃないか。なぜ二人で生きようと思わない!」


 珍しく声を荒げるウスバとは対照的に、エリィはただ冷たい。


「私の知らない所で死んじゃうより、いい」


「んに~!諦めの早い奴は好かんな!」


 ウスバは高く跳躍し背中から煙幕を出した。ユーニが光線を放ち脱出のバックアップを行う。


「全部……壊さなきゃいけないのに」


 煙が晴れるとエリィは糸が切れたように意識を失った。研究員達が駆け寄り、拘束具を取り付ける。




 ウスバ達は廃墟の中でアリカの様子を見ていた。時折うめき声をあげている。ユーニが不安そうに見つめた。変声を迎える前の高い少年の声をウスバは聞く。


 アリカ こわいゆめ みてる?もう おきない?


「んに。普通はな」


 ウスバは自分の身体からアリカの頭に様々な管を伸ばし、円形のシールで貼り付ける。


「これから、ボクのコアを完全にアリカに預ける。ボクなら脳とコアを繋いで直接アリカを起こしに行けるからな」


 それじゃあ ウスバが もどってこれないよ


「確かにコアの制御権を譲渡するのは危険だが……きっとうまくいくさ」


 ウスバは自分のコアを手に持った。ユーニに笑いかける。


「攻撃を受けたらキミがアリカを守ってくれ。ボクはコアさえあればどうにでもなる」


 まつのは きらい


「んに〜、わかったわかった、すぐに帰ってくるよ」


 ウスバはユーニの尻尾と指切りする。


 アリカの手をとった。赤く光るコアを握らせる。


「行ってくる」




 気がつくと、アリカは以前着用していたダンスのためのドレスを着ていた。右半身が変化したので、一部は破けて凹凸が見て取れる。


 そこは屋外のダンスフロアだった。瓦礫の多い地帯の中にある、広い空間。花畑が広がっている。それは全て造花で、散ることはない。踏み荒らして構わないということだ。強い光が照りつけて、乾いている。


「ね҉̋͋͋̚え҈̿̏̇̋、̴͛͌̏踊̵̅̔̚ろ̵̔͆͊う҉̀̐̔͌?̷̔̾͊」


 花畑の、黒い土だけがぬかるんでいる。光のなかにいる少女がこちらを見て、何かを言った。十五歳くらいの娘はお姫様のようなフリルのドレスに身を包んでいる。


 たくさんの花もこちらを見ていた。


 恐怖して後ずさると、花が潰れ、黒い水が跳ねた。義足が染まる。瓦礫の影の中に、たくさんの目が輝いている。頭を掻きむしった。


「見るな………見るなぁ!」


 アリカがそう叫ぶと花に霜が降り、作り物だったはずのそれらがすべて枯死する。地面も凍ったように固まった。少女の身体はどろりと溶けて、真っ黒な液体となり姿を変えた。アリカと同じくらいの背丈になり、目だけが光っている。


「苦しいか」


 そう言って影は嗤った。








 気がつくと、ウスバは小さな部屋の中にいた。壁から床まで新聞や紙で埋め尽くされている。棚には輝かしいトロフィーがいくつか飾られていた。窓にはカーテンがかかっており薄暗い。


「んに~。ここがアリカの世界か」


 ウスバは伸びをして、適当に手に取った紙面を調べる。そして壁に貼られたものを見渡すと、ほとんどがダンスにまつわる記事であることが分かった。写真もいくつか混ざっており、それだけが色を持っている。アリカだと思われるシルエットは、クレヨンで殴ったように黒く塗りつぶされていた。塗りつぶされた赤ん坊を撫ぜる女性を見て、ウスバの動きが止まる。


「キミという奴は……」


 写真の中でアリカのそばにいる者たちはみな笑っていた。この部屋はアリカの努力の証であり、拠り所だった。


 部屋を出ようとドアノブに手をかけると、何かが右脚を引っ張った。いくつもの小さな黒い手が右脚を掴んでいる。


「キミが欲しいのは肉で出来た右脚だろう」


 ウスバはしゃがみ、手たちを優しくはらう。簡単に霧散してしまった。


 部屋を出ると、外は瓦礫で埋め尽くされていた。建物のほかに、迫撃機巧の破片も散見される。ウスバは物音を聞いて、その方向へ飛び跳ねていった。




 黒い骸の群れの中に、破れて散り散りになったドレスを着た人間が何かを殴りつけている。集中して知覚領域を広げると、アリカが攻撃を受けていることが分かった。ウスバは煙幕で視界を奪い、その隙にアリカを奪う。


 煙が晴れて、逆光を受けドレスを着た人間は、言った。


「もう死んでるよ」


 アリカを殴りつけていた人間も、アリカの形をしていた。ウスバは辺りの気配を感じて言葉を失う。アリカの顔をした人間がたくさん倒れ、泥となって黒く濁っていた。ウスバは抱いているアリカの瞼を閉じた。泣いていたので拭い、瓦礫に横たわらせる。


 そのまま振り向かずに、ウスバは問う。


「なぜ、こんなことをする?」


 唯一立っているアリカの下半身は汚れ、地面の色と見分けがつかない。拳からは血が流れていた。空が曇る。


「アタシの勝手だろ……せっかく一人だったのに」


「アリカ。キミはなぜ感情を殺す?」


 風が吹いた。ウスバが振り向いて、向き合う。


「だって……だって、そうじゃなきゃ生きていけないじゃないか」


 アリカは泣いていた。堰が壊れたように、大粒の涙がとめどなく流れる。水滴が二、三粒落ちて、土砂降りの雨も降ってきた。


 アリカは涙を拭うが、次から次へと涙が溢れて止まない。


「あ……あれ……」


 膝を折り、茫然として座り込む。固まっていた大地に水が染み込んでいく。


 ウスバは歩み寄って座り、着ていたマントでアリカを覆い隠す。雨に濡れないように。アリカは歪な身体がぬくもりに包まれるのを感じて、滴り落ちる涙を拭おうともせず、子供のように泣いた。下を向いた頭をウスバの鎖骨に押し付ける。


「あ、アタシ、ずっと、痛くてっ……こわ、怖いことばっかりで……」


 アリカは地面についた手を握りしめる。ぬかるんだ土がまとわりついた。


「みんな、うっ、みんなを、アタシ……が……エリィ、にも、もういい、って……」


 ウスバはただ耳を傾けている。勢いのある雨が背中を打っている。


「ひとごろし、で……ばけもので……もう、抱きしめて、もらえない」


 うなだれたアリカが嗚咽交じりに声を絞り出す。


「そーだなァ……」


 ウスバがトントンと一定のリズムで背中を叩く。


「アタシはっ、ひぐ、一人だ……っ」


 少しづつ落ち着いて、アリカが鼻を啜る。雨も弱まった。ウスバは肩を震わせる子供の顎を持ち上げた。その涙を拭きとる。二つの顔が向き合った。


「ボクがいるじゃないか」


「……え」


 アリカが目を見開いた。雲間から僅かに漏れた光が、彼女の瞳に閃く。ウスバはこつんと互いのおでこをくっつけた。頬を伝い、ウスバの顎から雨粒が滴る。


「ボクは人間みたいに脆くない。キミが死ぬまでそばに居よう」


 また涙が落ちて、アリカは目を閉じた。恐怖からではなく、安堵からだった。ウスバは彼女をゆったりと抱く。


「んに。ボクはね、アリカ。キミが望むなら母にも……いや、父にもなろう」


「ぁ…………うああ、ああ……」


 アリカはウスバの胸の中で震えていた。涙を流しながら。




 小雨が降っている。祝福のように。




 悪い奴ではないが、悪いこともしている。本物の親ではないが、親身になってくれている。


「この前、分かったんだ。なんでアンタが怖くないか」


「んに?」


「アンタには目がついてないから……」


 そんなウスバの顔を見た。アリカと視線が合うことはないが、ウスバはいたずらっぽく笑っている。岩場に腰かけた彼女等の影が伸びる。


「ユーニが悲しそうな顔してるぞ」


「あぁ、ごめん。もう怖くないよ」


 そばに寄ってきたユーニを慌てて慰める。


 三人は奇妙な共同生活を送りながら、有脳体が製造されている各地の研究所を破壊して回っている。エリィの居所が分からない以上、改造に使われる有脳体の数を減らす必要があったし、ウスバはずっとそうして暮らしていた。








「ねえ知ってる?暴走した有脳体から守ってくれる聖遣ダーリアのはなし」


「駄目だよ、あんなのを聖遣なんて言ったら」


「サードアースに行けるのはいつ?」


「あれは堕蛇ラッセルっていうらしい」


「最近有脳体の暴走が多くて怖いわね」


「我々が真の地球人だ」


「堕蛇なんてのもいるんだろ?サードアースから来たらしい」


「聖遣の偽物だ。腹立たしい」


「関係ない。聖遣が皆救ってくれる」


「早く捧げてしまいたい」


 ウスバの耳には様々な地点に仕込まれた機械から大量の情報が流れ込んでいる。それらを全て右から左に流して、不可視の熱線を放った。


 床に転がった小さな口腔型有脳体の動きが止まる。黒い血が流れて、再生も行われない。アリカがそっと抱き上げる。ユーニが尻尾で口端の血を拭った。


 研究所は教会に偽装されていることが多い。この星の教会には電子機器が持ち込めないので秘密を隠すのに都合がいい。今回も礼拝堂の地下に有脳体を製造していたであろう研究施設があった。


 研究員は影も形もなく、既に引き払っている。残されたのは改造に失敗した小さな有脳体だけだった。


「その銃があれば、殴ったり潰したりしなくて済むんだな……」


 街を見下ろすことのできる小高い砂丘に死んだ有脳体を埋めながら、アリカが呟いた。


「んに。これは動植物の遺骸を高速で分解する非可視光だ。ボク達先遣隊が編み出した土壌を育てるための技術だが、戦争の中でそのレシピは失われた。作れるのはボクだけさ」


 ウスバが体内に銃を収納しながら話す。アリカは難しい顔をして、ウスバに向き合った。


「ウスバ……改めて聞きたい。アンタの言う『心が無い』ってどういうことなんだ?」


「説明しなきゃならんな。フム。……コアの抽出を行うと脳に強い負荷がかかるんだ。前頭連合野の一部に障害が起きて、多幸感を感じやすくなる」


「多幸感……」


「意外かもしれないがね。そこに障害が起こると悲しみを認識しにくくなり、喜びを認識しやすくなる。短絡的になるんだ」


 ユーニには難しいようで、大きな瞳を傾けてきょとんとしている。


「それじゃ、なんで……檻の中の有脳体は死を望む?」


「彼等には命令が埋め込まれている。人を殺せというな。そして、力を使うことに快感を覚えるようになる」


 ウスバは街のほうに視線を向ける。様々な光が明滅している。


「自分が自分でなくなっていくのは怖い、らしい」


 他人事のように呟くウスバの表情は硬い。アリカは胸が痛くなった。


「ユーニはまだ改造が完全ではなかったから、そういう衝動を持っていない。軍の人間に命令されても拒絶することができる」


 アリカはクウロが口頭で有脳体に命令を出して操っていたことを思い出す。ナターシャとジャイブを踊った時のことも。母のような有脳体に包まれたことも。


「それでも、やっぱり……アタシはみんなの心を感じた。だから……エリィのことも説得できると思うんだ」


 有脳体の皮に覆われた右の頬に触れながらウスバに語りかける。


「説得?無理だな!この王府のことだ、裏切らないための洗脳も手術も辞さん、というか、もうやっているだろう。もうキミの知る彼女じゃない。前会った時に何をされたか忘れたか?」


「……あの子がアタシに向けるまなざしは、ちっとも変わってないんだ。光みたいなのに、暖かくて怖くない」


「ずいぶん抽象的な根拠だなァ……」


 呆れるウスバにアリカは微笑む。


「その銃で命を奪う他に……何か方法があるはずだ。エリィを止めて……戦争すら止める方法が!」


 アリカの目には光が灯っている。


「それをボクが考えろと?全く……」


 ウスバはため息交じりに苦笑する。ユーニも笑っているようだった。


「この星はエリィにかなりのリソースを割いてる。融合させるために多くの有脳体を運んでいるみたいだし……あの子を止められれば戦いは長引かない」


 アリカはウスバに迫る。ウスバは観念したように肩をすくめた。


「……恐らく、聖遣は自分のコアをどこかに隠している。それは改造される前の……ただの人間だったころのものだ。それを使って脳を書き換えてやれば、彼女を止めることができるかもしれない」


「脳を書き換える、って……」


 アリカは不安げにウスバを見上げる。


「性格を人畜無害に改変する、ってわけじゃないぞ。今彼女の脳は後付けの身体……もとい大量の触手に指令を送っている。その回路を消しゴムで消してしまうわけだ。元からあった回路は消しゴムくらいでは消えん」 


「軍に破壊されてるんじゃないか」


「あいつらは心を軽んじているからな。聖遣が崇拝される存在なだけに、わざわざ破壊することはないだろう」


 アリカの顔に喜色が滲む。


「エリィの残したコアを取り戻してやれば……あの子を救える!」


 ユーニとアリカは顔を見合わせて喜ぶ。


「心の居所は……キミはナターシャと呼んでいたな。彼女が知っているだろう」


「え……ナターシャが?」


 そういえば、エリィがサードアースから去る日に、彼女は心を抱いていた。クウロとウルメのように心と本体に乖離が生じていることもあるが、どう考えてもナターシャはエリィの心ではない。少なくともアリカはそう確信している。


「ナターシャの心はボクが抽出した。そして聖遣とナターシャには交流がある」


 矢継ぎ早に飛び出す事実に驚いてアリカは目を見開く。


「この星にある心はボクが把握している。聖遣の心はサードアースだろう」


 ウスバが空を見上げたのにつられて、アリカとユーニも星空を見る。数えることのできないほどの星が全てを見通していた。








 アリカ、ウスバ、ユーニによるエリィの奪還作戦が始まる。結果的にはそれが三人の共同体の終わりになるのだが、誰もそれを知る由はない。






「おなかすいた……」


 椅子とベッドだけが置かれている殺風景な部屋でエリィが呟いた。椅子に座っており、背もたれからはみ出る触手は厳重に拘束されている。厚い硝子を挟んで、白髪の男が答えた。スピーカーから声が流れる。


「聖遣に補給行為は必要ない。空腹感は錯覚だ」


 眉間に皺を寄せて、老人は取り合わない。


「……もう、エリィって呼んでくれないの?」


「甘ったれるな」


 苦し気に、突き放すように、心にもない言葉を放つ。老いさらばえた手が固く握られた。


「貴方はまだ、そんな顔ができるんだね」


 それは無意識だったようで、老人は顔に手を当ててみる。肌は乾いて皺が寄っている。


「そんなに苦しいなら、撫でてあげようか」


 エリィは空中を泳ぐようにして硝子に触れる。老人も硝子越しに手を伸ばしかけて、やめた。握った拳をただぶら下げる。忘我したように呟く。


「潰してしまうだろう……」


 彼女は大きな瞳を携えて、ただ微笑む。


「早く眠れ。明日は大仕事だ」


 人間が立ち去り、電気が消える。早く……全部壊してしまわないといけない、とエリィは思った。








「アベンエズラでボクらがやることは二つ。聖遣を奪取することと、コアになるオリヴィーンを破壊することだ」


 捨てられた街の空き家でウスバはタンスを漁っている。写真を切り取ったように生き生きとした剥製が飾られていた。地球の生物も見受けられる。よっぽどの金持ちが住んでいたらしい。


「オリヴィーン?」


 ユーニに髪を切ってもらいながらアリカが答える。


「心のもとになる鉱物だ。心の抽出に必要なのは、大量の電気とオリヴィーンと人間の脳。今この街には全てが揃っている。祭りに合わせて心の抽出を行う手筈だろう」


「祭りと合わせる理由はなんなんだ?」


「この祭りに集まる信奉者達は自ら供物になることを望むからだなァ。聖遣のおかげで士気も高揚しているし」


「……最悪だな」


 苦々しい顔をして、アリカは右目に包帯を巻く。有脳体に覆われた右の頬は真っ白になっていた。


「しかし、この熱狂も長続きはしない。電気と人間はいくら手に入れられても、オリヴィーンには限りがあるからな」


 ウスバは目当てのものを見つけて、取り出した。硝子の玉が光を反射して煌めく。


「ここ百年で地表にあるものは全て採集された。残った塊は数百人分といったところだろう。ここで破壊できれば―――」


 玉を直上に投げて、掴む。


「もう、心も有脳体も生まれない」






 どうして死なないの、と聞かれても、分からない。


 どうして生きたいの、と聞かれても、分からない。


 ぼくはただ必死に生きていて、気づいたら化け物になっていた。


 ぼくはただ生きたくて生きている。死にたくなくて生きている。


 ウスバも同じみたいで、ぼくと長い時間を過ごした。


 ぼくたちに終わりは来るのかな。ずっと生き続けるって、駄目なのかな。






「良かったのか?置いて行って」


 電気自動車をウスバが駆っている。アベンエズラまでの道はドームに覆われておらず、アリカは布にくるまっていた。


 ウスバは前回の襲撃で顔が割れたので新しく顔に目を付けた。硝子に光が映っている。


「んに。ユーニは一人でもやっていけるさ。これ以上ボク達と暴れると危険だろう」


「そうじゃなくて……ウスバだよ。アンタが平気か聞いてる」


「ハッ。ボクが?……誰がいようがいまいが、ボクは生きていけるよ。そういう奴なんだ」


 ウスバは想定していなかったアリカの言を鼻で笑う。アリカは黙っている。


「……神妙な顔をするな!あぁ分かったよ、寂しがればいいんだろ!うわぁ~ユーニー」


「おいっ!ハンドルを握れ!」


 アリカは嘘泣きしながら抱きついてくるウスバを運転席に押し返した。




 宗教都市アベンエズラ。光のマークや海月や海星のレリーフがそこかしこにあしらわれて、色鮮やかな場所である。中心部には天井のない礼拝所があり、千人ほどのキャパシティを誇る。港もあり、宇宙船の往来も活発だ。


 その日は祭りだった。鯨を模った入れ墨が道行く人々の手の甲に刻まれている。この日のために空鯨も捕らえられていて、鎖につながれたまま四体浮かんでいる。


 人、有脳体、宇宙船、食糧などのあらゆる資源がこの街へやって来ていた。








「聖遣は全ての有脳体を操ることができる。口頭で命令を下すことでな。前回キミが眠らされたのも、キミの中の有脳体を操ったんだろう」


 アリカは右手を見た。真っ白な皮で覆われて一回り太くなり、血管が浮いている。


「もしキミが一人のときに聖遣に出会ってしまった時は耳を塞いで逃げろ。半身が封じられると出来ることもない」


「あの子は……ただの女の子だよ」


 アリカは左側の前髪を掻き揚げる。


「兵器になんかならない。なれない。まだ一度も有脳体に命令してないだろ?この前も……あんな回りくどい方法じゃなく、簡単にアタシ達を殺せたはずだ。……アタシはあの子から逃げない」


「楽観的だな」


 ウスバはため息をつくそぶりを見せる。アリカの瞳は鋭く、何かを言っても聞きそうにない。


「聖遣と相対する時は、必ず二人でだ。わかったな」


「助かる」


 アリカは不満気なウスバに礼を言って、微笑んだ。


 夜明け前にも関わらず、街には人が忙しく動き回っている。ウスバとアリカは街の中心の塔に向かって、屋根の上を走っていた。


「オリヴィーンを粉々にするのがキミの仕事。ボクは聖遣をかっぱらってくるよ。宇宙船もハッキングで盗る」


「逆だろ!アタシがエリィを」


「無理無理!大人しく聖堂の地下へ行け!終わったら船で迎えに行く!」


 塔の前には巨大な舞台と聖堂が配置されている。ウスバはさっさと塔に向かって行ってしまった。


「頼んだからな……」


 アリカは後ろ髪を引かれつつも、バリケードを破り地下への階段を駆け下りた。








 有能体や人間の警備を蹴散らしてウスバは塔の最上階へ躍り出る。


 そこには聖遣の姿は無く、巨大な赤い鉱石が鎮座していた。その前には人型ロボットが胡座をかいている。


「オトリ作戦成功ぅ!よぉイカレ科学者!待ってたぜ。三百年ぶりか?」


「奇遇だなイカレ殺人鬼。また会えるとは思ってなかったよ」


 鉱石は深い赤色であり、吸い込まれそうだ。厚い硝子に包まれている。ウスバはわざと誘い込まれたようだった。聖遣はいないが、やるべきことをやるしかない。


 ウスバは右腕の銃身を構える。イカレ殺人鬼―――コアロボット三号サードも両腕を向けた。手のひらはついておらず、無骨な銃の頭が鈍く光る。


「おめえがどれだけ馬鹿げた身体になろうが、俺には見えてるぜ。おめえの真っ黒い肚ん中がな。身体は捨てても女は捨ててないってか?ギャハ!」


 精神を蝕むような発砲音と火花が続いて、互いの腕から夥しい数の薬莢が排出されていく。左腕が爆発して、舌打ちをして三号は叫んだ。


「俺はさあ!こん身体で最悪だぜ!女抱けねえからな!」


 ウスバの身体には凹凸があるが、三号の身体はマネキンのようにのっぺりしている。三号は左腕を噛んで取り外した。うその肉が割れて、激しく光る刀身が姿を現す。


「俺もお前も!気持ちわりぃバケモンじゃねえか!」


 斬りかかったウスバを三号は腕で受け止める。


「なぁーんで皆馬鹿みてえに捧げる捧げるつってんだ?いずれこうなるのによぉ」


 膝を見舞われてウスバは後ろに倒れる。


「それだけは同意だな」


 三号が右腕を再度構えると、綺麗な断面が露わになっていた。射出しようとしていた弾丸が零れ落ちる。


「打つ手なしか」


「元々手なんかねーよ!」


 三号はまた蹴ろうと足を伸ばすが、腕の一部を失って均衡が崩れ、無様に倒れる。花瓶を落としたような音が鳴る。


「クソッ」


 ウスバはすぐに三号の胸部を探る。外装を無理に剥がすと赤く光るコアが表出した。すぐに取り外せるように手をかける。


「何か言い残すことはあるか」


「クソが。クソ野郎の貴族を五人殺しただけでクソ檻にぶち込まれてクソロボットにされちまっただけの俺に、何か遺す言葉があるとでも?まあしかし、お前は変わったな。研究所をぶっ壊した時のお前なら俺のコアを一瞬でぶち抜けただろ」


 基盤から俄かに火花が散る。


「今更人間の心でも思い出したか?クソ科学者!弱くなったなって言ってんだよ!」


 電流が走り、一瞬の光に包まれ、二台のロボットの動きが停止した。






 茫洋とした明かりの中にウスバは立っている。よく知っている場所だった。茫然として歩を進める。


 そこは船だった。彼女が産まれ、目覚め、眠った場所。だが、人の影はどこにもない。明かりがついたままの廊下を走り回って、息が上がっていることに気づく。


 心臓の音がする。肩で息をしている。ウスバは震える手で自分の頬に触れた。柔らかく瑞々しい。


「この……身体は……」


 声が高い。


 ウスバの身体は、十五歳の時に戻っていた。


「いや……いやだ……おなかがすいたよ、誰か……」


 動悸を止められずに座り込む。


「寒い……寒い、寒い、寒い、ゔう、はっ、しんじゃ、しんじゃう」


 勝手に涙が零れ落ちた。両腕を強く掴む。


「いや、いや、いや、死にたくない!死にたくない!死にたくない!みんな!お母さん!お父さん!リーダー!船長!キビ!ルリ!ヒガラ!ツグミ!ノジコ!マヒワ!土屋!」


 一通り叫んで、床に伏せる。声を絞り出した。


「…………アサギ……」


 見慣れた靴が見えて、顔を上げる。いつものように―――生きていた頃のように、アサギは優しく微笑んでいた。


「それがコイツの名か」


「っあ……ちが、違う」


 ウスバは座ったまま後ずさる。アサギの皮を纏った何者かが、彼女に近づいた。


「おめえにもこんな時期があったとはなあ」


 彼はウスバの顔を持ち上げてしげしげと眺める。


「四号の記憶もこうして覗いたんだ。そしたらあいつ、それだけで壊れちまった……」


 三号はウスバの首元を掴む。


「おめえは何されたら壊れる?愛されるか?殺されるか?」


 三号は顎に手をやってにやつく。


「ウスバー。お、これか。俺は……僕は?……私は」


 ウスバの目を覗いて、反応を確かめる。『私は』の時、ウスバの瞳孔が開いた。


「私。私は……君が好き」


「黙れ!」


 孤独な叫びが響いた。


「ウスバ。私は君を―――」


 硝子が割れる音がして、三号は振り向く。外界に面した上方の硝子に穴が空いていた。そこから光が差し込む。


「ウスバー!怪我してないかー!」


 遠くから本物の声がする。


「平気さ、ボクはいつも……平気だったさ」


 そう呟きながらウスバは泣いている。泣きながら安心しきって笑っている。


「何が起こってる……?この船に人はいないはずだ……そういう過去を選んだはずだ!」


 三号は取り乱す。顔を押さえると皮がどろりと溶けて、中から別の顔が出てきた。イカレ殺人鬼の顔だった。


「残念。今日は祭りの日だ。みんなで船の外で遊ぶんだよ」


「おめえの仲間は船に魚ブッ刺して遊ぶのか!?」


 割れた硝子の先には針のような魚が刺さっている。空魚だった。


「この日は落とし※をやっていてなァ。まずい方向に追い込んでしまって船の硝子を破ってしまったんだ。笑えるだろ?」


(地球でいう釣り。空に浮かぶ空魚を地上に落とすので落としと呼ばれている)


「ふざけやがって」


 眉をハの字にして憎々しげに三号は口角を上げる。


 ウスバには見えていた。巡った部屋の時計は止まっておらず、カレンダーの日付には赤い丸がついていた。


 ウスバと三号が突入したのは過去。時間は止まっていない。おそらく最も楽しかった時間。最も思い返すのが苦しい時間。もう戻ってこない時間。


「また、みんなに救われたな」


 ウスバは涙を拭う。窓から射した光が彼女を照らしていた。


「ウスバーー!早くこっちに来てよ!」


 アサギの声が聞こえる。


「悪い!待っててくれ!」


 ウスバも大声で返して、うずくまる偽物の前に立つ。


「感謝するよ。いい夢を見られた」


 三号は何かに怯えるように遠くを見て震えている。


「やめろ……」


「キミにもいい夢を見せてやらんと、不公平だよなァ」


「近づくな!やめろ!俺の中に入ってくるな!見るな!」


 ウスバは彼の頭に手を当てた。世界が硝子のように割れて、崩れていく。全てが闇に包まれた。






 目を開けると、ウスバは血だまりの中にいた。ドレスにも血が付いている。部屋は高価なものばかりで、緻密に編み込まれた絨毯にも血が染みていく。


 彼女の肉体も変化していて、二十歳ほどの金髪の女性になっていた。


「なるほど?コアと心が触れ合うと互いの意識や記憶に潜ることができるんだな。片方は片方の記憶の中の人物に置き換わる、と。興味深い」


 三号らしい子供は頭を抱えて震えている。


「三号!最期の望みくらい叶えてやらんこともないぞ」


「黙れ偽物!」


 声変わりも終わっていないのか高い声が響く。ウスバは彼の肩を持って、顔を覗いた。


「悪いな」


 持っていた短刀を心臓に突き刺す。三号は抵抗もしなかった。ただウスバが纏っている皮を見つめている。


 また光が消えて、次に認識した世界は現実だった。


 ウスバは両腕を失った三号の心を握っている。


「死んで救われると思うな……俺はお前の……苦しみだけを祈ってる」


「あぁ。キミのことだって忘れないでやるよ」


 ウスバは三号の心を握り潰した。








 赤い破片が辺りに散らばっている。ウスバはオリヴィーンを破壊し尽した。割った窓の枠に立って見下ろすと、塔の前の舞台には人がみっちり詰まっていた。


 遥か下方から何かが猛スピードで近づいてくる。集中して補足すると、それは大きな球体と小柄な人間で―――


「んがっ!」


 よくわからない物体とぶつかってウスバは後ろに倒れる。上半身を起こすと、アリカとユーニが辺りに転がっていた。


「アリカ……ユーニ!?」


 アリカはぐったりとしている。ユーニは目を回してから浮き上がる。


「ユーニ、どうやってここに来た?……ずっと車の下に隠れてた!?はぁ、ボクの空間把握もまだまだだな……」


 ユーニを一撫でして、ウスバはアリカに近寄る。


「平気か?」


 ウスバがアリカの肩を持って起こそうとすると、痛みに呻いた。服に血が滲んでいる。


「ユーニ、ウスバ…………」


 アリカの目から涙が零れる。


「おい、どうした?痛むのか?」


 二人が心配そうにアリカを覗き込んだ。


「あ……ごめ、なんか、安心して……平気だ!大した怪我はない。ちょっと疲れただけ」


 アリカは左手で涙を拭い、身体を起こす。


「虚栄を張るな」


 ウスバは綿のように優しくアリカを抱きしめた。ユーニも尻尾で緩く巻き付く。ロボットの身体は少しだけ熱を持っていて、指先は冷たい。アリカは彼女の背中とユーニの尾に触れた。また涙が零れて、少し泣いた。


「ごめん……アタシ、エリィに会ってきた。でも……でも、アタシは……あの子を、救えないかもしれない」


 ウスバは静かに彼女の言葉を聞いている。


「……怖かったんだ、あの子が」


 ウスバはアリカの服に滲んだ血を睨んでいた。


「そうか。では逃げよう」


「え」


 アリカは驚いてウスバの顔を見る。


「元々心を取り戻す計画だ。待っていてもいずれ彼女はサードアースにやってくるだろう。その時までは逃げの一手だ」


「でも……それじゃあエリィが長く苦しむ」


「キミはもう十分足掻いたよ。なァ」


 ウスバが顔を向けると、ユーニが大げさに頷く。


「さぁ、サードアースへの直行便だ!暴れるなよ!」


 さっさとウスバはアリカを抱っこして、塔から飛び降りた。


「待っ、ちょっ」


「舌を噛むぞ!」


 アリカが何か言う暇もなく、三人は地面スレスレまで落ち、飛び上がった。地表を見下ろし、空中に留まる。


 舞台には砂糖に群がる蟻のように多くの人間が蠢いている。舞台を挟んだ向こうには港があり、大小様々な宇宙船が停泊していた。四体の空鯨は対角に繋がれて浮かんでいる。


 舞台の直上のカプセルには、聖遣が入っていた。


「なんで、あんなところに……」


 アリカは何となく悪い予感がした。ウスバも同じようで、何かを考えていた。


「オリヴィーンは破壊した。なぜ、聖遣が心の抽出のカプセルに入っている?」


「……エリィは電気が出せる。空鯨もだ!心を抽出できる人間は山ほどいる。オリヴィーンも、どこかにまだ隠されているんじゃ」


 オリヴィーン。地球の鉱物と同じ名前。地球のオリヴィーンは緑色だ。ではなぜ、それらは同じ名で呼ばれている?地球のオリヴィーンは、その内核を形成している。核。地球の中心。


「……まさか!」


 巨大なカプセルの中でエリィは両手を伸ばす。その手のひらの間に火花が散った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る