第6話 レイニーブーツ②
西暦二千五十年、全長三キロほどの巨大な宇宙船が、砂の舞う不毛の星に着陸した。この船は異星を第二の地球として開拓する使命を帯びている。
名をアルカディア。出発からの経過年数は三十年。クルーは二百。
誰一人として、地球の大地に還ることはなかった。
「またスリッパで出歩いて…アサギくんに見限られるよ」
ドアを開け帰宅した娘に、母親は呆れている。少女はくせのついた茶髪も気にせず、ラフな格好で船の中を歩き回っている。背は小さく、まだ幼さが残っていた。
「んに~。あいつはそんな奴じゃないもん」
少女はぱたぱたと部屋を走り、髪を結び、荷物を持ってまた部屋を出た。船外に出る。たくさんの科学者達が少女を待っていた。
「行こう、ウスバ」
肩まで伸びる黒髪の少年、アサギが優しく語りかけた。
「んに!探検だ!」
ウスバ―――アリカと出会った彼女とは似ても似つかない―――は拳を高く上げた。
探検家達は前方をヘルメットについたライトで照らしながら進む。地面は砂場のようで、舗装された道しか歩いたことのないウスバは何度もよろめいた。この星の周辺に恒星は無く、息を呑むほどの星空がいつでも広がっている。かつてのアリゾナのような岩場を抜けると、砂漠があった。広々とした光景にウスバは目を見開く。
突然地響きがした。急遽散らばっていた全員が一丸に固まり、大人達がウスバとアサギを庇う。
砂漠の中心で風が砂を大きく巻き上げる。いや、風ではない。あれは、光?
「鯨だ」
生物学者が歓喜に膝から崩れ落ちる。内部の球体から白い光を放つ半透明の鯨が、砂の中から跳ねた。高く、誰かを呼ぶような不安げな音が響く。鳴き声だった。
「すごい……」
誰もが茫然と空を見上げていた。鳴き声に呼応するように他の鯨もやってきて、空を泳いでいる。記録を行おうとアサギがタブレットを取り出すと、それはもう動かなくなっていた。他の電子機器も作動しなくなっている。
「リーダー!リーダー!」
ウスバの焦った声を聞き、アサギが振り返る。筋骨隆々の男が額を押さえてきょろきょろしている。
「みんな、どこだ……ここは……」
周りの大人達はみな茫然自失し、魂の抜け落ちたように座っている。
「アサギ!ボクがわかるか!」
「ああ。私は無事だ」
「皆は何も聞こえてない。夢のなかにいるみたいな……触れられてもわからないみたいだ」
「電子機器も全て動かなくなっている。独立した電源を持っている機械も通電していない」
ウスバは鯨の巨大な光によって気づかなかったが、全員のライトが消灯している。鯨の群れは遠ざかってはいるが、まだ近くにいる。
アサギは考える。全員が助かる方法を。
「……ウスバ。君だけ引き返してくれ」
「そんな!アサギや皆はどうするんだよ」
「信号が途切れたから、船から救助隊が出ているはずだ。その人達と合流して状況を説明するんだ。ボクはここに残って皆を守る」
ウスバは唇をかむ。他に選択肢が無かった。アサギはなんでもないように微笑んでいる。
「アサギ、かがんで」
言われるままにかがんだ少年に、ウスバはキスをした。ほんの短い間。
「待ってて」
踵を返し、顔を真っ赤にして、少女は走る。
ウスバとアサギは十五歳にして研究者としての頭角を現していた。ウスバは脳科学、アサギは遺伝子の分野だ。二人とも宇宙船の中で生まれた。
ウスバは頬杖をついてモニターを見ながらキーボードを打つ。モニターには探検隊の脳のCTスキャンが映っている。机は書類で埋まっていた。ウスバはその中に手をつっこみブロック型の栄養食を取り出した。
背後からウスバの手首が握られる。栄養食が取り上げられた。
「んに~。何だアサギ」
椅子を回転させて、アサギに文句を言う。彼も少しやつれているが、ウスバほどではない。
「これは食事とは言わない。朝ごはんもまだだと聞いたよ。さ、食堂に」
ウスバはアサギの手を振りほどく。三日経っても五感が失われたままのリーダ―の虚ろな瞳を思い浮かべた。外傷どころか内部の異常すらも見つからず、ウスバは脳に異常があると考えている。
「まだ何もできてないんだ」
「ウスバ……」
ウスバはまたモニターに向き直る。アサギは彼女の耳元で囁いた。
「私は背の高い女の子が好きだ」
「んに!?」
ウスバは赤面し、耳を押さえて立ち上がる。机の上のペンが転がって落ちた。彼は微笑んでいる。
「初耳だ……なんでもっとはやく言わなかったんだ!」
「こんな話、恥ずかしいでしょう」
彼はそう言っているが、何ら恥ずかしがっている様子はない。ウスバは椅子を降り、食堂へ向かってぱたぱたと走る。すれ違いざまにアサギが言う。
「転ばないように、ね」
「舗装された道では転ばん!ばかっ」
ウスバは以前砂漠に足をとられて転び、膝に絆創膏をつけている。運動は得意ではない。
「んにっ。人間の身体で素晴らしいのは脳だけだ」
小さな声で、独りごちた。
大人達はこの星で観測された鯨のような生物を空鯨と呼ぶことにした。空鯨が埋まっていた地点の地下には巨大な氷が確認されている。川も海もないこの星の貴重な資源だ。
一瞬だけ映像に映った空鯨の光が会議室を照らしている。皺の刻まれた手や刻まれていない手が資料をめくった。
「奴らは同じルートで回遊しています、必ずかちあいますよ」
「頼みの探検隊も壊滅的な被害だ」
「今焦れば確実にクルーを失うぞ」
「しかし!最優先退避隊が十日後に到着するんですよ」
会議室が静まり返る。全員が苦い顔をした。
「……捕鯨だ」
老齢の船長が初めて口を開いた。注目が集まり、空気が変わる。
「三日後に少数のチームで空鯨を狙い撃つ。古代の日本に倣う。電気は使わん」
「……電気……電気だ!求心性神経に流れる電気パルスが喰われたんだ」
食堂で大声を出しウスバが立ち上がる。その場にいた全員が静まり返る。アサギは口に運びかけていたスプーンを置いた。
「ずいぶん急だね」
「んにっ今わかったっ!エウレカだ」
ウスバが着席する。止まっていた時間が動き出したように喧噪が戻って行く。
「あの鯨は電気を喰っている……それが現時点での生物班の見解だ。もちろんこれは間違っていない、が。電気が流れているのは機械だけじゃない」
ウスバはフォークをゆらゆら揺らした。目は輝いている。
「神経細胞?」
「んに!ボクらは見落としていたんだ。どんなに高性能の電球でも断線すれば意味が無い」
ぴょこんと椅子を降りてサンダルで歩き出した。アサギは彼女のフォークで彼女の皿に残った緑色の欠片を刺し、ゆらゆら振った。
「ピーマン残ってるよ?」
「あげるー!」
遠くなっていく背中を見ながら、アサギは野菜を口に入れた。
「人類史史上百年ぶりの捕鯨だ。気合を入れろ」
「……あれ、本当に鯨なんです?」
「遺伝子班の解析が終わるまでは、鯨ではない、とは言えんな」
五感を取り戻したリーダ―がニヤッと笑う。無精ひげを蓄えた砲手の男は息を吐いた。ゴムでできた防護服に身を包み、暗視ゴーグルで上空を見上げる。
「あ、ゴーグルがお釈迦です」
「ちょうどあいつらも光り出したな」
星空に染まっていた半透明の空鯨の一団が光り始める。二人の直上に迫っていた。
捕鯨砲。かつて船の頭に取り付けられたそれは、地上に設置すると大砲のような趣だった。槍のような銛の先端が覗いている。根本からは大量のロープがとぐろを巻いていた。地球の鯨とは違い、空鯨は砲身からの距離が長いので火薬を多めに積んである。
「一撃で仕留めることが肝要だ。信頼しているぞ」
「捕鯨の映像は山ほど見ましたがね、上空に撃ってる馬鹿なんて一人もいませんでしたよ。しかもあんな奴に急所があるのかどうか……」
「そう言いつつもやってくれるのが君だ」
既に彼等は近づきすぎている。一撃で終わらせなければ捕食されるかもしれない。空鯨が暴れて銛のロープが切れるようなことがあれば、鞭のようにしなってこちらが危険に晒されることもある。砲手は捕鯨砲の切っ先を動かして狙いを定める。
引き金を引いた。
炎が爆ぜ、銛が射出された。耳の割れそうな爆発音が響く。空鯨の中心、地球の鯨の肺にあたる部分に銛が刺さった。傷口から透明な液体が流れる。他の空鯨にも動揺が広がり、徐々に離れていく。
銛の刺さった空鯨の中心が点滅した後、完全に光が失われた。一声大きく鳴いて墜落する。砂が舞い上がった。
「んに!やったぞ!」
後方でウスバとアサギは双眼鏡を構えていた。
「回収班GO!」
アサギが拡声器で大声を出した。空鯨の影響を受けない領域の境界線で待機していた車達が動き出す。
明かりが灯され、空鯨の解体、運搬作業が急ピッチで行われた。恐怖の震源地であった空鯨の出現地点は今や人でごった返している。
アサギは生物班の科学者と真剣なまなざしで調査を行っている。半透明だった空鯨はアオリイカのように急速に白くなった。柔らかい身体が切り取られ、強烈な光を放っていた巨大な岩石のようなものが表出するとざわめきが広がった。
「これが……この生物の
ライトを反射して鈍く光る宝玉がウスバの瞳に一際強く輝いた。
空鯨の出現地点にあった氷は溶けかかっており、採集は予定よりも早く進んだ。
アルカディアのクルーは航行中に計画した通り、人の住む地区を定め、重点的な開発を行っている。宇宙船からこの星に居を移すため、現在の地球と同じくドーム型都市の建設が目指される。
「んに、すごいなァ。ボク達が空鯨に右往左往しているうちにこんなに街ができてたなんて」
ウスバとアサギは建設中の街の入り口に立っている。仮設ではあるが画一的なコンクリートの家屋が幾つも建っていた。
「建築が進んでるのは、資材が豊富だからだよ。この星の土が使えるみたい。ほら、あれ」
アサギが指をさす。その先には洗濯機ほどの大きさの機械が砂を吸い、熱を持ったコンクリートを吐き出して道路を作っている。
「んに~。すごい機械だ。中で何が起こってるんだ?」
ウスバは駆け寄ってまじまじと見つめる。
「私も詳しくは知らないけど……中で土を溶かして精錬しているらしいよ」
「正確には土じゃありません。
「うげ、土屋」
眼鏡をかけた男が話に割って入る。その男は土の研究者であり、名前は土屋ではないがそう呼ばれている。ウスバは眉をひそめた。
「土というのは生物との相互作用を持っているもののことを言うんです。この星の地面にはまるで生物がいない。植物どころか、微生物も確認できません。生物がいなければ、農業をやるのは厳しいですが、いいところもあります。実はここの堆積物にはアルミニウム、鉄、チタン、ケイ素、酸素が入っているんです、すごいと思いませんか。この星が次なる地球候補に選ばれたのも、大気とこの堆積物のおかげで」
(※この土研究者は保守的であり土の定義については見解が分かれます)
「わかったわかった!聞いた以上のことを話すなっ!」
アサギは興味津々で土屋の話を聞いており、ウスバは思わず遮った。
「明日最優先退避隊が来ますけど、これだけの街が出来ていれば胸を張れますね」
「お偉いさん方のお眼鏡にかなうといいですがね」
三人で明かりの灯った作りかけの街を見上げる。朝の来ないこの街が住民で賑わうことを夢想した。
最優先退避隊の出迎えは豪勢に行われた。突貫工事の水道もなんとか機能し、食糧もいきわたっている。
この星は深海のようだった。自然光は無いに等しく、静かだが、サバンナのような極端な気候変動も無い。安定しているのだ。人口土壌の生産が進めば、家畜を宇宙船の外に出し植物を育てられるようになるだろう。アルカディアのクルーがまっさらな砂漠を開拓し、退避隊のエリート達が社会制度を整えていけばこの星はきっと光に包まれる。
次代の地球という肩書も、現実味を帯びてきていた。
しかし、アルカディアのクルーと退避隊の間に亀裂が走るのに時間はかからなかった。退避隊は当分の間、アルカディアからの膨大な量の食糧の提供を求めた。現在、食糧はアルカディアの船内で栽培した野菜や家畜から賄っている。余裕は無い。
「カカオ農園で働く子供がチョコを食べたことがない、みたいな状況だな」
「環境が変わってもお偉いさんがやることは同じか」
アルカディアのクルーの食事は制限され、船内の空気は日に日に張り詰めていった。独自の通貨や法律の整備の際も、アルカディア側の意見は尊重されなかった。
着陸三百日目。船員の全てに集合がかかり、退避隊からの勧告が伝えられることになった。講堂に二百二人が集まる。マイクとタブレットを持ったリーダーが読み上げを行う。
『地球にて高速航行エンジンの大幅な技術革新が起こり、より早いスパンでこちらにさらなる移民がやってくる運びとなった。退避隊の第二陣のためのインフラ整備に励むよう。』
『第二陣が既に地球を経っている。総乗組員数は五百。予定する到着日まであと―――』
皆が固唾を呑む。
『二百日』
「冗談じゃない……」
アサギの隣にいた男が目を見開いて呟いた。にわかにざわつき始める。
「現状でギリギリなのに」
「これ以上の食糧をどうしろっていうんだ」
大人達は口々に悪態をついた。多数が怒りに震えている。アサギが周囲の異様な雰囲気に息を呑むと、ウスバが人を押しのけてリーダーに向かって走った。
「みんな!」
ウスバがリーダーの持っていたマイクを引き寄せて言った。ざわつきが静まって、少女に視線が集まる。
「……大丈夫。ボク達ならやれるさ。今まで退避隊のむちゃぶりに応えてきたじゃないか」
「あぁ、ウスバの言う通りだ。私達は私達にできることをやろう」
リーダーがウスバに視線を送った。ウスバはさっと群衆の中へ戻る。
「今一度、何のためにここへ来たか、思い出そう。将来的には地球の人口のすべてがここへ来るんだ。音を上げる暇はない」
言葉を切って、息を吸った。
「怒っている暇もな」
リーダーがマイクを置く。人々がそれぞれ別の方向へ向かって歩き出し、解散した。アサギとウスバだけが同じ場所で突っ立って、手を繋いでいる。
「怖かったね。ありがとう」
ウスバは勢いよく頭を横に振った。涙をこらえながら。
着陸五百日目。第二陣が宇宙港にまもなく到着する。出迎えにアルカディアや退避隊の宇宙船がセカンドアースの宙域に浮かんで待機していた。
人口土壌による農業はセカンドアースの気候にマッチしており、成功を収めていた。人々にいきわたる量からは程遠いが、安定して植物が育っている。本来土壌とは何千年もかけて生物によって作られるものだが、動植物の遺骸を高速で分解する非可視光の存在によって三日程度で一キログラムの製造が可能になっていた。
街は拡大し、その都度空鯨や空魚による電気障害に悩まされたが、確実に発展している。問題は人口増加だった。たくさんの子供が生まれ、食糧の供給が追い付かない。
貧困層は飢餓に陥ることがあった。
「船長、何か……妙ではありませんか」
老人と若い男が並んで宇宙を睨んでいる。リーダーは何も答えない船長を一瞥して話す。
「退避隊の船、出迎えにしては多すぎるかと」
「私に聞くな。どんな陰謀も我々は蚊帳の外だ。それでいい」
船長は干し肉を齧った。
「肉ばっかり、飽きないんです?」
「野菜なんぞ貴族の食い物さ」
二人はまた宇宙に視線を戻す。大小様々な三十ほどの退避隊の船が光っていた。
「来た!アサギ」
うとうとしていたアサギをウスバはより起こす。二人はアルカディアの窓に張り付いていた。巨大な船が誘導灯に迎えられて真っ直ぐ進んでいる。
「あ!退避隊がセカンドアースの旗を掲揚してるぞ。うーん、何度見ても凝りすぎた頭でっかちの模様だ」
「ほんと。これが私達の星旗かあ」
二人ともおでこを硝子にくっつけている。通りがかった土屋の足が止まった。
「……今、なんと?」
「んに?凝りすぎた頭……」
「その前ですよ」
土屋もウスバの頭上から宇宙を覗く。
「セカンドアースの旗を掲揚してる」
その光景を目にして、土屋は戦慄した。
「そうか……あなた達は知らないんですね。メインマストに旗を揚げる意味を」
アサギとウスバは彼の顔を見る。遠くの船には複数の旗が照らされていた。
「世界大戦の際からの暗黙の了解なんです。最も高いマストに複数の旗を掲揚するのは―――」
ウスバはその言葉を最後まで聞き取ることはできなかったが、意味はすぐにわかった。
アルカディアの船内に警報が響く。退避隊の艦首が光って、紅色のそれが真っ直ぐに第二陣の船を貫いた。
軍旗掲揚は、戦闘の合図である。
アサギはこの目で雨を見たいと思っていた。本物の海も、大地も、太陽も知らなかったが、彼は雨に惹かれていた。水が再び大地に巡り、川から海へ流れていく。その循環を美しいと思っていた。
「でも、この星空は雲が無いからこそじゃないか」
ウスバは星空が好きだった。光の無い星だが、星空は地球の比ではなかった。二人はよくアルカディアの甲板に寝転んで星を見ていた。
「まあ……いつか地球に行ってみてもいい。アサギとなら」
本当は、地球に帰る場所は無いことをわかっていた。クルーの皆が懐かしんで話す自然は無くなっていた。
「私は……君がいれば……それで……」
「……アサギ?んもーまた寝てる!土屋―――!運ぶの手伝って!」
地球からやってきた第二陣の船はあっけなく流星の欠片となって散った。アルカディアと退避隊が袂を別つ決定的なものとなった。
それからの顛末は酷いものだった。
退避隊はアルカディアには攻撃しなかった。しかし、いずれやってくる地球からの宇宙船を排除し続けること、その協力を要請することを通達した。断ればアルカディアにも攻撃が及ぶことは明らかだった。
退避隊はこれまで、再三地球に向けて移民計画の延期を求めてきた。それでも地球を脱出する船は次々と出航した。このままでは自分達の住処が侵略され無くなってしまう。そういう強い危機感を抱いていた。
アルカディアが退避隊に恭順することはなかった。それは総意だった。愛する者を地球に置いてきたクルーも少なくなかった。
「これ以上退避隊の横暴を許してはいけない」
積み重なった怒りはもう収められそうもなかった。哀れなことに、これは義憤だった。互いに正義があった。だから、互いに止まれなかった。
最初に、退避隊本部が燃えた。屋根などは地球から持ってきた木材で造られていたから、よく燃えた。銃撃戦が起きて、若い男達から死んでいった。
ウスバとアサギは負傷者の手当てを手伝った。アサギは手榴弾で血の雨が降ったのを見て、ほとんどご飯が食べられなくなった。
アルカディアは数的不利をとっており、次々に拠点を失った。残った人間は市街から引揚げ、アルカディアの中に立てこもった。
ウスバは負傷者でいっぱいになった会議室で包帯を運んでいる。呼ばれたような気がして、重傷者が集められる列を歩いていた。その列の中に土屋を見つける。彼は血を流しすぎて、長い間意識を失っていた。話せる状態ではないはずだった。しかし、確かにウスバを見て、口を開いた。
「私が死んだら……埋めて、ください。土になるの、夢だったんです。笑える……で……しょ……」
「あ……あ……嫌、いや、いや」
ウスバが駆け寄って手を握る。もう握り返してはくれなかった。
アサギは大人に呼ばれてウスバのもとへ駆けつけた。
「なァ……アサギ……」
へたり込んだウスバの前に土屋が横たわっている。俯いている彼女の表情はよく見えない。
「ボク達の研究は……役に立たないなァ……!」
アサギは震えているウスバを強く抱きしめる。彼女が堪えていた涙が滴った。
「戦争に利用されるよりずっと良い……」
アサギは歯嚙みして、ウスバの温もりを確かめる。もうアルカディアのクルーは半分以下だった。
三週間ほどでアルカディアのクルーは抵抗する力を失い、誰もが無為に過ごした。補給路を完全に断たれ、できることは餓死を待つことだけだった。耐えきれず船外に出た者は撃たれた。ウスバとアサギは研究室の壁にもたれ、手を握って寄り添っている。
ウスバだけが起きていて、アサギのこけた頬をなぞった。もうできることはなかった。彼は一日のほとんどを眠って過ごした。ウスバはよく不安になって心音と呼吸を確かめた。
起きている間何かを考えるのは辛くて、ウスバはアサギの書いた小説を読んでいた。現実であった事を基に、一日ごとに一ページの物語がノートに綴られている。人間は魚に、舞台は地球に置き換えられていて、その独特な世界観を楽しんでいた。
ウスバは、続くことが好きだった。続くことだけが彼女の希望だった。続ければ、続きがあれば、何かが変わって、好転することがある。
「アサギ、キミが生きる限りずっと書き続けて。ボク、これ大好きなんだ」
いつかそう言って、「それって、死ぬまで一緒にいるってこと?」と聞き返された。アサギは、ずっとウスバの隣で書き続けると約束した。
何日それが続いたのかは分からない。とりあえずまだ餓死者が出ないくらいの日数が経って、研究室のドアが開いた。痩せたみんなが二人を見てほほ笑んだ。
「アサギ、ウスバ。ご飯にしよう」
アサギは他のクルーの肩を借り、ウスバもふらつきながら会議室にたどり着くと、そこには夢のような光景が広がっていた。二人分の料理がある。
「なんで……」
「君達には新しい任務を与えることにした。そのためにはいっぱい食って力をつけなきゃな」
松葉杖を脇に置いて、リーダーが笑った。用意された食事は二人分だけだが、全員が食卓につく。
「少しづつ食べろ。身体に悪いからな」
ウスバはがっつきそうになるのをこらえて、ゆっくりと匙を口に運んだ。白黒の世界に色がついたようだった。じゃがいものスープ。ベーコン。スクランブルエッグ。
彼女の目から涙が止まらなかった。無心、無言で食べた。アサギに用意された料理は流動食が多かった。彼もゆっくりと食べていた。
残ったクルーの皆が二人を見ながら思い出を語らった。初めてこの星を観測した日。探索隊が空鯨に遭遇した日。食中毒に苦しんだ日。砂を吸ってアレルギー反応が止まらなくなった日。船外で初めて眠った日。水道に空魚が混入して大騒ぎになった日。第二陣の報が届いた日。人口土壌から芽が出た日。街に電線を通した日。人間同士で戦った日。船に逃げ込んだ日。
「頑張ったよな、俺達」
「面白いことばかりでした」
「初めて見るものに溢れてたわ」
もう若くない歴戦のクルー達は思い出をしみじみと味わった。
食後、ウスバとアサギは船の奥に連れていかれた。幼少期に探検して以来入ったことのない部屋だった。リーダーがスイッチをつけると、棺桶のようなカプセルが一つだけ照らされた。
「この星に着いて、必要が無くなったのでバラしてしまったが、一つだけ残しておいた。二人とも小さいから入るだろう。ウスバ、アサギ」
彼が目で促す。それはコールドスリープのための機械だった。ウスバは動揺する。クルーを振り返り叫んだ。
「任務って……みんなは!?みんなはどうするんだよ!」
「この星はまだまだ開拓できる。未踏の地を目指すよ」
「嘘だ!みんな死ぬ気なんだろ!そんなのボクは許さないからな!」
頬が熱い。勝手に涙が伝っていた。
「君達は一番若い。きっと未来は明るいさ」
見たことのないリーダーの表情にウスバは言葉を失った。クルーの何人かも泣いていた。自分が死ぬからではない。別れがつらいのだ。アサギは拳を握りしめ、開いた。
「行こう、ウスバ」
アサギがウスバの両肩に手を置く。
「いや……いやだよ」
涙を止められないまま、抱き合った形でカプセルの中に入った。リーダーが蓋を閉める。ウスバは硝子越しに手を当てた。残ったクルーの全員が寄り添い、手を当てる。
皆が何かを言っているが、硝子が厚くて聞き取れない。やがて冷気が流れ込んできて、ウスバは彼の胸の中に収まった。お互いを抱きしめて、意識を手放した。
誰かが名を呼んでいる。アサギが瞼を開くと、老婆がこちらを見ていた。
「ウスバ……?」
駆動音がする。心臓の音がしない。目も耳も異様なほど冴えわたっている。身体は硬く、服だけが柔らかい。袖からは関節が覗いていて、継ぎ目がわかる。
「わかるんだね、ボクが……!」
本当は、一番近くにいたはずの人間を呼んだだけだった。膝立ちの老婆がアサギを抱く。
彼女は泣いていた。アサギはぎこちなくその背中に手を当てた。温もりは伝わってこなかった。
長い時間をかけて、アサギはコアを持つロボットとして蘇った。戸惑いつつも、ウスバと再び会えたことに喜びを感じていた。彼は自分のロボットの身体についてウスバから説明を受けた後、まじまじとウスバを見つめる。車椅子にのった彼女の髪は白くなり、顔の肌が垂れてきている。元から小さかった彼女がいっそう小さくなったようだった。しかし身体の線は太くなっている。
「少し、肉がついたんじゃない」
「恥ずかしいことに、食べていないと落ち着かなくてね。この年で太れるのは才能らしい」
自嘲気味にウスバは笑った。棚から厚い本を取り出す。
「キミが眠っている間のことをまとめてある。読むかどうかは任せるよ」
「私は君のことをずいぶん待たせてしまったみたいだ。今は早く君に追いつきたい」
無機質な研究室で、アサギは手書きの本を受け取る。ページがうまくめくれず、手間取ったが開くことができた。
君が眠ってからのことをここに記す。できるだけ簡潔にまとめた。想像の通り、悲しいことが多い。君が全てを知る義務は無い。
それでも知りたいなら、僕は君に全てを明かそう。
二千五十一年 二月
僕達が眠った後、皆は軍と戦った。一部は逃げのびた。僕達は発見されなかった。飛行機能を失っていたアルカディアは要塞化された。
二千五十二年 三月
王政府が樹立した。ある程度インフラが安定する。
十月
この星に未踏の地は無くなった。
二千五十三年 一月
僕達の入っているカプセルが発見された。身元を確認した王政府は利用価値を見出し、保護することにした。
四月
僕が目覚めた。君は衰弱していてすぐに治療を受けることになった。
五月
僕は政府に囚われ、電気を用いた脳の治療についての研究を行うことになった。未だにこの星の人間は空鯨や空魚による心身消耗に悩まされていた。
君は眠り続けている。
八月
第三の大型移民船が入港したところを爆撃され、墜落した。これを皮切りにたびたび地球から来た船と砲撃戦が起こるようになる。
二千六十年 十月
空鯨の核を参考にして、個人の脳の電気信号パターンをコンピューターに複製できるようになった。まだ人格の複製とまではいかないが、大きな前進だ。
二千六十五年 一月
新しい地球候補が見出された。恒星が近くこの星より温暖で水も豊富らしい。地球はセカンドアースへの移民を停止した。
二千七十三年 六月
内紛が絶えない。
二千七十六年 七月
この星の鉱石に導電率がぴったりのものがあった。この鉱石に帯電させることで、人の脳を再現できるかもしれない。これを紅玉と呼ぶことにする。
二千九十年 三月
君の脳から紅玉にネットワークを定着させることに成功した。この紅玉は脳の複製と言えるだろうか。まだ検証が必要だ。みんなは紅玉を魂コアと呼んだ。
五月
君の肉体が滅んだ。
・
・
・
二千百五年 八月
君に見合う身体を用意できた。おはよう。
最後まで読み終えて、思わずアサギは頁を破ってしまった。まだ力の加減がうまくできない。
「ごめん……ウスバ」
ウスバは震える手から本を受け取る。時間の重みを感じていた。
「本当に長い間、君を一人にしてしまった」
アサギは目を閉じて俯く。ウスバが寄り添った。
「ずっと、キミのことを考えていた。一人じゃなかったさ」
アサギのプラスチックでできた頬を撫ぜる。彼は膨大な事実を反芻していた。この星は退避隊が支配していること。ウスバは退避隊のもとで研究を行ってきたこと。自分はもう死んでいて、彼女によって蘇ったこと。
「この……
アサギは胸の中心をなぞる。そこに魂が内蔵されていた。
「うん。キミの脳の電気信号の動きを鏡のように映したのがコアだ。空鯨のものを参考にした」
空鯨の身体の中にある石には電気が宿っており、膨大な情報を読み取ることができた。
「私の脳だけが保存されている……という認識で構わないのかな」
「脳の模写をしてはいるが、脳の欠陥までは引き継いでいない。例えば、コアは錯覚を起こさない。物理的な波長そのもので世界を観測できるんだ」
人間の臓器で、物を見ているのは目ではなく脳だ。だから色を間違えたり、見えないものが見えたりする。
「……それは、すごいね」
「まだ不確定なことも多い。ボクは曖昧なこの魂が尊いものであってほしいという願いを込めて……心と呼んでいる」
ウスバは微笑み、アサギの胸に手を当てた。彼がそれを包み込んだ。
「心。心、か。曖昧な言葉に託したんだね。君らしいよ」
アサギも微笑んだ。
「そろそろ……他の研究員が来る。キミのことを検査するだろう……ごめん、アサギ」
「いいよ。もう疲れたでしょう。君はお休み」
眠そうなウスバの車椅子を動かす。薄暗く、小さな部屋の簡素なベッドの前まで運んだ。車椅子から移すのは力加減を誤ってしまうのが怖くてできなかった。部屋を出ると、すぐに白衣の男が待ち受けていた。
「コアロボットは貴様で五体目だ。だから我々は貴様を
「人質をとって搾取する気なんだね。君達はいつもそうだ」
アサギは大げさに肩をすくめる。遊びの無い研究所の廊下を二人は歩く。
「生憎私は若いので、昔のことはよく分からないが……貴様は遺伝子の研究をしていたようだな。貴様自身を調べつつ、―――の研究に加わってもらう」
長身の男は淡々と話した。アサギが立ち止まる。
「……ウスバには秘密にしておいてくれ」
「わかったよ」
ウスバは緊張の糸が切れたのか、毎日眠りこけるようになった。アサギは毎朝早い時間に彼女を訪ね、調査の時間になるまで二人で過ごした。
彼は眠ることができなかった。目を閉じても耳を塞いでも辺りの状況を知覚してしまうようだった。
彼は少しずつおかしくなっていった。
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