恋と決別

 勇者マリアと私が、密約を結んでから、一ヶ月が過ぎた。

 昼は、それぞれの立場で、互いの軍を率いて熾烈な戦いを繰り広げる。私は知略の限りを尽くして人界軍の進撃を阻み、マリアは女神から与えられた力で魔王軍の砦を打ち砕いては我が軍の動きを封じる。

 双方の攻防は一進一退であり、戦況はこの一ヶ月間、ほとんど動かない膠着状態となる。


 兵士たちは、我々をそれぞれの軍の英雄、あるいは象徴として称えた。まさかその二人が、夜ごと密かに会っているなど、誰も想像だにしなかっただろう。


 私たちの密会は、戦場の喧騒から離れた、静かな場所で行われた。

 古い森の奥深くにある泉のほとり。

 忘れ去られた山間の村の廃墟。


 最初は、和平工作の進捗を報告し合う、実務的な会談だった。

 私は、魔王軍内部の主戦派、特に人界征服の野望に燃える軍務総監バルバトス公爵の説得がいかに困難であるかを語った。

 マリアは、人界諸国の足並みが揃わず、魔族との対話を弱腰と断じる諸侯や教会勢力が大きな壁となっていることを打ち明けた。

 状況は、芳しくなかった。私たちが望む和平への道は、あまりにも遠く、険しい。


 だが、それとは別に嬉しい変化もあった。会う回数を重ねるうちに、私たちの会話は次第に戦争以外の事柄にも及ぶようになっていったのだ。


「ダンタリオンは、人界の本がお好きなのですね」


 ある夜、月明かりの下で、マリアが不思議そうに言った。。


「ええ。身体が弱かったので、幼い頃から、本の中の世界を旅するのが唯一の楽しみだったからな。歴史や戦術、魔法理論……書物から得られる知識は、私にとって剣であり、鎧なのだ。人界の本は、魔族には無い視点で書かれているものが多く、私にはとても新鮮で面白い」


「……私とは、正反対ですね。私は、物心ついた時から剣の稽古ばかり。本は、少し苦手で」


 そう言って、彼女ははにかんだ。

 戦場での神々しいまでの姿とは違う、年相応の少女のような、柔らかな表情。私の心臓が、不覚にも小さく跳ねた。


「貴女には、その必要がないでしょう。貴女の力は、あらゆる知識や理論を超越している」


「そんなことはありません。この力は、女神様から与えられた借り物のようなもの。時々、この力が自分のものだとは思えなくて、怖くなるんです」


 勇者としての苦悩、重圧。

 彼女が誰にも見せたことのない弱音を、私にだけは零してくれた。

 それが、どうしようもなく嬉しかった。

 私たちは、互いの素顔を知るたびに、急速に惹かれ合っていった。

 魔王軍総参謀長でもなく、人界の勇者でもない。ただのダンタリオンと、ただのマリアとして、心を通わせる時間。それは、血と硝煙にまみれた日常の中での、唯一の救いだった。


 変化は、些細なことから始まった。

 会う約束の時刻よりも、少し早くその場所へ向かうようになった。

 別れの時が来ると、名残惜しく感じるようになった。

 彼女の金色の髪が月光に照らされて輝くのを、いつまでも見つめていたいと思うようになった。


 そして、ある嵐の夜だった。

 激しい雨風を避けるため、私たちは小さな洞窟で身を寄せ合っていた。焚き火の炎が、濡れた彼女の横顔を照らす。


「……もし、戦争が終わったら、ダンタリオンはどうするのですか?」


 不意に、彼女が問いかけた。


「さあ……どうだろうな。陛下に仕え、魔界の復興に尽力するでしょう。貴女こそ、どうするのだ? 人界の英雄だからな。民に聖女と称えられて、どこかの国の王族にでも嫁ぐのかもしれないかな?」


 少しだけ、意地悪な言い方になったのは、私の嫉妬心からだった。

 その言葉に、マリアは寂しそうに微笑んだ。


「そんなのは、嫌です。……私は、静かな場所で、穏やかに暮らしたい。もう、誰も傷つけず、誰にも傷つけられず……。小さな家で、好きな人と、ただ……」


 彼女の声が、震えていた。

 私は、たまらず彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。

 驚いてこちらを見る、蒼い瞳。雨音と、心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……マリア」


 どちらからともなく、顔を寄せた。

 唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬。だが、その一瞬は、永遠のように感じられた。

 私たちは、敵同士という最大の禁忌を、破った。

 だが、後悔はなかった。むしろ、ようやく本来あるべき場所を見つけたような、安らかな気持ちだった。


 それからの私たちは、同志であり、恋人だった。

 密会の時間は、甘く、そして切ないものへと変わった。

 戦場で互いに刃を交えねばならぬ現実が、私たちの心を苛む。だが、だからこそ、二人きりでいられる時間が、何よりも尊かった。


 晴れ渡った夜空の下、二人で星を見上げた夜のことだ。

 彼女は、私の肩にそっと頭を預けながら、夢見るように言った。


「人界と魔界の和睦が叶えば、私達もずっと一緒にいられますね」


 その言葉は、私にとって何よりの希望であり、何よりの呪いとなった。

 必ず、実現させなければならない。彼女と共に生きる未来のために。

 私は、彼女を強く抱きしめ、固く誓った。


 しかし、運命は、あまりにも残酷だった。

 私たちの必死の説得も虚しく、魔王軍、人界軍、双方の主戦派の勢いは増すばかりだった。

 バルバトス公爵は「勇者一人に怯えるなど、魔王軍の恥だ!」と私の和平案を一蹴し、陛下もまた、彼の言葉に同調した。

 マリアもまた、人界の王たちに「魔族との対話などありえない。勇者よ、我らのために魔を滅ぼせ」と、その願いを退けられたという。


 事態は、最終局面へと向かって、急速に転がり落ちていく。

 もはや、誰にも止められない。


 最後の密会となったのは、魔王城での決戦を三日後に控えた夜だった。

 いつもの森の泉で、私たちは言葉もなく、ただ互いの顔を見つめていた。


「……ダンタリオン。私は、魔王城へ行き、魔王の首を取ります」


 マリアが、決意を固めた目で言った。


「……分かっている。私は、魔王軍総参謀長として、全身全霊を以て貴女を迎え撃つ」


 私の声は、自分でも驚くほど、冷静だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

 私は、その涙を指で拭い、静かに首を振った。


「謝るのは、私の方だ。君との約束を、守れなかった」


「いいえ……」


 もう、言葉は必要なかった。

 私たちは、互いの役目を果たさねばならない。

 心を、殺して。愛を、殺して。

 それが、それぞれの民に対する、私たちの誠意であり、責任だった。


「……もし、来世というものがあるのなら」


 私が言うと、彼女は涙に濡れた瞳で、私を見上げた。


「その時は、魔族でもなく、勇者でもなく……ただの男と女として、出会いたいですね」


「……ああ。きっと。必ず、見つけ出すから」


 それが、彼女と交わした最後の言葉だった。

 私たちは、一度だけ深く口づけを交わし、そして、背を向けてそれぞれの戦場へと戻った。



 ◆◇◆◇◆



 ――そうだ。私は、彼女とそんな約束を……。

 術式が完成し、私の意識が完全に闇に飲まれる、その寸前。

 私は、ありったけの想いを込めて、心の中で呟いた。


(マリア……どうか、無事で。そして、幸せに……)


 私の魂は、古びた魔導書の光に包まれ、時空の彼方へと解き放たれた。

 愛した人の名前を、胸の奥深くに刻みつけて。

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