『寂しい人』
鈴木 優
第1話
『寂しい人』
鈴木 優
駅のホームに立つと、風が背中を押した。
夕暮れの光は淡く、誰かの記憶のようにぼんやりと滲んでいた。
彼は、毎週金曜日の午後五時にこの場所へ来る。
理由は誰にも話したことがない。
話す相手も、もういない。
『今日も、来たんですね』
声をかけたのは、売店の女性だった。年齢は彼より少し若いくらい。
彼女は、いつも同じように缶コーヒーを差し出す。
温かいのと、冷たいの。
選ばせるのではなく、両方渡す。
『ありがとう。どっちにしようか、迷うのが好きなんです』
彼は微笑む。誰かに話すのは久しぶりだった。
彼がこの駅に通い始めたのは、三年前の春だった。
妻が亡くなった日、彼はこのホームで電車を待っていた。
病院からの電話を受けたのは、ちょうど電車が到着する直前だった。
『間に合いませんでした』
その言葉が、電車の音にかき消されて、何度も頭の中で繰り返された。
それ以来、彼はこの場所に通うようになった。
何かを待っているわけではない。
ただ、風の音と、電車の振動と、誰かの足音が、彼の中の空白を少しだけ埋めてくれる気がした。
売店の女性―名前はまだ聞いていない。
最初はただの常連客として。
でもある日、彼が缶コーヒーを買わずに立ち去ろうとしたとき、彼女はそっと声をかけた。
『今日は、冷たいのにしますか?それとも、温かいの?』
その言葉に、彼は少しだけ泣きそうになった。
誰かが、自分の選択を気にしてくれる。
それだけで、世界が少しだけ優しくなった気がした。
『名前、聞いてもいいですか?』
彼は、缶を飲み終えたあと、ぽつりと尋ねた。
彼女は少し驚いたように目を見開き、それから微笑んだ。
『佐伯、 佐伯美咲と言います』
そして、少し照れたように続けた。
『あなたは?』
彼は、風の音に耳を澄ませながら、答えた。
『高橋です。高橋誠一』
その瞬間、風が止んだ。
まるで、名前を交換することで、何かが始まったような気がした。
"寂しい"と感じている人は、誰かに名前を呼ばれただけでも、少しだけ寂しくなくなる。
それは、缶コーヒーの温度よりも、確かなぬくもりだった。
『寂しい人』 鈴木 優 @Katsumi1209
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。『寂しい人』の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます