月下の密約、拳下の誓約 ~伯爵家の嫡男に駆け落ちをしようと言われたので約束の場所に行ったら殺されそうになった貴族令嬢の話~
よし ひろし
第一話 月下の密約
空には冴え冴えとした月が浮かび、銀色の光がアーレンベルク伯爵家の裏庭を静かに照らしていた。季節は秋。ひんやりとした夜気が、燃えるような紅葉に縁どられた庭園に満ちている。その一角、大理石の女神像の陰で、二つの人影が寄り添っていた。
「エドヴァルト様……」
吐息のように甘い声で名を呼んだのは、リリアーナ・ブラウエル。領地を持たない下級貴族の娘でありながら、その清楚で儚げな美貌は社交界でも噂の的だった。絹糸のような銀髪が月光を浴びてきらめき、潤んだ瞳が目の前の青年をひたと見上げている。
「リリアーナ」
彼女を腕に抱くのは、この屋敷の嫡男、エドヴァルト・フォン・アーレンベルク。金の髪に青い瞳、彫刻のように整った容姿で社交界の花形と謳われる彼も、今はただ一人の男として、愛しい女性の温もりを確かめていた。
「ああ、リリアーナ。君とこうしている時だけが、本当の私でいられる気がする」
「私もです、エドヴァルト様。あなたの腕の中が、私の唯一の安らげる場所……」
二人はそっと唇を重ねる。家柄やしきたり、社交界の喧騒も、この月下の庭では遠い世界の出来事のようだった。しばしの陶酔の後、リリアーナが彼の胸に顔をうずめたまま、ぽつりと言った。
「いつか、こうして月を眺めながら、あなたと夫婦として暮らせる日が来るのでしょうか……」
しかし、その言葉は、甘い空気を一瞬にして凍らせた。エドヴァルトの腕から力が抜け、表情が苦悩に曇る。
「……リリアーナ、すまない」
「え……?」
「父上と母上に、君とのことを話した。だが……反対された。家格が違いすぎると、許してもらえなかったんだ」
絞り出すような声に、リリアーナの肩が小さく震える。エドヴァルトは言葉を続けた。
「それだけじゃない。私には――ヴェルテンシュタイン侯爵家のイゾルデ嬢との縁談が、ほとんど決まりかけているのだ……」
両親に逆らえない。貴族社会の掟には抗えない。優柔不断な彼の性格が、愛する女性を深く傷つけていた。
「……」
リリアーナは何も言わず、ただうつむいている。そのか細い背中が、エドヴァルトの罪悪感を掻き立てた。そして、追い詰められた彼は、ほとんど衝動的に叫んでいた。
「そうだ、駆け落ちしよう! 二人で! こんな窮屈な世界を捨てて、遠い街で暮らすんだ。君さえいれば、私は何もいらない!」
リリアーナがゆっくりと顔を上げる。その美しい瞳に宿ったのは、喜びでも、悲しみでもない、一瞬の不可解な光だった。それはすぐに消え、いつもの儚げな表情に戻ったが、エドヴァルトがその変化に気づくことはなかった。
「……本気、ですか?」
「本気だとも! 君のためなら、私はすべてを捨てる覚悟だ」
彼の言葉に、リリアーナはこくりと頷いた。
「わかりました。あなたを信じます」
二人は明日、日が暮れる頃に街外れの公園で落ち合う約束を交わした。名残を惜しむように、もう一度深く唇を重ねる。
「明日、必ず行くから」
そう言い残して、エドヴァルトは庭の闇へと消えていった。
一人、その場に残されたリリアーナは、彼の去った方向をしばらく見つめていた。やがて、その可憐な顔から、すべての感情が抜け落ちていく。少女のような儚さは消え去り、代わりに浮かび上がったのは、すべてを見透かしたような冷徹な光。
そして、その唇の端が、三日月のようにゆっくりと吊り上がった。
「駆け落ち、ね……」
その呟きは、秋の夜気よりもずっと冷たく、庭の静寂に溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます