第2話:灰巣村(はいすむら)
朝の霧が、まだ消えない。
白い靄の中に、鳥の声が遠く響いていた。
だがその鳴き声は、まるでどこかの“合図”のように等間隔だった。
芦田蓮(あしだ・れん)は、集会所の畳の上で目を覚ました。
夜のうちにいつのまにか布団が敷かれ、湯呑みにはまだ温もりが残っている。
人の気配がする。
だが、誰もいない。
立ち上がると、窓の外に一人の老女が立っていた。
視線が合うと、老女は静かに会釈し、何かを口の中で呟いた。
唇の動きが読める。
──「おかえりなさい」。
蓮は返事をしなかった。
老女はゆっくりと背を向け、霧の中へ消えていく。
足音は、しなかった。
外に出ると、村は奇妙なほど清潔だった。
道端の石は磨かれ、家々の前には花が供えられている。
だが花瓶はどれも“墓標”のように並んでいて、名前も日付もない木札が立てられていた。
小さな子どもが蓮の袖を引いた。
十歳くらいの女の子。
薄いピンクのワンピースに、麦わら帽子。
笑っているが、その笑みはどこか大人びていた。
「おじさん、だれを迎えに来たの?」
「友達だよ。柏木っていう」
「ふーん。……その人、まだ帰ってないんだ」
「会ったことがあるのか?」
「うん。おばあちゃんと話してた。夜に」
夜に、という言葉が引っかかる。
この村では夜になると、外に出る人間はいないはずだ。
そう聞いていた。
「何を話してた?」
「“まだ寒い”って」
少女は首を傾げ、少し笑った。
その笑顔が妙に整いすぎていて、まるで“作られた顔”のように見えた。
「……おじさんも、すぐあったかくなるよ」
そう言い残して、少女は走り去った。
その足音も、途中から消えた。
◇
午前十時、村長の家に呼ばれた。
昨日の男――白石(しらいし)という。
整えられた玄関、塵ひとつない廊下。
古い家なのに、空気は異様に新しい。
「よく眠れましたか、芦田さん」
「ああ。静かすぎて、眠れすぎました」
白石は笑った。
その笑いは温かいのに、目だけが冷たい。
「この村はね、長く外の音を拒んで生きてきました。
都会の人には、退屈でしょう」
「……退屈は嫌いじゃない。ただ、“音がなさすぎる”のは落ち着かない」
「慣れますよ。そのうち、“音がないこと”が、心地よくなる」
白石が茶を注ぐ。
茶の香りは甘く、どこか鉄のような匂いがした。
「柏木さんは、この村の“静けさ”を壊したんです」
「どういう意味ですか」
「夜に歩き回った。誰も外に出ない時間に。
“人が眠ってるのに、声が聞こえる”と怯えていた」
白石は微笑を崩さず、続けた。
「やがて、村の人に訊いて回った。
“この村は、誰を埋めていない?”ってね。
そんな質問をされたら、みんな怖がりますよ。
ここでは、“忘れること”が平和なんです」
忘れること――
その言葉に、蓮は小さく反応した。
どこかで似た思想を見た気がした。
死を忘れることが、罪を消す。
そう信じた集団を、刑事時代に取り調べたことがある。
「柏木はどこに泊まっていた?」
「旧・長尾(ながお)家です。奥の集落の端にある古い家。
もう誰も住んでいませんが、“あの人が勝手に使ってた”んですよ」
白石が笑いながら地図を描く。
筆圧が強く、線が紙に食い込む。
「行くのはいいですが……夜になる前に戻ってきてください。
この村の夜は、外から来た人間には冷たすぎる」
蓮は頷いた。
その“忠告”の裏に、何層もの意味があることを感じながら。
◇
午後、旧・長尾家。
屋敷は崩れてはいないが、妙に新しい木の匂いがする。
まるで“昨日建てられた廃墟”のようだった。
土間には、茶碗が二つ。
片方には、まだ乾いていない茶葉が残っている。
畳の上に、柏木の手帳が落ちていた。
表紙には、乾いた泥の跡。
最後のページだけ、掠れた文字が読めた。
「彼らは、“死”を介護している。
この村では、死体を……“看取らない”」
ページの端が破れている。
引き裂かれた跡は、指でちぎったように乱暴だった。
蓮は立ち上がり、家の奥へと進んだ。
襖の向こう、布団が敷かれた部屋。
誰かが寝ている――と思った。
近づくと、それは人だった。
いや、“人の形をした何か”。
布団の下から、わずかに動いた。
蓮は息を殺した。
湿った呼吸音。
腐臭。
それでも、その“何か”は、胸を上下させている。
生きている?
次の瞬間、背後で襖が音を立てて開いた。
「その人には、触れないでください」
声は、昨日の若い女のものだった。
黒髪をひとつに束ね、まっすぐな目をしている。
「彼女は、もう死んでます。でも、まだここにいるんです」
「……あなたは?」
「楓(かえで)といいます。看取り人です」
楓の目は澄んでいた。
だが、その奥にあるのは“信仰”だった。
「村では、死んだ人を“忘れない”ように看るんです。
血が冷えても、匂いが消えるまで、家族が世話をする。
それが“愛”だと、みんな信じています」
蓮はゆっくりと息を吸った。
言葉を選ぶ。
正面から否定しても、何も得られない。
「じゃあ……これは愛の形か」
「そうです。
だからあなたは、ここで見たことを“忘れて”帰ってください。
忘れることが、この村を守る唯一の方法です」
楓はそう言って、微笑んだ。
その笑顔が、一瞬だけ歪んだ。
まるで別の誰かが、その顔を通して笑っているように。
◇
外に出ると、夕暮れの鐘が鳴った。
村全体が、同じタイミングで動きを止める。
畑の女も、子どもも、みな空を見上げて手を合わせる。
その姿は美しく、そして、恐ろしく整っていた。
まるで“誰か”が彼らを操っているように。
芦田はその場に立ち尽くし、ただ一言、呟いた。
「柏木……お前、何を見たんだ」
風が止まり、村のすべての音が消えた。
次の瞬間――耳の奥で、囁き声がした。
“ただいま、おかえり”
その声は、まるで柏木の声に似ていた。
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