『灰巣の村(はいすむら)』
蒼月想
第1話: 沈黙の拳
雨粒が、交番の庇(ひさし)を叩いていた。
夜勤明けの午前四時。
街道を走る車はほとんどなく、コンビニの白い光だけが、濡れたアスファルトに滲んでいる。
芦田蓮(あしだ・れん)は、書類の束を閉じて背もたれに身を預けた。
壁の時計は、秒針だけがやけに元気だ。
静かだった。
静かすぎる夜は、人の心の奥を嫌でも浮かび上がらせる。
机の隅に、古びたファイルが一冊置いてある。
上から新しいラベルを貼られているが、その下に薄く残る文字は、蓮だけが知っていた。
――暴力団抗争 取調べ室内傷害事案。
ファイルの中身を、彼はもう開かない。
開かなくても、場面は脳裏に焼き付いている。
泣いている子ども。
笑っている男。
「おまえのせいで母親が死んだんだ」と耳元で囁く声。
怒鳴り声でも、罵倒でもない。淡々とした音程が余計に残酷だった。
あの瞬間、自分の中で何かが切れた――と人は言う。
だが、蓮にとっては逆だった。
「あ、間に合わない」と思った。
この男の口が、これ以上動く前に止めなければ、目の前の子どもの心は取り返しがつかなくなる。
それだけだった。
机を叩いた拍子に、椅子ごと身体が動いた。
気づけば男は床に倒れていて、取調べ室は沈黙していた。
その沈黙が、彼の名前を変えた。
「鬼蓮(おにれん)」。
暴力団を「拳で収めた」刑事――と新聞は書いた。
水面下では、上層部の責任論と、世間の「警察の暴力」批判が渦巻いた。
蓮は尋ねられるたびに、同じことを答えている。
「殴らないで済むなら、その方がいい。
ただ、あのときはもう遅かっただけです」
その言葉は、どこにも届かなかった。
結果だけがひとり歩きし、彼は都心の捜査一課から外されて、山間部の小さな交番に“異動”になった。
◇
無線が鳴ったのは、ちょうどそんな過去を追い払おうと湯呑みに手を伸ばしたときだった。
「こちら本部。各所轄に通達。捜査一課所属・柏木浩介巡査部長、行方不明事案について――」
手が止まった。
柏木。
その名前に、胸の奥が小さくうずく。
蓮が捜査一課にいた頃、一番近くにいた後輩だった。
やたらと声が大きくて、正義感が空回りばかりして、書類仕事が壊滅的に下手だった。
――でも、泣いている被害者の前では、必ず一番低い声で喋った。
その柏木が、行方不明?
交番の裏口から、慌てた足音が近づいてくる。
若い巡査・山崎が、息を切らして飛び込んできた。
「芦田さん、聞きました? 柏木さんのこと……!」
「今、聞いたところだ」
蓮は椅子から立ち上がり、落ち着いた声で答える。
「どこで消えた?」
「“灰巣村(はいすむら)”っていう山奥の集落です。
本庁から応援って形で派遣されてて……その、村ぐるみのなんか変な噂があって、柏木さんが『俺がちゃんと調べますから』って自分から行ったらしいです」
らしい、という言葉が喉にひっかかる。
「行方不明になったのは、いつだ?」
「一週間前です。でも本部は……その……」
山崎は言いにくそうに視線を伏せた。
「“精神的な不調による失踪の可能性が高い。長時間拘束は人権問題になるから”って、
灰巣村からの聞き取りだけで打ち切りになったそうです。
住民の証言では“様子がおかしくなって勝手にいなくなった”って……」
その説明で、柏木の顔はまったく浮かんでこなかった。
山崎の声が小さくなる。
「本部の人、言ってましたよ。
“あいつ、あんたと組まされてから色々あったしな。メンタル折れてたんだろ”って」
蓮は何も言わなかった。
ただ、湯呑みを静かに置く。
茶渋がついた縁が、かすかに震えている。
――柏木が「心を壊した」という仮説と、
――柏木が「他人のために危ない場所にひとりで踏み込む」という現実。
どちらがリアルか、答えは決まっている。
「山崎」
「はい」
「お前は、この説明で納得したか?」
唐突な問いに、山崎は目を瞬かせた。
すぐに、首を振る。
「……正直に言うと、無理です。
あの人、メンタル壊れる前に殴るタイプですよ。すみません、口悪いですけど」
蓮は、そこで初めて微かに笑った。
「そうだな」
自分のデスクに戻ると、上段の引き出しから一枚の封筒を取り出した。
白い封筒。宛名も何も書かれていない。
中身はもう決めてあった。
ただ、出すタイミングだけがなかった。
蓮はペンを取り、迷いなく文字を書いていく。
――辞表。
ひと文字ひと文字が、静かに紙に沈んでいく。
「な、何やってるんですか」
「見てのとおりだ」
ペンを置く音が、やけに大きく響いた。
山崎の視線が、封筒と蓮の顔を行き来する。
「警察として行くことはできない。
行方不明者の捜索を打ち切った組織のバッジをつけたままじゃ、柏木の顔が立たない」
蓮は封筒を胸ポケットにしまい、ロッカーを開ける。
制服を脱ぎ、地味なグレーのシャツと黒いコートに袖を通す。
拳銃ケースに手を伸ばしかけて、そこで止める。
少しだけ考え、ケースを閉じた。
「……持っていかないんですか?」
「銃は、最後にしか出せないカードだ。
最初からそれを握ってると、人は話そうとしなくなる」
「じゃあ、何を持ってくんです?」
山崎の問いに、蓮は自分の手を見下ろした。
節だらけの拳。
だが、その握りはゆるい。すぐほどける握り方だった。
「十年分の、聞き取りの癖と」
ほんのわずか、口角が上がる。
「……あとは、どうしようもなく厄介な、先輩への情だな」
山崎は、何かを飲み込むような顔をした。
それから、深く頭を下げる。
「勝手なこと言いますけど……戻ってきてください。
俺、多分この仕事、芦田さんがいないと嫌いになります」
「気が変わったら、さっさと辞めろ。そういう人間が警察にいると、余計な被害が出る」
言葉は厳しいのに、声は不思議と柔らかかった。
◇
山を抜ける一本の国道から、さらに細い道へ入る。
「灰巣村」と書かれた錆びた案内板が、斜めに傾いていた。
スマホの電波は、とっくに消えている。
ラジオも、トンネルをくぐってからずっと砂嵐のままだ。
フロントガラスを叩く雨音だけが、一定のリズムで流れていく。
蓮は、運転席から周囲を眺めた。
山肌にへばりつくような古い民家。
畑らしきものは見えるが、人影はない。
灰色、という言葉が自然と浮かぶ。
色があるのに、どこか全体が、くすんでいる。
――灰巣。
奇妙な地名だ、と蓮は思う。
灰の巣。燃え尽きたものが集まる場所。
道が急に細くなり、片側が崖になる。
そのカーブを曲がったときだった。
ヘッドライトの白い光の中に、何かが立っていた。
蓮は反射的にブレーキを踏む。
タイヤが濡れた地面を滑り、腹の底まで響くような音が車内を揺らした。
数メートル先。
そこに、女が立っていた。
白い着物。喪服のようにも見える、質素な布。
長い髪は濡れ、顔ははっきり見えない。
だが、ひとつだけ異様な点があった。
首の角度が、おかしい。
うつむいているだけにしては、深すぎる。
顎が、胸にめり込んでいるような角度だった。
女は、動かない。
蓮も、動かない。
ワイパーが一往復する。
その刹那、ヘッドライトの光が女の顔を捉えかけ――
次に瞬きをしたときには、もうそこには何もいなかった。
雨だけが、道路を打っている。
蓮は、しばらくその場で深く息を吐いた。
心臓は早くなっていない。
ただ、背筋が、薄く冷たかった。
「……幻覚ってほど、若くないつもりなんだが」
ひとりごちて、再びアクセルを踏む。
村の入り口は、すぐそこだった。
◇
灰巣村の集落は、想像よりも“整って”いた。
舗装こそ古いが、道は掃き清められ、家々の前には花が供えられている。
窓ガラスは拭かれ、崩れかけた家は見当たらない。
田舎にありがちな、雑然とした感じがない。
整いすぎている。
早朝にもかかわらず、何人かの村人が蓮の車をじっと見ていた。
皆、似たような色の作業着や地味な服を着ている。
表情は穏やかで、敵意は感じない。
それでも――視線には「測っている」気配があった。
村の中心らしき場所に、小さな集会所がある。
蓮は車を降り、靴底に伝わる地面の感触を確かめた。
湿り気のある土。
歩くと、わずかに沈む。
「おはようございます。どちらさんで?」
声をかけてきたのは、五十代くらいの男だった。
笑い皺が深く刻まれていて、一見すると人当たりが良さそうだ。
「少し、人を探していまして」
蓮は、ポケットから名刺を出し――出しかけて、指を止める。
もう、警察ではない。
一拍の間。
その間を、自分で埋める。
「芦田と申します。柏木浩介という男が、こちらの村に来たと聞いています。
ご迷惑をおかけしているようでしたら、謝りたいと思いまして」
言葉を選ぶ。
“謝りたい”というフレーズは、相手の口を開かせるとき、よく効く。
男は少し目を見開き、それから、ふっと笑った。
「ああ、柏木さんね。元気な方でしたよ。
何日か、うちの村でお世話してました」
してました――過去形。
「今はどちらに?」
「さあ……。急にね、様子が変わって。
夜中に大声で、誰もいない方に話しかけたりして。
“ここで死んだ人間が、まだ見えてるんだ”なんてことを言い出して」
男は、困ったように頭をかく。
「俺たちもびっくりして、本庁の人を呼びましたよ。
そしたら、“精神的に参ったんだろう”って。
“そのうち自分で降りてきますよ”って言われてねぇ」
言葉の端々に、微妙な“慣れ”が混じっている。
こういう話は、初めてではない――そんな含み。
「それ以来、姿は?」
「見てませんねぇ」
蓮は、男の目をじっと見た。
笑っているが、笑っていない目。
そこに嘘があるかどうかは、すぐには決めつけない。
ただ、情報を積み重ねる。
「よければ、柏木が泊まっていた場所と、最後におかしくなったと言われる時間を教えていただけますか」
「そんなこと聞いて、どうするんです?」
「俺は、柏木の先輩です。
あいつの“おかしくなり方”を、俺自身の目で確かめたい」
男は、じっと蓮を見た。
数秒の沈黙のあと、その目から急に力が抜ける。
「……まったく。都会の人は、諦めが悪い」
苦笑混じりにそう言って、男は集会所の中を指さした。
「とりあえず、中でお茶でも飲みなさい。
うちは、よそさんをいきなり山に放り出すほど不親切じゃありません」
「お言葉に甘えます」
蓮が一礼して中に足を踏み入れたとき――
背後で、何かの“視線”が、ぴたりと止まった気がした。
振り返る。
そこには、若い女がひとり立っていた。
黒髪をひとつにまとめ、地味なワンピースを着ている。
年は二十代前半だろうか。
目が、大きい。
その大きな目が、蓮の胸元――封筒の入ったポケットを、真っ直ぐ見ていた。
目が合うと、女は軽く会釈をして、何も言わずに去っていく。
足音が、やけに静かだった。
◇
集会所の畳は、よく磨かれていた。
湯飲みから立ちのぼる湯気が、さきほどまでの車内とは別の温度を持っている。
「この村はね、よそ者にはよそ者なりの敬意を払うんです」
先ほどの男――村長だと名乗った男が、笑いながら言った。
「ただ、長くはいられない方がいい。
わが村は、死んだ人たちが多すぎてね。
たまに、数が合わなくなるんですよ」
「数が、合わない?」
「ええ。死んだはずの人を、みんなが“まだいる”と言い張る。
逆に、生きてるはずの人を、“もういない”と扱う。
……変でしょう?」
村長は、冗談めかして笑った。
蓮は、その笑い声の奥にあるものを探る。
「柏木は、その“数え方”に引っかかった?」
「さあねぇ。
でもあの人、しきりに言ってましたよ」
村長の目が、ふと細くなる。
「“あなたたちは、誰を葬っていないんですか”ってね」
その瞬間、集会所の空気が、わずかに沈んだ。
障子の向こうで、風が鳴る。
どこかから、鈴のような音が聞こえた気がした。
蓮は、湯飲みを置く。
握っていない方の手――拳のほうは、膝の上で静かに丸まっていた。
まだ、殴るときではない。
ただ、その時が来ることだけは、確信していた。
――この村は、何かを葬らないでいる。
それが、人か。
罪か。
あるいは、もっと別の「何か」か。
柏木は、その「何か」に触れてしまった。
芦田蓮は、静かに心の中で決めた。
この村が何を守っていようと、俺は後輩を取り戻す。
そのためなら、もう一度くらい、鬼と呼ばれてもいい。
畳の下から、微かな音がした。
誰かが、そこを歩いているような――そんな感触。
蓮は視線だけを落とし、息をひとつ整えた。
灰に埋もれた巣に、足を踏み入れたことを、このときようやく理解した。
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