第34話 すごいな、君は

丘を一つ越え、僕は一度だけ足を止め、来た道を振り返る。

アルメの街の白い壁は、もう地平線の向こうに沈んで見えなくなっていた。そこに広がっているのは、穏やかな起伏の草原と、どこまでも続く青い空だけだった。

リラとミーナの快活な笑い声も、市場の喧騒も、もう聞こえない。僕の耳に届くのは、乾いた草を踏む自分の足音と、肩の上で辺りをキョロキョロと見回しているコダマの気配だけだ。

胸を風が通り過ぎていくような心許なさを感じた。


僕は大きく伸びをすると、再び前を向いて歩き始めた。


そこでふと、思い出した。

ギルドマスターの依頼、完了報告してない……

結構高額の報酬が付いていたのに……

でも今更戻る気にはなれない。さっきの別れは何だったんだってことになる。失敗したなあ……

しかし、あの依頼は何だったんだろう?

絶対にギルドマスターは、運河の水が少なくなってる原因がサイラスにあるとわかっていたはずだ。だってどこよりも情報が集まるギルドのマスターなんだから。それなのに原因調査だなんて怪しすぎるだろ。早く気づけよ自分。

あれはきっとその報酬に釣られて調査に行ったバカな冒険者が、あそこで殺されるかなんかして、それを口実に乗り込む気だったんだ。

クソー。

ギルドマスターめ。

よし、さっさと『沈黙の僧院』を攻略してアルメに戻って、安心しているギルドマスターに依頼書を叩きつけてやる。叩きつけて、報酬は絶対にもらうんだ。


旅は、僕が思っていたよりも早く困難に直面した。

丸一日歩き続けてたどり着いた地図が示す川は、かつての面影もなく干上がり、太陽に焼かれた白い石を無数に晒している。水筒の中にまだ水は残っているが、もう飲みたい時に飲めるほどの余裕は無い。喉の渇きそのものよりも、この先も水が見つからなかったら、という想像が思考を鈍らせていく。


「……困ったな。川があると思い込んでた。」

僕は乾いた唇を舐め、川底だった場所に転がる岩に腰を下ろした。

肩の上のコダマも、心なしか元気がないように見える。

僕はもう一度目を閉じ、乾いた土の匂いを運ぶ風の『声』に耳を澄ませてみるが、聞こえてくるのはクスクス笑いのような囁きばかりだ。水のありかを示すような、意味のある声は拾えなかった。アルメでの暮らしで、少し感覚が鈍ってしまったのかもしれない。


その時だった。それまでじっとしていたコダマが、するりと僕の肩から降りて、眼の前の岩へと飛び移った。そして、まるで何かを確かめるように、小さな手のひらを岩の表面にぴたりとつける。

しばらくすると、また隣の岩へと飛び移り、同じように手のひらを当てた。


何をしているのだろう、と僕が見つめていると、コダマはまるで飛び石を渡る子供のように、岩から岩へとうろうろと歩き回っていた。その動きは、ただの気まぐれには見えなかった。

いくつかの岩を確かめた後、コダマはある一つの、特に大きな岩の上でぴたりと動きを止めた。そして、僕の方を振り返ると、その岩を「とん、とん」と強く叩いてみせた。


「……その岩が、どうかしたのか?」


コダマは僕の言葉に答える代わりに、岩の上からぴょんと飛び降りると、僕を手招きするように先へ進む。一つの岩に乗っては僕を待ち、また次の岩へと移っていく。その動きには、もう迷いがなかった。まるで、地面の下を流れる、目には見えない川の流れを辿っているかのようだ。


コダマに導かれるまま、僕は干上がった川底を十数メートルほど進んだ。そこは、小さな崖のようになっており、苔むした岩がいくつも積み重なっている場所だった。コダマはその崖の根元、枯れた羊歯の葉に隠れた岩の隙間を指し示している。


僕は半信半疑でその葉をかき分けた。すると、そこにあったのは、岩の裂け目。そして、その奥から、ほとんど音を立てずに、清らかな水がこんこんと湧き出していた。


「……すごいな、君は」

僕は驚きに目を見開いて、コダマを見る。風の声が届かない場所で、君は、岩の下を流れる水の声を、聞いていたのか。


僕は両手で水をすくって喉を潤した。冷たい水が、渇いた体の隅々にまでにしみ込んでいく気がした。その傍らで、コダマは誇らしげに胸を張っていた。僕はその小さな頭を、人差し指でそっと撫でた。


その夜、僕たちはその湧き水のそばで野宿をした。パチパチと音を立てて燃える焚き火の炎を見つめながら、僕はアルメでの日々を思い返していた。カワウソのように愛嬌があるのに頼もしいリラのたたずまい。少しけたたましいけれど明るいミーナの声。共に囲んだ、温かい食卓。

昔の僕にとって、孤独とは当たり前の空気のようなものだった。一人でいることに、何の感情もなかった。でも、今は違う。


賑やかさを知ってしまった後の静寂は、ただの静けさではなく、「不在」という名の音がする。その発見は、胸をちくりと刺すような切なさを伴っていた。けれど、決して深く刺さることはなかった。


僕はそっと、自分の隣で火にあたっているコダマを手のひらですくい上げる。石でできた体は、焚き火の熱を吸って、じんわりと温かい。

「……君がいる。だから、大丈夫だ」

以前の一人旅とは全然違う。

確かな温もりを胸に、僕は静かな夜を過ごした。

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