第1話 Frozen time melts away

 きっと幻でも見ているんだろう。

 深く息を吸って、吐いて。ゆっくりと目を閉じ、再び開く。

 しかし、そこには顔を覗き込む男がいた。


「おーい。起きた?」


 どこか懐かしい匂いを漂わせ、爽やかな声と暖かい笑顔で呼びかけてくる。十五歳くらいだろうか。清涼感に溢れた、いかにも「好青年」といった佇まいだ。


「えっと、どなたでしょうか?」


 私の問いかけに、彼の動きが止まった。


「……俺の名前は照橋てるはし久遠くおん! 久遠でいいよ! 君の名前は?」


 一瞬、彼の表情が曇ったように見えた。いや、確かに曇った。どうしようもないくらいに哀しい顔。まるで大切な何かを失くしてしまった人のような。

 思い当たる節はないけど、たぶん私は酷いことを言ってしまったんだろう。平静を装うとする彼の姿を見ると、私の胸も締め付けられるように苦しい。


「ごめん。名前聞いちゃいけなかった?」

「あっ、忘れてた」


 どうしよう。自分の名前なんて覚えてない。

 いつから独りだったんだろう。名前を呼ぶ人も、呼ばれる理由もなかった。だから忘れてしまったんだ。

 今決めなきゃ。考えろ、考えろ。


 そうだ!私の好きなものにしよう。

 私はお花が好き。とても綺麗で、とてもかわいい。そして、ずっとそばにいてくれるから。いつも私を慰めてくれる。


「私の名前は、ハナ」


 口に出してみると、しっくりくる気がした。


「理由は花が好きだから。これからよろしくね!」

「こちらこそよろしく!」


 久遠が小さく微笑む。さっきまでの哀しげな表情はもうない。

 でも何だろう、この違和感は。まるで大切な何かを忘れてしまっているような。思い出せそうで思い出せない、もどかしい感覚。


 そっと自分の胸に手を当てる。心臓が、いつもより少しだけ速く打っている。もうずっと人と会っていなかったから、緊張してるのかな?


 久遠はゆっくりと立ち上がり、手を差し伸べてくれた。


「行こうか」

「どこへ?」

「この世界を、一緒に歩こうよ」


 私は久遠の手を取った。

 差し出された手は温かかった。人の温もりなんて、どれくらいぶりだろう。いや、今まで感じたことがあったのかさえわからない。

 でも不思議と、この手を取ることに躊躇いはなかった。

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