第2話「侵入者」

 目が覚めると、私は天井を見つめていた。

 白い。無機質な照明。消毒液の匂い。

 ここは――医務室?

 身体を起こそうとすると、頭に鈍い痛みが走る。

「あ、目が覚めましたか」

 振り向くと、白衣を着た中年の女性医師が立っていた。優しそうな笑顔。でも、その目は笑っていない。

「ここは…」

「オムニ・コープの医務室です。セナさん、昨日地下で事故に遭われましたよね」

 事故。

 そうだ。水槽が割れて、あの液体が――。

「大丈夫ですか? 軽い接触事故でしたが、念のため一晩経過観察させていただきました」

 医師は端末を操作しながら、淡々と続ける。

「検査の結果、異常は見られません。ただ、万が一体調に変化があれば、すぐに報告してください」

「あの…私、何か変なものに…?」

 医師の手が、一瞬止まった。

「いえ、何も。ただの冷却液です。人体には無害ですから、ご安心を」

 嘘だ。

 なぜそう思ったのか分からない。でも、確信があった。この人は、何かを隠している。

「今日はお休みを取って、ゆっくり休んでください。明日から通常勤務で大丈夫ですから」

 医師は、私の返事も待たずに部屋を出ていった。

 一人残された医務室。

 私は頭を抱える。

 ズキズキと痛む。でも、それだけじゃない。

 何かが、違う。

 頭の中に、何かがいる――?

  ◇

 帰宅を許され、私はアパートへ戻った。

 部屋のドアを開ける。いつもと同じ、生温い空気。

 でも、今日は何もかもが違って見える。

 色が、鮮やか過ぎる。音が、大き過ぎる。

 私はソファに倒れ込んだ。

 静かにしていれば、きっと治る。ただの疲れだ。そう自分に言い聞かせる。

 でも――。

「……こわい……」

 声が、聞こえた。

 私は飛び上がる。部屋を見回すが、誰もいない。

「誰!?」

 返事はない。

 ただ、また聞こえる。

「……セナ……」

 頭の中から。

 子供のような、か弱い声。

「……ここ、どこ……?」

 私は頭を抱える。幻聴? 精神がおかしくなった?

「……セナ、きこえる……?」

「誰なの!? どこにいるの!?」

 私は叫ぶ。でも、声は頭の中から消えない。

「……わたし、セナの、なか……」

 中――?

 私の、中?

 昨日の記憶が蘇る。水槽の中の、あの奇妙な生物。溢れた液体。皮膚に染み込んでいく感触。

 まさか。

 まさか、あれが――。

「……セナ、こわい……ここ、くらい……」

 声は、怯えている。

 私も、怯えている。

 でも、不思議なことに――その声を聞いていると、少しだけ、孤独じゃない気がした。

  ◇

 翌朝。

 一睡もできないまま、私は出社した。

 頭の中の声は、時々小さく呟くだけで、ほとんど静かだった。眠っているのかもしれない。

 オフィスに着くと、同僚たちがいつものように働いている。

 私は自分の席に座り、パソコンを起動させる。

 普通に振る舞え。何事もなかったかのように。

「セナ、大丈夫だった? 地下で事故に遭ったって聞いたけど」

 隣の席の同僚、ミナが心配そうに声をかけてきた。

「うん、大丈夫。ちょっと冷却液がかかっただけで」

 私は笑顔を作る。

 ミナも笑顔を返す――その瞬間。

 聞こえた。

『(ほんとに大丈夫かな…顔色悪いけど。まあ、私には関係ないか)』

 私は息を呑む。

 今の声――ミナの声?

 でも、ミナの口は動いていない。

「セナ? どうしたの、急に固まって」

「え、あ、ううん、何でもない」

 ミナは首を傾げて、自分の仕事に戻った。

 私は混乱する。

 今の声は、何?

 幻聴――?

 いや、違う。

 あれは、ミナの「本心」だった。

  ◇

 その日、世界は一変した。

 オフィスで働く同僚たちの声が、二重に聞こえるようになった。

 口から出る言葉と、頭の中に響く「本心」。

 上司が近づいてくる。

「セナ、調子はどう?」(口)

『(事故のこと、喋ってないだろうな…バレたら俺も責任問われる)』(本心)

 私は強張った笑顔で答える。

「大丈夫です」

 上司は満足そうに頷いて去っていく。

『(まあ、あいつは何も気づいてないだろう。使えない奴は都合がいい)』

 言葉と本心の乖離。

 それは、エレベーターでも、廊下でも、給湯室でも続いた。

「おはよう!」『(めんどくさ)』

「お疲れ様」『(早く帰りたい)』

「手伝おうか?」『(本当は手伝いたくない)』

 人々の本心が、雑音(ノイズ)のように頭の中に流れ込んでくる。

 優しい言葉の裏にある冷たさ。

 笑顔の裏にある悪意。

 すべてが、剥き出しになって私を襲う。

 息ができない。

 頭が、割れそうに痛い。

「……セナ……だいじょうぶ……?」

 あの声が、心配そうに呟く。

 私はトイレに駆け込み、個室に閉じこもった。

 耳を塞ぐ。でも、「音」は頭の中にある。止められない。

「やめて…お願い…やめて…」

 私は床にうずくまる。

「……セナ、こわい……?」

 頭の中の声が、か細く尋ねる。

「怖いよ…何が起きてるの…」

「……わたしも、わからない……でも、セナの、ちから、かりて、きこえる……」

「力? 私の?」

「……うん……わたし、セナの、なかで、つかう……セナの、のう……」

 私の、脳――?

 つまり、この生物が私の脳を使って、他人の本心を「読んで」いる?

「……ごめんなさい……でも、とめられない……」

 声は、申し訳なさそうだった。

 私は深呼吸をする。

 パニックになっても仕方ない。

 落ち着け。落ち着いて、考えるんだ。

  ◇

 午後。

 何とか仕事を続けていると、上司が私のデスクに現れた。

「セナ、ちょっといいかな」

「はい」

 上司は、周囲を見回してから小声で言う。

「会議室に来てくれ」

 嫌な予感がした。

 会議室に入ると、そこには見知らぬスーツ姿の男性が二人いた。

 黒いスーツ。鋭い目つき。

 一人が口を開く。

「セナ・ロックフィールドさん、ですね」

「はい」

「オムニ・コープ保安局の者です」

 保安局――?

 男性は、端末を操作しながら続ける。

「一昨日の夜、あなたは第七ラボで事故に遭われましたね」

「はい…」

「その際、何か…異常なことはありませんでしたか?」

「異常…ですか?」

 男性の目が、私を捉える。

『(こいつ、何か隠してる。でも証拠がない。どう引き出すか…)』

 私は心臓が跳ねるのを感じた。

 この人は、私が「何か」を得たことを疑っている。

「いえ、特には…ただ、冷却液がかかっただけで」

 私は平静を装う。

「そうですか」

 男性は、しばらく私を見つめた後、もう一人の男性と視線を交わす。

『(様子を見るしかないな。まだ能力が発現してないかもしれない)』

『(ああ。とりあえず監視を続けよう)』

 二人の本心が、会話のように流れ込む。

 男性は名刺を私に渡した。

「もし、何か気になることがあれば、すぐに連絡してください。これは…あなた自身のためです」

 名刺には、『保安局 特別監視課』と書かれていた。

 二人が立ち去った後、私は椅子に座り込む。

 監視――?

 私は、監視されている?

 頭の中の声が、震えて呟く。

「……あのひとたち、こわい……セナ、にげて……」

  ◇

 その日の帰り道。

 私は、いつもとは違うルートでアパートに向かった。

 監視されているなら、尾行されているかもしれない。

 何度も振り返る。でも、それらしい人影は見当たらない。

 アパートに着き、ドアを開ける――その瞬間、私は凍りついた。

 部屋が、荒らされていた。

 引き出しは開けられ、書類が散乱している。クローゼットの中身も引っ掻き回されている。

「何…これ…」

 誰かが侵入した。

 何かを、探していた。

 頭の中の声が、激しく呟く。

「——セナ、あぶない! にげて!」

「え?」

 その瞬間、背後に気配を感じた。

 振り向くと――ドアの影に、人影が立っていた。

 黒いスーツ。保安局の――。

 私は叫ぼうとするが、男の手が私の口を塞ぐ。

「静かにしろ。抵抗するな」

 もう一人の男が部屋に入ってくる。

「サンプルAの痕跡は?」

「まだ見つかってない。でも、こいつの脳波は異常だ。間違いなく寄生されている」

 二人の会話が、冷たく響く。

『(サンプルを回収できなければ、宿主ごと処分するしかない)』

 処分――?

 私を、殺すつもり?

 恐怖が、全身を駆け巡る。

 その時。

 頭の中の声が、叫んだ。

「——セナ、まもる!」

 瞬間、私の視界が歪んだ。

 男たちの「本心」が、津波のように押し寄せる。

 恐怖、焦燥、殺意――すべてが増幅され、私の脳を焼く。

 そして、その「ノイズ」が逆流した。

 男たちが、突然頭を抱えて倒れる。

「ぐあっ!」

「何だ、これは…!」

 二人は苦しみながら、部屋から這い出ていった。

 私は床に崩れ落ちる。

 頭が痛い。身体が震える。

 でも、助かった。

「……セナ……ごめんなさい……わたしが、いるから……」

 頭の中の声が、泣いているように聞こえた。

「あなたは…何なの…?」

 私は震える声で尋ねる。

「……わたし、バルナス……ずっと、くらいところに、いた……セナに、あえて、うれしかった……でも……」

「でも?」

「……わたし、セナ、くるしめてる……ごめんなさい……」

 声は、本当に申し訳なさそうだった。

 私は深呼吸をする。

 もう、元の生活には戻れない。

 会社も、アパートも、すべてが危険になった。

 私は、逃げなければならない。

 でも、どこへ?

 その時、一つの顔が頭に浮かんだ。

 あの冷たい目をした、准教授。

 レオン・オーブリー。

 オムニ・コープを公然と嫌悪していた、あの人なら――。

 私は立ち上がり、最低限の荷物をバッグに詰め込んだ。

 部屋を出る前に、一度だけ振り返る。

 この部屋で過ごした、平凡で退屈な日々。

 もう、二度と戻らない日常。

「さよなら」

 私は、ドアを閉めた。

 そして、夜の街へ消えていった。


(第2話 了)

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