アンモナイトと、私の頭の中 【サスペンス×ラブロマンス】 ※毎週土曜20時、10話ずつ更新

asher's lab:アッシャーズラボ

第1話「螺旋の街」

 螺旋状に天を衝く都市国家、トリル=トラス。

 光と富が降り注ぐ「上層(アッパー)」。永遠の影と貧困が澱む「下層(ロウアー)」。そして私、セナ・ロックフィールドは、そのどちらでもない「中層(ミドル)」で生きている。

 中層のアパートは、上層から排出されるリサイクル熱で一年中生温く、下層から響き続ける重低音のノイズで、床が日に数回、微かに揺れる。アラームで目覚め、味気ないニュートリション・バーを齧り、清潔だがくたびれた制服に着替える。圧搾されたチューブ(通勤モノレール)に乗り込み、街の中核を貫く超巨大企業「オムニ・コープ」のタワーへと向かう。

 所属は、総務部。26歳。彼氏なし。貯金も、上層区のカフェで週に一度お茶すらできない程度には、なし。夢も、特にない。

 私の仕事は、繰り返すことだ。

「セナ、この資料、午後までにPDF化してサーバへ」 「はい」

 デジタル化されたデータを、さらに別のフォーマットへ変換する。そのデータが何なのか、意味は考えない。

「セナ、コーヒー淹れといて。来客用」 「はい」

 給湯室のオートマシンのボタンを押す。立ち上る合成香料の香り。

 私は、この巨大な企業の歯車ですらない。歯車と歯車の間に差される、潤滑油の一滴。それも、いつ交換されたって誰も気づかないような、その他大勢の一滴。

 思考はそこで止まる。考えるだけ、エネルギーの無駄だ。

 ただ、息をして、手を動かし、決められた時間になったら帰る。

 ただ、生きているだけ。

  ◇

 定時を告げるチャイムが、無機質なオフィスに響く。

 思考を停止させたまま、ロッカーで私服に着替え、エントランスホールを横切る――その時だった。

 いつもと違う風景が、視界の端に映り込む。

 エントランスの一角。地下へと続く重厚なエレベーターホールが、いつになく騒がしかった。

『関係者以外立ち入り禁止:地下研究セクター』

 冷たいプレートの文字。その前に立つのは、私たちが着ている総務部の制服とは違う、黒いコンバットスーツに身を包んだ警備員たち。普段は二人のはずが、今日は五人。全員が何かを警戒するように、エレベーターを見張っている。

 そして――聞こえた。

 空調音とは違う、かすかな「音」。

 低く、長く続く、何かのうめき声のような――?

 私は足を止める。

 警備員の一人が、こちらを睨んだ。黒いバイザー越しの視線が、私を別の生き物でも見るように値踏みする。

 背筋に冷たいものが走る。

 私は早足でホールを抜けた。

 関わってはいけない。この会社で長く生きるコツは、知らなくていいことを知らないままでいることだ。

  ◇

 再びチューブに揺られ、生温いアパートに戻る。

 部屋の電気もつけず、私は窓に近づいた。

 窓の外。遥か上層の空に、巨大なホログラム広告が浮かんでいる。

 新型の飛行ビークル。楽園のようなリゾート衛星。笑い合う、美しい上層区の恋人たち。

 彼らは、きっと「ただ生きているだけ」なんて考えたこともないんだろう。毎日が輝いていて、選択肢があって、未来があって。

 私とは、違う世界の住人だ。

「……私とは、関係ない世界」

 ブラインドを下ろす。光が遮断され、部屋はいつもの静けさを取り戻した。

 夕食――またニュートリション・バーだ――を済ませ、シャワーを浴びる。

 髪を乾かしながら、私は鏡の中の自分を見た。

 地味な顔。特に可愛くも、醜くもない。特徴のない、量産型の顔。この街の中層には、私みたいな人間が何万人もいる。

 26年間、私は何をしてきたんだろう。

 大学は卒業した。でも、夢を追うほどの情熱もなく、かといって上層に上り詰めるほどの才能もなく、気づいたらここにいた。

 毎日同じことの繰り返し。

 明日も明後日も、きっと同じ。

 このまま年を取って、誰にも覚えられないまま消えていくんだろうか。

 思考の底に、小さな諦めが沈殿する。

 ドライヤーを置き、ベッドに横たわった。

 無音の部屋。

 ……いや、無音じゃない。

 私は息を止める。アパートの壁に、そっと耳を当てた。

 遠く、この建物の構造体を伝って、あの音が響いてくる。

 地下から響く、かすかな機械音。

 いいや、これは機械の音じゃない。

 生き物の、うめき声のような――。

 私は壁から耳を離し、布団を頭まで被った。

 知らなくていいことを、知らないままでいる。

 それが、私の生き方だった。

  ◇

 翌朝。

 いつもと同じようにアラームが鳴り、いつもと同じように出社する。

 オフィスに着くと、同僚たちがざわついていた。

「ねえ、聞いた? 昨夜、地下セクターで事故があったらしいよ」 「事故? どんな?」 「詳しくは分からないけど、何か…漏れたとか」 「漏れたって、何が?」 「さあ…でも、警備が厳重になってるって」

 私の心臓が、小さく跳ねた。

 昨夜の音。あれは、事故の――?

「セナ、ぼーっとしてないで。今日は地下に届け物があるから」

 振り向くと、上司が書類の束を持って立っていた。

「え…地下、ですか?」

「そう。地下研究セクターの第七ラボ。この書類、直接手渡しで頼むわ」

 上司は、私の返事も待たずに書類を押し付けて立ち去った。

 私は、手の中の書類を見下ろす。

 表紙に、赤い文字でこう書かれていた。

『極秘:プシオー・メデューサ型生体サンプルA 管理報告書』

 プシオー・メデューサ? 生体サンプル?

 意味が分からない。でも、確かなことが一つだけある。

 これは、知らない方がいいものだ。

 私は書類を胸に抱き、震える足でエレベーターホールへ向かった。

 重厚な扉の前。今日も警備員が二人、じっとこちらを見ている。

「総務部のセナ・ロックフィールドです。第七ラボへ届け物を」

 警備員の一人が、端末で私の身分を確認する。

「……通れ。ただし、指定エリア以外への立ち入りは禁止だ」

 エレベーターのドアが開く。

 中に入ると、ドアが閉まり、ゆっくりと下降が始まる。

 -1階、-2階、-3階…

 数字が増えていく。

 -7階。

 停止音。

 ドアが開くと、そこは病院のような白い廊下だった。でも、何かがおかしい。

 空気が、冷たい。

 壁の向こうから、かすかに「音」が聞こえる。

 昨夜、アパートで聞いた、あの音――。

 私は廊下を進む。指定された第七ラボの前で立ち止まり、ドアをノックした。

「どうぞ」

 中に入ると、そこには白衣を着た研究員が一人、巨大なモニターを見つめていた。

「あ、書類ね。そこに置いといて」

 研究員は、こちらを一瞥もせずに言った。

 私は書類を机に置き、立ち去ろうとする――その時。

 視界の端に、それが映り込んだ。

 部屋の奥。巨大な水槽が並んでいる。

 中には、奇妙な半透明の生物が浮遊していた。

 クラゲのような、でも明らかに古代の何か――。

 長い触手。うねるように動く身体。そして、中心に見える、眼のようなもの。

 それが、私を見た。

 気がした。

 背筋に、氷のような冷たさが走る。

「あの、これは…」

 私が尋ねようとした、その瞬間。

 突然の警報音。

『非常事態発生。セクションD-7、生体サンプルA格納槽破損』

 研究員の顔が青ざめる。

「まずい、封じ込めを!」

 水槽の一つが、ひび割れていた。

 液体が床に溢れ出す。

 私は逃げようとするが、足を滑らせて転倒した。

 床に手をつく。

 冷たい。濡れている。

 顔を上げると――水槽から溢れた液体が、私の手に、腕に、這い上がってくる。

「きゃあっ!」

 私は必死に振り払おうとするが、液体は皮膚に染み込んでいく。

 熱い。

 頭が、割れるように痛い。

 視界が歪む。

 そして――。

 聞こえた。

 小さな、か弱い、声。

「……こわい……」

 誰?

「……セナ……?」

 なぜ、私の名前を――。

 意識が、暗闇に沈んでいく。

 最後に見えたのは、水槽の中で蠢く、あの生物の姿だった。


(第1話 了)

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