第6章 鐘の夢、街の息吹
朝が来る。
だが、鐘は鳴らない。
それでも街は、どこかざわめいていた。
夜の湿気が残る石畳に光が染み込み、
市場へと続く細い道の両側で、
扉がひとつずつ軋む音を立てて開いていく。
パン屋の釜が赤く灯り、
焼きたての香りが通りを満たす。
それはまるで、街全体が息を吸い込むような瞬間だった。
わたし――ピッコロは、
鐘楼の影が街を横切るのを高みから見ていた。
空はまだ薄い灰色で、
遠くの丘の上には朝霧が漂っている。
風はほとんどない。
それでも、何かが動いていた。
沈黙の鐘が“夢を見ている”――
そんな気配が、街の屋根を伝って広がっていく。
◆
クララとルーチョは丘を下り、再びシエナの街へ戻っていた。
修道院で見つけた鐘の心臓――クラッパーは、
もう一度布に包まれてクララの腕の中にある。
ルーチョは何度もその布を見やった。
彼の表情は、
期待と恐れの間を行き来していた。
「街に戻って、確かめよう。」
ルーチョは手のひらで小さく合図を作り、
その動きで思いを伝えた。
クララは頷き、
指先で“音はまだ生きてる”と手話を作った。
その仕草を見て、ルーチョは小さく息を吐いた。
市場の広場に出ると、
人々がもう集まり始めていた。
野菜の匂い、オリーブ油の光沢、
どこからか響く子どもの笑い声。
けれど、そのすべてがどこか不思議に静かだった。
音が吸い込まれている。
まるで、鐘が“呼吸の中心”になっているかのように。
クララは立ち止まり、
市場の中央に立つ古い井戸を見つめた。
その縁に、うっすらと刻まれた文字。
《Silenza restituita》
――「沈黙は返された」。
彼女の手がその文字をなぞった。
冷たい石の感触が指先を走る。
その瞬間、彼女の肩がかすかに震えた。
ルーチョは足を止め、
そっとクララの肩に手を置いた。
言葉のない問いが、その沈黙の中にあった。
彼女は頷き、布をほどいた。
朝の光が、金属片の上でゆっくりと揺れた。
その光が、
市場の石畳に散らばった水滴に反射して踊る。
一滴一滴が小さな鐘のように震え、
街の空気がふっと変わった。
風が吹く。
オリーブの葉が揺れ、
露店の布がひらめいた。
その瞬間――
鐘は鳴らないのに、音があった。
金属が触れ合うような、
遠い記憶が呼吸するような音。
クララの瞳に涙が浮かぶ。
彼女は両手でその光を抱くようにして立っていた。
ルーチョが呟いた。
「街が……鳴っている。」
ピッコロの羽が風を掴み、
わたしは高く舞い上がった。
上空から見たシエナは、
まるでひとつの巨大な鐘のように見えた。
屋根と屋根の間に流れる風、
煙の揺らめき、
すべてが同じ呼吸で動いている。
鐘の音はない。
けれど、街そのものが響いている。
そのとき、
ルーチョが市場の隅で何かを見つけた。
古い木箱、壊れかけの脚。
その下に、もうひとつの金属片があった。
同じ刻印――“S.M.”
「……サン・マルコの印。」
彼の声は震えていた。
「なぜここに?」
クララは彼の腕に触れ、首を振る。
“鐘の夢は、まだ続いてる”
そう手話で告げた。
彼女の掌に光が宿る。
その光がわたしの羽を照らし、
空へ散っていく。
街全体が静かに息をついた。
長い沈黙のあと、
ほんの一瞬だけ、鐘の影が風の中で揺れた。
――鐘は、確かに夢を見ている。
そして、その夢の中で街が生まれ変わろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます