第2話 祓屋
都心の片隅、廃ビルを改装した三階建ての一室に、
真名井梓の事務所〈祓屋(はらいや)〉はあった。
看板もなく、入口には古い防犯カメラがぶら下がっている。
表向きはデータ復旧とセキュリティ監査を請け負う会社。
だが実際の依頼のほとんどは、「見えないもの」に関わる。
壁際にはサーバーラック。
その前に古びた神棚。
榊の枝の代わりに、金属の基盤が供えられている。
香炉から上がる煙は、線香ではなく冷却ファンの熱。
祓屋の儀式は、電圧と祈詞(のりと)の交差点にあった。
梓はコーヒーを淹れ、タブレットを開いた。
昨夜の現場ログ。
残響波形の解析結果がモニターに広がる。
通常なら数日で消滅するはずの思念波が、
今回は“再帰ループ”していた。
「……これは長いわね」
彼女は小さく呟いた。
データの中に、少年の断片的な記憶が混ざっている。
それは血とガラスと、夕暮れの風景。
何度再生しても、同じ瞬間で途切れた。
祓屋の作業は、祈りではない。
彼女のやっていることは、記録の調律だった。
死者の残響が歪みを起こす前に、
そのデータを世界のOSに“正しい形”で再統合する。
祈りとは、削除ではなく再配置。
世界が壊れないようにするための、
見えない保守作業。
しかし、最近になって残響の質が変わってきていた。
昔は“死者の未練”が中心だったが、
いま現れるのは、生きている者の思念。
怒りや虚無や飢えが、
電波のように増幅して街全体に散っている。
「富んだ世界ほど、魂は軽くなる……か」
呟きながら、彼女は昔の上司の言葉を思い出した。
——青木理。
彼はかつて、同じ情報庁にいた天才エンジニアだった。
七年前、ある実験中に失踪した。
公式記録では“業務中の事故死”だが、
梓は真実を知っている。
彼は、あの“祀プロトコル”に触れて消えたのだ。
以来、梓は祓屋を立ち上げ、
青木が遺した世界の歪みを探り続けている。
コーヒーを口に運び、顔をしかめた。
冷めきっている。
眠気よりも、年齢のほうが先に体を重くする。
「……アラサーは夜勤が堪えるわね」
自嘲気味に笑い、髪をまとめ直す。
机の隅には、未払いの請求書と、
百円ショップの美容液の空きボトルが並んでいた。
そんな彼女の端末に、通知が一件入った。
送り主は県警・高峰修一。
件名:《立花怜》
添付された映像には、
教室の窓際で立ち尽くす男子高校生の姿。
動かない。
だが瞳孔の焦点が合っていない。
その背後のガラスに、微かなノイズが走る。
「……もう始まってるのね」
彼女は椅子を押しのけ、棚から黒い装置を取り出した。
手のひら大の端末。
神社の御札に似た形状の電子札。
そこには複雑な回路と、手書きの祝詞が刻まれている。
名称は“祓札(はらえふだ)”。
思念の干渉を検知し、祈詞によって再構成を行う祓屋専用のデバイスだ。
バッグに祓札を詰め込み、
データ端末を肩にかける。
鏡の前でコートを羽織ると、
疲れの色が少しだけ隠れた。
二十九歳という数字が、また頭をよぎる。
結婚も出産も遠い世界の話。
「あと一年。三十になったら、全部やめる」
独り言のように呟き、鍵を閉めた。
外に出ると、空気は灰色の朝を纏っていた。
街の至るところに、電波塔の影が落ちている。
それらが細い糸のように交差し、
まるで巨大な蜘蛛の巣のように都市を覆っている。
その中を、人々の思念がノイズとして流れていく。
誰も気づかない。
だが梓には見える。
街そのものが、祈りの残響で脈打っている。
「祈りが軽くなった分、呪いは重くなる」
そう呟くと、胸の奥がかすかに疼いた。
どこか遠くで、再びあの声が聞こえた気がした。
——「また、やり直そう。」
彼女は立ち止まり、
空を見上げる。
雲の切れ間から覗く朝日が、
まるで何かの瞳のように冷たく光っていた。
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