祈りの残響(Echoes of Prayer)

みえない糸

第1話 冷たい街

午前四時、霞ヶ丘の交差点に霧が立っていた。

舗装の継ぎ目から湿気が上がり、ネオンの明滅が薄い膜の向こうで滲んでいる。

警察車両の赤色灯が静かに回り、路面の水を鈍く照らした。

死体が発見されたのは、廃ビルの裏手。

十八歳の男子高校生。胸に刃物を三度。切り口の角度まで、二十年前の“あの事件”と同じだった。


刑事の一人がタバコに火を点け、息を白く吐いた。

「伊佐川の再現だな」

「死刑になって十七年。いまさら本人の仕業じゃねえだろ」

「それが、監視カメラに映ってるんだよ。あの顔が」

もう一人が苦笑し、煙を吐き出した。

「幽霊ってやつか」


モニターの奥、ノイズの揺れるフレームの中で、確かに“人の形”が一瞬浮かんでいた。

血のように滲む輪郭。口元だけが微かに動く。

「……また、やり直そう」


高峰修一警部補はモニターを閉じ、額を押さえた。

彼は県警サイバー対策室の現場主任だ。

霧と光と疲労の中で、ただ現実だけが輪郭を失っていく。


「祓屋(はらいや)に連絡を」

隣の若い刑事が顔を上げた。

「またですか? あんな連中、半分オカルトですよ」

「それでも、前回の“無人教会事件”を片づけたのは彼女だ。論理で説明できないなら、別の言語で処理するしかない」

修一の声は低かった。


一時間後、霧の切れ間に一台の黒いワゴンが止まった。

ドアが静かに開き、女が降りた。

長い黒髪を後ろで結び、コートの襟を立てている。

夜明け前の光が、その頬をかすかに照らした。


真名井梓、二十九歳。

自称「情報祓屋(じょうほうはらいや)」。

旧情報庁のセキュリティ課出身、いまは独立して残響現象専門の調査を請け負っている。


修一は彼女に一瞥をくれた。

「またお前か。こんな時間によう来たな」

「報酬が出るなら、何時でも動きます」

淡々とした声。

その冷ややかさの奥に、微かな疲労が滲んでいる。

「三十になる前に、無理して体壊すなよ」

「その言葉、去年から三回聞きました」

そう言って小さく笑ったが、その目には笑みがなかった。


梓は現場へと歩み、死体の横にしゃがんだ。

警察の記録係が思わず息を呑む。

彼女の動作は儀式のように静かで、指先が触れた空気だけがわずかに震えた。


「残響値、七十パーセント。……強いわね」

「残響?」修一が眉をひそめる。

「思念の残りかす。……この子の死は、誰かの祈りで上書きされてる」

「祈りだと?」

「ええ、ただし神へのじゃない。自分自身への“祈り直し”。」


彼女は立ち上がり、手袋を外して手の甲を撫でた。

薄い電子インクのような模様が浮かび、波紋のように広がる。

「このパターン、記憶しておく」

「まさか、死者の思念を——」

「拾うだけです。削除は、まだ早い」


冷たい空気の中で、梓は短く息を吐いた。

二十九歳という数字がふと頭をよぎる。

十代の頃には、三十なんて世界の終わりのように遠かった。

けれど今は、何かが静かに擦り切れる音が聞こえる年齢になった。


修一が黙って煙草を取り出し、一本差し出した。

「吸うか?」

「やめてます。……二年前から」

「体、壊したのか」

「いいえ。夢の中で、煙の向こうに“誰か”が立っていたので」

「また、そういう話か」

「ええ。でも、嘘じゃないのよ」


霧が薄れ、遠くで鳥の声がした。

梓は顔を上げ、街を見た。

霞ヶ丘の夜明けはいつも灰色だ。

そこに漂う無数の思念が、電波のように絡まり、ひとつの巨大な影を形づくっている。


「……祈りの残響が、また始まったわね」


彼女はその呟きを自分でも聞こえないほど小さく発した。

霧がゆっくりと晴れていく。

夜の終わりと、世界の亀裂の始まりが、同じ速度で動いていた。

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