第10話 静かな部屋で起きたこと

夜の空気は、ひどく軽かった。

 葬儀から帰ってきた部屋は、いつも以上に静まり返り、冷蔵庫の低い唸り声だけが一定のリズムで空間を満たしていた。


 玄関を閉めた瞬間、湿った外気が剝がれ落ちるように消え、部屋独特の乾いた静けさが戻った。

 沙織がいた頃は、帰宅するとピアノの余韻が空気に残っていた気がする。

 今、この部屋にはその痕跡すらない。


 ジャケットを椅子にかけ、シャワーを浴びる。

 湯が肩を叩き続けているのに、体の奥の冷気は溶けなかった。

 鏡に映る自分の顔はどこか疲れ切って、影が一段濃く落ちていた。


(……宮田が死ぬなんて、誰が想像したよ)


 タオルで髪を拭きながら、葬儀で見た遺影が脳裏に浮かぶ。

 いつもの気の抜けた笑顔。

 昨日まで聞こえていた宮田の声が、今はもう二度と聞けない。


 リビングへ戻り、インスタントコーヒーを淹れる。

 粉に湯を注ぐ音が妙に大きく聞こえた。

 立ち上るはずの香りが、今日は薄く、掴めない。


 マグカップを両手で包み、ソファに腰を下ろす。

 この位置だけは、沙織がいた頃から変えていない。

 彼女はよくここで教材のチェックをしていた。

 その記憶だけが、ふと胸の奥を軋ませた。


 テレビもつけず、ただ闇の中でコーヒーを飲む。

 静寂は部屋を広く見せる代わりに、妙な“気配の隙間”を生む。


(……疲れてる。全部、疲れのせいだ)


 そう言い聞かせるように、コーヒーを飲み干し、マグカップを流しに置いた。

 その瞬間、リビングの机でスマホが小さく震えた。


「……誰だよ、こんな時間に」


 髪を拭きながら画面へ歩み寄る。

 通知欄には、見覚えのないアプリのアイコン。


——録画が完了しました


「録画……?」


 眉がわずかに動いた。

 録画機能など使った記憶はない。

 家にカメラを設置した覚えももちろんない。


 疑念を抱えたまま通知をタップすると、黒い画面がゆっくりと再生された。


 映っているのは——自分の部屋。


 ソファ。

 テーブル。

 玄関の薄い光。

 どれも、今自分が立っている場所とそっくりそのまま。


 そしてその映像の中には——

 “自分”がいた。


(……は?)


 肺が急に収縮し、呼吸が止まった。


 映像の中の“俺”は、玄関の鍵を確かめ、ゆっくりリビングに戻る。

 ソファに腰を下ろし、マグカップを持ち上げる。


 一連の動作は滑らかで、自然。

 ただの“生活の切り取り”のようにも見える。


 だが——

 たった今、自分がした動作とは微妙に違う。


 カップを口へ運ぶ角度。

 ソファへ腰を落とす位置。

 玄関に向かう歩幅。

 ひとつひとつが、“少しだけ正解ではない”。


 それはまるで——

 完璧に自分を真似しようとした誰かの動きだった。


 喉が乾き、唾がうまく飲み込めない。


(……いつ、これ……?)


 目を画面右上のタイムコードへ移す。


——録画時刻 21:42


 帰宅する前の時間。

 自分がまだ葬儀会場にいた時間。


(じゃあ……今ソファに座ってた俺は……誰だ?)


 頭皮がざわりと逆立ち、背筋を氷水が流れた。


 映像は暗転し、部屋は深い沈黙に沈んだ。

 冷蔵庫の唸り声さえ遠い。


 脳裏に、夕方の葬儀場で見た光景が蘇る。


 線香の煙。

 喪服の沙織。

 その隣で、顔だけが黒く沈んで見えなかった男。


(あれは……誰だった)


 誰かが答えを知っているような気がした。

 だが思い出そうとしても、霧のように逃げる。


 スマホをテーブルに置いた瞬間、照明がふっと弱まり、すぐに戻った。

 電球が切れかけているだけ。

 そう思いたいのに、胸のざわつきは収まらない。


 風はない。

 窓も閉まっている。


 なのに——

 部屋の隅で、カーテンの端だけが、誰かが通った後のようにふわりと揺れた。


「……っ」


 一樹は反射的に後ずさった。

 心臓が一拍遅れて大きく脈打つ。


 カーテンは、ただの布のはずだ。

 物理的に揺れる理由はどこにもない。


 しかし次の瞬間、さらに低く沈むような違和感が部屋に満ちた。


 まるで——


この部屋のどこかに、まだ“もうひとりの俺”が残っている。


 そんな確信めいた恐怖が、骨の内側に音もなく入り込んでいく。


 一樹は、呼吸の仕方を忘れたようにその場で立ち尽くした。


 照明の白がゆっくりと天井に広がり、

 床に落ちる自分の影が、

 ほんの一瞬——遅れて動いたように見えた。

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