第9話 喪服の女、その隣の影

葬儀場を出たあとも、宮田の笑った遺影が頭から離れなかった。


 夜の空気は冷たく、喪服の布をじわじわと冷やしていく。

 歩道を歩きながら、一樹はさっき見た“ふたり”の姿を何度も思い返していた。


(……沙織だった。間違いない)


 線香の煙の向こう。

 喪服の女。

 横顔。首筋。指先。

 あれを沙織以外の誰かだと言い張る方が、無理がある。


 ただ——隣にいた男の顔だけは、どうしても思い出せなかった。

 黒い影が、そこだけ塗りつぶしたように張りついている。


(誰だよ……あいつ)


 葬儀場から家までの道のりは、普段よりずっと長く感じた。


   *


 マンションに着き、エントランスの自動ドアを抜ける。

 エレベーターで自分の階まで上がり、廊下を歩いた。


 玄関の前で立ち止まる。


 ポケットから鍵を出し、ドアノブに手をかけた——その瞬間、小さな違和感が走った。


(……あれ?)


 鍵穴に差し込んだはずの鍵が、空回りした。

 抵抗が、ない。


 ゆっくりノブを回すと、そのまま扉が開いた。


(……嘘だろ。ちゃんと、閉めたよな)


 出がけに、鍵を回した感触は覚えている。

 仕事に行くときも、葬儀に出るときも、必ず確認する癖がついていた。


 なのに、帰ってきた今は、鍵穴の中に“閉じていた痕跡”がまったく残っていないかのようだ。


 誰かが入った様子はない。

 ドアの縁も、鍵周りも、傷ひとつ増えていない。


「……疲れてるだけだ」


 自分にそう言い聞かせ、靴を脱いで中に入った。


   *


 リビングの照明をつける。

 白い光がじわっと部屋に広がる。


 その光の中で、テーブルの上が目に入った。


 テーブルの真ん中に、淡い水色のマグカップがひとつ置かれていた。


 “Saori”と油性ペンで書かれた、あのマグカップ。


(……あれ? これ……)


 朝、コーヒーを飲んだあと、確かに食器棚の端に戻したはずだった。

 そのときの感触も、手の動きも、はっきり覚えている。


 今、カップは棚ではなく、

 “誰かが使おうとして、そのまま置き忘れた”みたいにテーブルの中央にある。


 中は空だ。

 水滴も、コーヒーの跡もない。


 それでも、その場所だけが妙に生々しく感じられた。


「……」


 触れるのが少し怖くて、しばらく眺める。

 やがて、ため息をつきながら手に取った。


「……俺だ。朝、戻すの忘れただけだ」


 声に出すことで、無理やり現実に引き戻そうとする。

 カップを棚の奥へ押し込み、扉を閉めた。


 それでも、背中のどこかでさっきの光景が残像のようにくっついていた。


   *


 喪服の上着を脱ぎ、椅子の背にかける。

 ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外した。


 窓の外は、すっかり夜だ。

 街灯の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。


 一樹はベランダの掃き出し窓を少しだけ開け、タバコとライターを手にした。

 冷たい空気が部屋に入り込む。


 火をつけて、肺の奥まで煙を吸い込む。


 目を閉じると、葬儀場の光景がすぐに浮かんだ。


 香の匂い。

 宮田の遺影。

 喪服の列。

 その向こうに立っていた——沙織。


(……あれは、沙織だ)


 確信だけが、胸の奥で重く残っている。


 ただ、その隣にいた男だけは、思い出そうとするたびに輪郭が滲んだ。

 顔は完全に影に沈んでいて、表情も瞳も何も見えない。


 それでも、背丈や肩の感じ、立ち方の癖がどこかで引っかかる。


(……誰かに似てた。誰だっけ……)


 考え始めた瞬間、

 頭の片隅で「自分」という言葉がちらりと浮かんだ。


「……いや、ないだろ」


 半ば強引に煙を吐き出す。


 自分と同じような肩幅。

 自分と似た立ち方。

 そんなの、どこにでもいる。


(あれは、ただの喪服姿の男だ。

 沙織も……疲れで見間違えただけだ)


 そう結論を押しつけるように思い込み、タバコの火をもみ消した。


   *


 リビングに戻る途中、廊下の空気がふっと揺れた気がした。


 風はない。

 窓も、さっき閉めたばかりだ。


 何かが通り過ぎた音もない。

 ただ、ほんの一瞬だけ、

 “誰かがここに立っていた”ような重さだけが残った。


 一樹は立ち止まり、廊下の奥を見つめた。


 脱衣所の扉は閉まっている。

 寝室のドアもいつも通りだ。

 暗がりの中に人影はない。


「……気のせいだ」


 そう口に出すことで、背中に張りつく冷たさを剥がそうとする。


   *


 ソファに腰を下ろし、スマホを手に取る。

 ロック画面には、いくつかの通知が並んでいた。


 その中に、ニュースアプリの見慣れない赤いマークがひとつ光っている。


《【速報】昨夜の交通事故 新たな証言》


 指先が、勝手にその文字を押していた。


 画面に記事の本文が表示される。


『昨夜、市内の交差点で起きた歩行者と乗用車の交通事故について、

 現場付近にいた通行人の新たな証言が得られた。

 目撃者によると、被害者男性のすぐ後ろには事故直前まで

 「よく似た別の人物」が立っていたという。

 その人物は、被害者が倒れた瞬間、

 “影が溶けるように”視界から消えたと証言している』


「……っ」


 指先がわずかに震えた。


 昨夜、宮田が事故に遭った場所。

 自分が轢かれかけたのと同じような状況。


 その背後に、“よく似た別の人物”。


(……俺の、時と……同じ……)


 横断歩道。

 押された背中の感触。

 車のライト。

 そして、歩道の端に立っていた“もうひとつの影”。


 記事の文と、自分の記憶がぴたりと重なっていく。


(……宮田の後ろにも、いたのか?

 あいつが……)


 心臓の鼓動が一拍ごとに大きくなる。


 スマホを伏せてテーブルに置いた。

 その黒い画面に、自分の顔と部屋の天井がぼんやり映る。


 その隣で、

 もうひとつ別の輪郭が“映りかけて、消えた”ように見えた。


   *


 洗面所で顔を洗おうと思い、立ち上がった。


 廊下を歩き、スイッチを入れる。

 蛍光灯の白い光が、少し遅れて天井に灯る。


 蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

 指先の感触が、ようやく現実に触れたような気がした。


 タオルで水気を拭き取り、ふと顔を上げる。


 鏡には、いつもの自分が映っていた。

 やつれた目。

 無精ひげ。

 喪服のシャツの襟元。


 数秒、そのまま見つめる。


「……大丈夫だ。落ち着け」


 自分に言い聞かせるように呟き、タオルを手から離した。


 その瞬間だった。


 タオルを下ろした自分の腕と——

 鏡の中の自分の“影”の腕の動きが、半拍だけ遅れた。


 ぴたりと揃うはずの動きが、

 ほんのわずかに、ずれた。


「……っ」


 背筋に、冷たいものが駆け上がる。


 もう一度、そっと手を上げてみる。

 今度は、鏡の中の自分も同じタイミングで手を上げた。


 さっきの“遅れ”は、跡形もなく消えている。


 だが、一度刻まれた感覚は消えなかった。


(……近づいてる)


 あの“もうひとり”が、

 宮田のすぐ後ろに立っていた何かが——


(……俺のところに、来てる)


 喉の奥で何かが固まり、

 一樹はしばらく、鏡の前から動けなかった。

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