幻のカルボナーラ

藤前 阿須

幻のカルボナーラ

『今日、心理学いないがどした』

『ゴメン寝坊した』『コードヨロ』

『おけまる』

 私は感謝のスタンプを送り、食堂に入る。

 ラインでは寝坊と書いたが、あれは噓だ。

 本当は朝五時から起きていて、さっきまで1限の授業を受けたばかりだ。友には悪いが、今日の2限をさぼらなければならない。そうする理由が目の前のショーケースにあった。

 リーフ型の白い皿に入った小麦とチーズの波。そこに潜むピンクの恵み。黒いダイアモンドが散りばめたその上に太陽の如き卵黄が鎮座している。それは今日のアラカルト。

 その名はカルボナーラ。

 スパゲッティ・アラン・カルボナーラ。

 イタリア料理の最高傑作の一つにして、世界中で愛されるパスタ料理の定番。元はローマ料理だったそうだが、私には関係ない。こうして日本で食べられる今が重要だからだ。その濃厚な乳の香りと絶妙な塩味を想像するだけでよだれが出る。

 今日はそう、大学の食堂でカルボナーラが出る貴重な日なのだ。こんな日は滅多に来ない。だから、来た。

私は早速食券を買い、カウンターに向かった。


 5分後、私は食堂の下の学生ラウンジにいた。ここは学生向けの休憩所であり、私自身もよく利用している。

 壁際の机にトレーを置く。

 待ちに待ったカルボナーラを前に心が踊る。

 手は洗った。フォークとスプーンは用意した。

 準備は万全。

 私はまず、セットでついてきたオニオンスープに手を付ける。

 ここの食堂あるあるだが、アラカルトやバラエティーランチなどを頼むと、必ず汁物が付いてくる。それも当日のメニューに合わせて和・洋・中華と変えてくるのだ。

 今回は洋食だから、オニオンスープらしい。

 私は推定42度のかぐわしいエキスを流し込む。一気飲みだ。口の中で広がる煮詰めた玉ねぎの芳醇な香りが広がる。プカプカと浮かんでいたクルトンが歯と歯の間で響く。飲み干した後、口の中に塩味が残る。

 実に素晴らしい。食堂の方々に心の中で拍手を送る。

 さて、いよいよカルボナーラを食す時だ。

 だが、万全な状態で食べたい。どことなく残ったスープの後味が気になってきた。口の中をリセットしないと気が済まない。

 水が欲しい。

 そうだ、自販機から天然水を買おう。そう思い、両手をテーブルにつけて立ち上がる。と


ガタン……ベチャ。


音がした。

 気づけばテーブルは私の方に倒れており、コップが真下に転がっていた。

 なぜかテーブルの面が私の体と平行になっている。私の頭は宇宙空間をさまよっていた。キツネにつままれるとはまさにこのことだろう。


 そして、振り返る。

 目に映ったのは、チーズ色の悲惨な現場。


カルボナーラが、床に、ぶちまけられていた。

 視界が、真っ暗になった。


 それからのことはおぼろげだ。

 立ちすくんでいたかもしれないし、うめき声をまき散らしていたのかもしれない。

 私の中の期待が育っていた分、ソレの喪失はデカかった。

 覚えていることすれば、トイレからモップとちり取りを持ってきてチーズ色の絶望を厳かに処理したことくらいだ。

 周りにいた人間はこちらをチラチラ見るだけで手伝いはしなかった。時折、聞こえた「可哀想」「きたねぇ」という声が私の心を蝕んでいく。

 どんな気持ちかって。

 最悪だ。

 勢いで殺してしまった大親友の死体を隠蔽している気分だ。

 もう最悪。何度最悪といっても飽き足りないほど最悪だった。

 その日は午後にも授業があったにも関わらず、家に帰った。空腹感を感じても、食欲は湧かなかったからだ。


 あれから一年、私は四年生に入り、週に1、2度しか大学に来なくなった。

 未だ食堂のカルボナーラには出会えない。あれから何度も食堂に足を運んでもカルボナーラには出会えなかった。

 当然だ。あれは年に一度か二度しか出会えないレアメニューだ。早々食堂で出るものではない。

 馬鹿な話だ。私は大学の、それも学生向けに設けられた食堂の一メニューに執着している。

 近くのサイゼリヤに行けば、簡単に食べられるカルボナーラでは満足できない身体になってしまった。

 あの日の、あの悲惨な事故の前のカルボナーラが忘れられない。二度と食べられない幻が頭から離れない。

 だから、私は今日もアラカルトを見に食堂へ行く。あの幻の、カルボナーラを食べたいから。

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