第4話 街が見ている
ヒタカミの朝は、空より先に湯気が立つ。
赤煉瓦の屋並みを渡るパイプの中を、最初の蒸気が駆け抜けると、街中の歯車が一斉に目を覚ます。
新聞社の二階、編集部のソファでは、シノが毛布にくるまったまま丸くなっていた。
机の上には、書きかけの原稿と、ぬるくなった“サツマイモ茶”のカップ。
夜食代わりに淹れたまま、眠気に負けたらしい。
その隣では、カエル型ロボットのカジカが香箱座りの姿勢でスリープモードに入っていた。
胸のランプが規則正しく明滅し、まるで寝息のようだ。
足元には、印刷機の動力管から伸びた細いチューブが一本。
そこから漏れるかすかな蒸気が、カジカの背面ポートへ吸い込まれている。
――夜のあいだ、こっそり編集部の“動力”を分けてもらっているのだ。
フロアの奥のデスクでは、徹夜明けの記者たちがそれぞれの原稿の上に突っ伏して眠っていた。
イスを二つ並べて簡易ベッドにしている者もいれば、紙の束を枕にしている者もいる。
夜が終わりきる前の編集部は、活字の匂いと寝息だけが漂う、奇妙に静かな宿舎でもあった。
『――おはよう、ヒタカミ。
今日の霧はやわらかく、夜には“光の雨”が街を包むでしょう。
濡れることを恐れずに歩いてください。
その雨は、昨日の影を洗い流すために降ります。
――ミチル・ウィステリアでした。』
ラジオのジングルが流れ終わると同時に、カジカの胸のランプがぱっと明るくなった。
「……おはよう、シノ」
「んにゃ……? カジカ……今、充電してたの?」
「“借りてた”だけ。ちゃんと返すよ、圧の分だけ」
「返せるの!?」
「理屈の上ではね」
シノは目をこすりながら身を起こした。
ソファの背もたれから毛布がずるりと落ち、ぬるくなったサツマイモ茶が湯気の名残を漂わせている。
「……あったかい飲み物って、冷めると寂しいね」
「タヌキの寝相のせいで蒸気管が一回外れてたよ」
「えっ、それ危なくない?」
「編集部の圧力値、少し下がってたけど……誤差範囲さ。たぶん」
「“たぶん”はだめ!」
「じゃあ、責任取って新しいお茶を淹れてこようか」
「う、うーん……カジカが淹れると、味が完璧すぎて落ち着かないんだよね」
「文句が多いなあ。湯温、抽出時間、茶葉の酸化度、どれも理想値なのに」
「そういうところが機械的っていうか……心の余白がないっていうか……」
「要するに、“わずかなミス”が味になるってこと?」
「そう! タヌキ的にはね!」
そんな漫才のようなやりとりの最中、義手の指先がぴくぴくと震えた。
カチ、カチ、と歯車が噛み合う音。
「うわっ、また動いた!」
「寝ぼけてるんじゃない?」
「違うってば! 勝手に……あっ!」
義手の指が机を叩き、茶のカップを直撃。
ぱしゃり、とぬるい液体が原稿の上に広がる。
「ひゃあああ! せっかく書けてたのに、蒸かし芋みたいにふにゃふにゃにしちゃったぁ!」
「食べ物に例える余裕あるんだね」
「でも蒸かし芋って、失敗しても美味しいんだよ……たぶん」
「記事はそうはいかないと思うけど」
シノが大慌てで紙を拭く中、カジカはしれっと後片づけを手伝う。
「寝起きに暴走。新記録だね」
「記者生命の危機って書いといて……」
天井のパイプが鳴り、奥の扉がガタンと開いた。
「……あれ、朝から出勤ですか?」
「“から”じゃない、“まで”よ」
コーヒーの香りとともに現れたのは、案の定アグサだ。
「騒がしいと思ったら、朝から蒸気漏れの音までしてるじゃない。爆発でもした?」
「してません! たぶん!」
「“たぶん”じゃないの!」
アグサは目の下のクマを誇らしげに見せながら、コーヒーカップを机に置いた。
「で、起き抜けのタヌキ記者は今日も元気みたいね。いいわ、その調子で取材行ってもらうから」
「取材、ですか?」
「昨夜のニュース、聞いてないの? 中央区で“地下から現れた集団”が出たのよ。通称――ブラス・バジャー怪盗団」
その名前に、編集部の空気がざわめいた。
机に突っ伏していた印刷明けの記者たちが、次々と顔を上げる。
誰かがあくび混じりに立ち上がり、ポットに残っていたコーヒーをカップに注ぎ始めた。
眠気と興奮の入り混じった声が、ぽつぽつと飛ぶ。
「出た、例の強盗団か!」
「顔にペイントしてたんだって」
「尻尾があったって話もあるぞ」
「それと、腕に金属の爪。ギラッと光ってたとか」
どの声も、夜明け前の眠気と興奮がまじっている。
やがて、一通り噂が出尽くすと、皆一斉にシノの方を見た。
タヌキ顔、モフモフの尻尾、そして左腕に光る義手。
「……へ?」
シノはぽかんと口を開け、カジカはしずかにため息をついた。
数秒の沈黙のあと――。
「シノね」
「シノだな」
「いやいやいやいや、私じゃないですよ!? そんな夜中に地下から出てないってば!」
「床下には落ちたことあるけどね」
「だからそれは事故! 事件じゃない!」
「特徴一致率、九十七パーセント」
「カジカぁ!」
笑いが編集部を包み、アグサはカップをくるくる回しながら片眉を上げた。
「冗談はさておき、その怪盗団が出た中央区で、“蒸気レンズ塔”の監視映像が白飛びしたままらしいのよ」
「……つまり、それも怪盗団と関係があるかもしれない?」
「可能性はあるわね。映像が使えないから、現場で確かめるしかないの。ハヤマさんの命令で現場確認、よろしく」
「えっ、私が行くんですか!?」
「こっちはこっちでハヤマさんの指示で速報のまとめ。現場に出る許可が下りてないのよ」
「アグサ先輩が外出禁止って、どういう状況ですか……?」
「三日帰ってないだけで“デスクから動くな”ってさ。寝るより仕事してるほうが健康的なのにね」
「帰れ、って言われなくてよかったですね……」
「だから、代わりにあんたが行くの。新鮮な空気、吸ってきなさい」
「わかりました!でも“新鮮な空気”って、塔のてっぺんのことですよね?」
「ええ、もちろん。……タヌキって木登り得意でしょ? イヌ科の中じゃ珍しいんだから」
「何ですかその豆知識……」
「新聞記者たるもの、自分の特性を活かすのも仕事のうちよ」
「うわぁ~……取材っていつも体力勝負ですよねぇ」
「新聞は足で書くものよ」
「うぅ、義手の方も鍛えておきます……」
そうぼやきながら、シノは取材道具をまとめ始めた。
ペンや記録帳、撮影用の簡易レンズを手早くカバンに詰め、肩のベルトを整える。
デスクの上の資料をまとめて重ね、いつもの癖で肩を軽く回しながら義手の関節を動かし、調子を確かめた。
歯車のかすかな音が、出発の合図のように響く。
カジカがそれを見て、胸のランプを点滅させる。
「蒸気圧、良好。寝起きにしては上出来だね」
「もうちょっと“やる気”とか言ってよ……」
「現場で出すタイプでしょ?」
「……そうかも。でも、この前付けてもらった“耳”が過敏でね。それから小さな音でも反応するの」
「さっきのコップも、それ?」
「たぶんね。嫌な音だけ拾うのが困りもの」
「ムジカに調整してもらう?」
「ううん、もう少し様子を見る。……不思議と、無視できない音もあるから」
「タヌキの直感に、アップデートが入ったわけだ」
「機械みたいに言わないでよ!」
「だって左腕は機械でしょ」
「うぅ……言い返せない……」
「じゃあ、アップデートの確認は現場でね」
そう言ってカジカは、ぴょんとシノのカバンに飛び乗り、そのまま中に収まった。
シノは軽く笑いながら留め具を“カチリ”と締めた。
「よし、準備完了」
その重みが、まだ少し眠たい体を引き締めていく。
扉の前で一度、深呼吸。
外気がふっと流れ込み、蒸気の匂いとともに朝の光が頬を撫でる。
霧の向こうで、街が低く息づいている。
――なんだろう。今日は少し、空気の流れが違う気がする。
胸の奥で、昨日感じた“見られている”ざらつきが、かすかに疼いた。
取材用のカバンをしっかり握り直す。
――今日、確かめてみよう。
“街が見ているもの”の正体を。
* * *
編集部を出ると、ヒタカミの朝霧はすでに街を包み込んでいた。
空の色は乳白色。人工の太陽灯が雲膜の奥でぼんやりと脈打っている。
街路のパイプから立ちのぼる蒸気が、風に混じって淡く流れ、歯車の音がどこかでリズムを刻んでいた。
「……ほんとに“光の雨”が降りそうだね」
シノが呟くと、肩のカバンからカジカの声が返ってくる。
「朝の放送のこと? 天気予報、相変わらず詩的だね」
「詩的っていうか……意味深っていうか。光の雨って、なんだろう」
「光線漏れとかじゃない?」
「詩的じゃないね……」
霧を切り裂くように、蒸気機関車の汽笛が遠くで鳴る。
いつもと同じ朝の音――のはずなのに、シノの耳には少しだけ違って聞こえた。
義手の“耳”が、霧の奥の振動を拾っているのかもしれない。
街路を進むうちに、屋台の準備をしている老人や、新聞を取りに出た市民たちがぽつぽつと現れる。
軒先の立ち話から、「今晩は雨になるらしいねぇ」「朝からそう言ってたからねえ」といった声が聞こえてくる。
誰も、空を見上げて確かめようとはしない。
――みんな、疑うこともなく信じてるんだ。
その素直さが、少しうらやましくて……でも、どこか怖い。
* * *
霧の向こうに、塔のシルエットが浮かび上がる。
金属の脚柱が地を貫き、上層へ向かって無数のパイプが絡みついている。
まるで、街全体の目玉がそこに集まっているみたいだった。
「うわぁ……近くで見ると迫力あるね」
「蒸気レンズ塔。ヒタカミの“瞳”だって言う人もいるよ」
「どっちかっていうと、監視カメラの親玉って感じだけど……」
シノは苦笑しながら、カバンの紐を握り直した。
――数歩歩くと、カバンの中でカジカのランプが点滅した。
「ねぇ、カジカ」
「聞こえてるよ」
「街の“天気”って、誰が決めてるんだろ」
「気象制御局でしょ? あそこが電磁霧の流れを――」
「ううん、そうじゃなくて。“今日は晴れにしましょう”って言う人。
……そういう“誰か”がいる気がするんだ」
「記者モードだね。危険なやつ」
「え、それって褒めてないよね!?」
「半分くらいは褒めてる」
「その“半分”大きめでお願いしたいんだけど!」
風が吹く。
塔の上部、霧の奥で金属光沢がかすかに瞬いた。
その一瞬を、シノの義手がかすかに反応して震えた。
* * *
蒸気レンズ塔。
ヒタカミ中央区のちょうど真ん中、霧を割るようにそびえるその塔は、遠目には巨大な望遠鏡の支柱、近づけばパイプと歯車の森だった。
高さ、およそ百三十メートル。
ドーム天井までの三分の一を突き抜けるその姿は、まるで“空の心臓”に触れようとしているようにも見える。
塔の四辺には露出した金属の脚柱が地面に深く根を張り、上層には光学レンズを並べた回転台が据えられている。
ヒタカミの通りという通りを、昼夜の明るさに応じて選び、光と影を“投影盤”へ運ぶ仕組みだ。
ここで使われるのは電気ではない。
屋外のガラスレンズで光を集め、鏡の入った反射管で塔内へ導き、内部の“分岐箱”で方向を変え、最後に光を白い壁面――投影盤へ当てる。
像を残したいときは、壁の前に感光板を立てて露光する。焦点を合わせ、板を出し入れし、圧を測って、霧の日には静かにレンズを磨く。
――もとは、“人の手”が要る塔だった。
受付の木製カウンターで、口髭の男が黒い手袋を外した。
名札には“コマキ”。
中年の技師にしては、どこか寝不足の目をしている。
「悪いが今日は……いや、昨夜からずっと機嫌が悪くてね、塔のほうが」
そう言って、分厚い書類束を机にどさりと置いた。
「中央区の映像が“真っ白だ”って、夜中に何本も苦情が来たよ。
今は今で、映すものが“誰もいない通り”ばかりで、同じ角を繰り返してる。
加圧弁も唸ってるし、機械が荒れてる。……人手も足りん」
「人手、ですか?」
「ああ。昔はこの塔だけで五人常駐だった。今じゃ昼夜合わせて三人をシフトで回してる。
『自動化が進んだから』って言われたが、結局、現場の時間は変わらんのさ」
「自動化……?」
「“記録合金”ってやつが導入されてからだ。塔の映像系統にも組み込まれてる。あれが“街中を覚えてくれる”って触れ込みだったが……」
コマキは眉をひそめて、机を軽く叩いた。
「記録ばっかで、肝心な“変化”を見落とすんだ。人の目を削っておいて、街が勝手に見張ってるつもりらしい」
カジカがカバンの窓から目を光らせる。
「記録しすぎて、“見る”ことをやめた、ってわけか」
「うまいこと言うじゃないか。……上じゃ“正常”って報告が出てるが、現場は違う。ま、上に登って見てみな」
コマキはぶ厚い手袋を拾い上げ、入口脇の案内板を親指で示した。
「上層へ行くなら、昇降機か非常階段。……ただし今日はちょっと厄介でね」
「厄介?」
「さっき、圧が跳ねて安全装置が働いた。昇降機が“非常停止”したんだ」
塔の奥から、圧を抜くような低い唸りが聞こえる。
「一度あれがかかると、手順踏んで圧を落として、弁を確認して……ってやってからじゃないと、再起動できない。急いでなきゃ、ここで書類でも読んで待ってりゃいいんだが」
「どのくらい、かかりそうですか?」
「六百段ぶんの我慢、ってところだな」
「六百段……?」
「横の扉が非常階段だ。上まできっちり六百段。若い足なら行けるだろ。俺は昇降機の方を片づけてくる」
コマキは鍵束を鳴らしながら、工具袋を手に地下への通路へと消えていった。
「六百段……」
「うわ、締切までに登りきれないね」
「だから普通は、もっと余裕を持って来るんだよ」
「非常階段って非常用でしょ? 今が非常事態! 締切的に!」
「あ、待つ気ないんだね」
シノは昇降機の扉と“非常階段”と、自分の左腕を見比べて、小さくうなずいた。
「……ちょっとくらい、近道してもバレないよね」
そう言うと、シノは首にかけていたゴーグルを持ち上げ、目元に装着した。
レンズが霧の光を受けて淡く反射する。
「視界、良好」
左腕の義手にある小さな弁をひねる。
内部で圧が走り、歯車が噛み合う音がした。
次の瞬間――。
シュパッ、と金属線が空を切り、外壁の梁に絡んで、カチと留まる。
体がふわりと浮き、胃が少し沈む。
霧が頬を撫で、下の街並みが遠ざかっていく。
「ひゃっ……!」
「前みたいに記事より先に吹っ飛ばないでね!」
塔の外壁を駆け上がる。
霧の層を抜けるたびに、義手の中のブレーキ歯車が甲高く歌い、ワイヤーが次々と射出・巻き取りを繰り返す。
シュッ――カチリ。
シュッ――カチリ。
一定のテンポで、鉄骨の間を跳ねるように移動していく。
ワイヤーが外壁の装飾梁を掠め、蒸気の吹き出し口を避けながら、
シノは軽やかに、まるで塔の一部と呼吸を合わせるように登っていった。
赤煉瓦の街並みがどんどん小さくなり、遠くにはドームの天井が、薄い白膜のように霞んで見えた。
――この高さでも、まだ“空”には届かない。
それが、ヒタカミの“天”だった。
「風が気持ちいい!」
「現場取材って、命懸けの競技だったっけ?」
鉄製の外扉の取っ手を掴み、どうにか着地。
心臓の鼓動と、義手の歯車の鼓動が、胸の奥でひとつに重なった。
* * *
モニター室――と言っても、未来の書斎のようなものではない。
壁一面の白い投影盤、光を運ぶ反射管、角度を微調整するハンドル。
隅の棚には感光板が立てかけられ、机の上では蒸気で動く筆記機がカタカタと震えながら、時刻と“観測通り名”を紙に打っている。
反射管の根元には、金色の筋が走る金属板が埋め込まれていた。
触れずとも、そこだけ空気がわずかにざらついている。
コマキの言っていた“記録合金”――映像を記憶し、時間を上書きする塔の“心臓部”。
光と記録が混ざり合うこの場所で、時間さえも整列させようとしているようだった。
人の匂いがする。油と汗の混ざった、温かい匂い。
だから、ここは無人ではない。――ただ、今は塔番が地下にいるだけだ。
「……なんか、落ち着かないけど」
「うん?」
「この部屋、息してるみたい。……でも、止まったら困る気もする」
「詩的な不安だね。アグサの影響かな」
カジカが机にぴょんと上がり、義手の端子をコネクタに軽く当てる。
「記録紙の出力を読むよ。……巻き戻し」
投影盤に通りが浮かぶ。
古い石畳。ガス灯の柱。洗濯物の影。――誰もいない。
次の紙、次の映像。
揺れる旗の角度、落ちる影の長さ、ゴミ箱の蓋の傾き――同じ。
時刻の刻印は違うのに、像は変わらない。
まるで「別々の時間」を「同じ絵」で上書きしているみたいに。
「シノ」
「うん」
「この角、三回続けて“全く同じ”。旗の揺れ幅まで一致だ」
義手の“耳”が、皮膚の奥でふるえた。
微かなノイズが、内側から表面を撫でる。
反射管の根元に埋め込まれた記録合金の筋が、同じように青く瞬いた。
――呼応している。
触れていないのに、義手の金属がかすかに熱を帯びる。
空気がざらつき、視界の端が揺らいだ。
【――この視界は、仮想投影です。】
その声は、耳の外でも内でもない、“どこか別の層”から響いた。
反射的に、シノは息を詰める。
「い、今の、聞こえた?」
「……? 何も。蒸気の息の音だけだよ」
――カジカには聞こえていない。
じゃあ、今のは……私だけ?
喉が急に渇いた。金属の匂いが舌に移る。
目の前の像は淡々と無人の角を写し続け、筆記機は何事もなかったようにカタカタと動いている。
そのすぐ横で、圧力計の針がじりじりと上を指し始めていた。
さっきまで安定していた蒸気の唸りが、どこかうわずった音に変わる。
「……カジカ。これ、圧、ちょっと変じゃない?」
「待って、今ログを――」
その言葉と同時に、床の歯車が、ひと歯だけ空転した。
ほんのわずかな“ずれ”が連鎖し、投影盤の像がチカ、チカ、と瞬く。
反射管の奥で蒸気が逆流し、記録合金が脈打つように明滅した。
「圧が跳ねてる……! 後ろ!」
カジカの声。
反射より先に、左腕が撃つ。
ワイヤー射出。天井の梁に掛け、身体を横に振って荷重を逃がす。
だが、隣の蒸気弁がボッと息を吐いた。
熱風が弾け、視界が白く染まる。
シノの身体は宙に押し上げられ、回転しながら通りの映像と一瞬、重なった。
「カジカぁっ!」
「いいから減速して」
ぶら下がる勢いのまま、壁に足をかける。
ワイヤーを一段短く、ブレーキを軽く。
反動で半回転――隣室の開き戸にダァンと激突。
ぶつかった先には、祝典投影用の光幕が吊るされていた。
薄い布地が勢いで裂け、細い光の粒が舞う。
蒸気の風を受けて、破れた幕がひらめき、シノの体を包み込む。
「……着地、成功?」
「分類的には“突入”だね」
「語彙が冷静すぎるよ!……あちゃ、これ弁償案件かな」
「気づくの遅い」
そのとき、昇降機のシャフト音が響いた。
鉄の扉がギイと開き、煤けた整備服のまま、コマキが姿を現した。
額にはうっすら油と汗のにじみ。手には工具袋。
「やっと圧が戻った……って、なんだこりゃ。塔の中で台風でも通ったのか?」
室内を見回し、コマキの眉が跳ね上がる。
反射管の一部は熱で歪み、感光板の束が床に散乱している。
天井近くの反射板は角度を狂わせ、まだかすかに白煙を上げていた。
祝典用の光幕は、途中から大きく裂け、だらりと垂れ下がっている。
コマキの目がそこに一瞬だけ止まり、眉間に深いしわが刻まれた。
「お、おいおい……大丈夫か? 怪我は?」
「だ、大丈夫……! でも、何もしてないのに、いきなり圧が跳ねて……!」
「ふむ。機械ってやつは、たいてい自分の都合で動くんだ。人のほうが合わせるしかない」
コマキは苦笑して、床の板を拾い上げた。
光にかざすと、露光前のはずの板の表面に、すでに薄い像が浮かんでいる。
「……やれやれ。ここでも“無人通り”か」
ぼそりとこぼしながら、板の縁に目を凝らす。
次の瞬間、眉間にしわが寄った。
「……待てよ。こいつ、朝に差し込んだばかりの“生板”だぞ。光も当てちゃいないのに、どうやって像が残る」
コマキは別の板を引き抜き、明かり箱にかざした。
同じ通り。
同じ旗。
同じ影。
「……二枚目も、だ。朝の巡回で入れ替えたばかりなんだがな」
さらにもう一枚。やはり同じだ。
どの板も、“動かない時間”を焼きつけていた。
コマキはしばらく無言で見つめ、眉間に深い皺を刻む。
「……ここまで来ると、さすがに話が違う。こんなの、見たことがない」
低い声が室内に落ちた。
シノは、投影盤の“同じ角”と、コマキの静かな声と、自分の耳の奥のざらつきを同時に味わっていた。
――見られている、のではない。
“見せられている”。
誰かが、街を都合よく書き直して、同じ絵を繰り返し貼り付けている。
筆記機は何も知らない顔で、カタカタと時刻を刻み続ける。
「記録」のふりをした「絵合わせ」。
そのズレが、今日のヒタカミの温度を、少しだけ冷たくした。
* * *
夕方。編集部は、紙とインクの匂いに、うっすらと汗と鉄の匂いが混ざる時間帯だった。
シノが戻ると、ブラス・バジャー怪盗団の噂は朝よりもふくらみ、形を変え、すでに半分は“物語”になっていた。
「ブラス・バジャー、中央区で飛び回ってたらしいぞ!」
「蒸気塔の上空をな!」
「モモンガかよ!」
笑いを待つような間のあと、シノは顔を伏せ、小さく、それでもはっきり言った。
「……それは、たぶん私ですね」
編集部がどっと沸いた。
「犯行自白きた!」
「記事タイトル決定。“空飛ぶタヌキ記者”!」
「ちがいます! あれは取材で、職務上の機動です!」
「はいはい、“真面目な取材”ね。編集長が聞いたら、請求書見て泣くわよ」
アグサが肩で笑いながら、机の端に腰をかけた。
ポニーテールの毛先が揺れて、冷めかけのカップが小さく鳴る。
「で、どうだった? レンズ塔」
「ブラス・バジャー怪盗団と関係あるかはわかりませんでした。
でも、“無人の通り”が連続してて……時刻が違うのに、旗の揺れ幅まで同じなんです。
感光板には現像前から像があって……まるで時間そのものを“写し直してる”みたいで」
「写し直し、ね」
アグサはカップを見つめたまま、低く呟いた。
「記録ってのは、便利で“優しい”。でも、優しすぎると嘘になる。――いい見出しになりそうじゃない?」
「……確かに。だからこそ、ちゃんと確かめないと」
「嘘も、長く磨けば“記録”になるのが世の常よ」
「コマキさん、協力してくれるかな?」
「その人、信用できそうなの?」
「たぶん。自動化より、人の目を信じてる人でした。だから、あの異常も放っておかないと思います」
机の上の感光板控えを、シノはそっと撫でた。
表面は冷たく、乾いた匂いがする。
義手の指先がかすかに震え、耳のユニットが静かに開いた。
ノイズが一枚、薄紙のように重なる。
【――あなたたちの“現実”は、選ばれた映像です。】
あの声だ。塔で聞いた、“視界は仮想投影”と告げた声――。
「……いまの、誰?」
「ん? 何も言ってないけど」
「カジカ、録音してた?」
「してないよ。ノイズしか拾ってない」
シノは顔を上げた。
鼓動が耳の奥でひとつ跳ねる。
――私だけ……?
ふと、義手の表面が微かに熱を帯びているのに気づく。
金属の奥で、まだ何かが“聞いて”いる気がした。
――もしかして、義手から……?
窓の向こうでは、街の灯りがひとつ、またひとつ灯っていく。
夕方の照明が切り替わり、“夜の予告灯”が点りはじめたころ――
編集部のラジオが、唐突にノイズを挟んで音を流した。
『――こんばんは、ヒタカミ。今日も、あなたを見守っています。ミチル・ウィステリアでした』
その声が響いた瞬間、タイプ音が一斉に止まった。
けれど誰も驚かない。
アグサも、他の記者たちも、ごく自然に作業を再開する。
まるで“夜の放送”が、夕方に流れるのが当たり前のことのように。
「……今の、夜の放送でしたよね?」
「うん? そうだったかな」
アグサはコーヒーをすする。
誰も気にしていない。
窓の外では、ちょうどそのとき、ドームの天井あたりから細い光の筋が降り始めていた。
霧の粒に照明が反射して、斜めの線が幾本も、ゆっくりと街に落ちていく。
――光の雨。
朝の放送で約束された通りの光景に、人々は安心したように歩みを速めるのだろう。
けれどシノには、その光が「昨日の影を洗い流す」というより、
さっき塔で見た“同じ絵”を、街全体に透明なフィルムみたいにかぶせているように見えた。
でもシノだけは、その“時間のずれ”に、小さな寒気を覚えていた。
“見守る”は、いつもなら安心の合図だった。
けれど今日は、どうしてか冷たい。
――見られている安心が、“見せられている”安心に、入れ替わってしまった気がした。
「――書こう」
シノは小さく呟いた。
自分に対して、そして机の上の白紙に対して。
「上書きされる前に、今を。私の言葉で」
カジカが軽く頷く。
「いいね。でもまずは、祝典用光幕の弁償書を――」
「それは“取材に必要な経費”ってことでお願いします!」
「そんな経費は通らない!」
また笑いが編集部に広がる。
けれど、笑いの奥では、どこかの投影盤が今も同じ角を映し、
同じ風を何度も繰り返しているのかもしれない。
歯車と紙、ノイズと声。
その全部を抱えて、シノはペンを取った。
第4話 了
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