第3話 梅田デート

 春の陽射しが、ガラスの街をやわらかく包み込んでいた。

 大阪・梅田。

 人波のなかをすり抜けながら、俺は隣を歩くマリーの歩調に合わせていた。

 彼女は小さく息を吐き、空を見上げる。

 淡い栗毛が光をはね返して、春の風に揺れていた。


「人が多いですね」

「休日ですからね。疲れたら、どこかで休みましょう」

「ええ。でも……どこか懐かしい。たくさんの人がいても、孤独じゃない感じがします」


 その横顔は、笑っているのに少し切なかった。

 俺たちは屋台のたこ焼き屋に寄った。

 鉄板の上で油がはね、香ばしい匂いが漂う。


「はい、焼きたてやで! アツアツ気ぃつけや!」

 おばちゃんの明るい声に、マリーが首をかしげる。

「“アツアツ”?」

「“とても熱い”って意味です」

「……ふふ、面白い言葉ですね」


 爪楊枝で丸い生地を刺して、マリーは慎重に口に運ぶ。

「……おいしい!」

 その笑顔に、おばちゃんが満足そうに笑った。

「ええ顔してるわ、お嬢ちゃん! もう一個おまけや!」

「ありがとうございます!」

 マリーは小さく頭を下げ、その姿に俺もつられて笑った。


 昼下がり、俺たちは「ルミエール」という名のティールームに入った。

 白い皿に積み重なった八段のパンケーキが運ばれてくる。

 その高さに、マリーが思わず目を丸くした。


「……これは、塔ですか?」

「いや、パンケーキ。大阪じゃなくても人気です」

「八段も……一人では食べられませんね」

「じゃあ、半分こにしましょうか」

「“はんぶんこ”?」

「……シェア、です」

「Ah… partager.(わけあう)」

 マリーは小さく笑い、フォークを手に取った。


 バターがとけ、メープルシロップが黄金色の滝のように流れ落ちていく。

 二人で一枚ずつ分け合いながら、マリーがフォークの先で俺の皿を指した。

「あなたの方が大きいです。ずるい」

「えっ、そんなことないですよ」

「うそ。フランスでは“フェア”が大事です」


 彼女は冗談めかして俺の皿からひと口奪い、いたずらっぽく笑った。

 その無邪気さに、不意に胸が鳴る。

「……仲良く食べるのが一番ですよマリーさん」

「Oui(ウィ)。そうですね……優さん」


 名前を呼んで、スプーンを持つ手が止まった。

「“さん”は、いりません。フランスでは、親しい人の名前はそのまま呼びます」

「でも、急に……」

「わたしのことも、“マリー”でいいです」

「……わかった。マリー」


 その瞬間、彼女が微笑む。

 紅茶の香りがふわりと広がり、胸の奥に小さな温かさが灯った。


 カップを置いたマリーは、ふと小さく呟いた。

「Je me souviens…(思い出した気がする)」

「え?」

「この味。昔、誰かと同じように食べた気がする。

 でも……誰とだったのかは、どうしても思い出せないの」


 その言葉に、俺は返す言葉を見つけられなかった。

 ただ、風が窓を揺らし、午後の光が彼女の頬を照らすのを見ていた。


 夕方、俺たちは梅田スカイビルの空中庭園展望台へ向かった。

 エレベーターが上昇するたび、街の景色が足元から遠ざかっていく。

 地上173メートル、吹き抜けの空間に出ると、風が一気に頬を撫でた。

 西の空は金色から橙へ、そして群青へと溶けていく。


「……綺麗ですね」

「そうだな。ここから見る夜景、息をのむくらい綺麗だ」

 マリーは手すりに寄りかかり、目を細めた。

「フランスではね、星を見ながら手をつなぐと、“記憶がひとつになる”って言うんです。」


 そう言って、マリーがそっと俺の手を取った。

 柔らかくて、少しひんやりしている。

 反射的に握り返すと、彼女の肩が小さく震えた。

「……ねえ、優」

「うん?」

「こうしていると、怖くなくなるんです。

 記憶が戻らなくても、この瞬間だけは確かだから」


 風が強く吹き抜け、彼女の髪が頬をかすめた。

 街の灯が、遠くでひとつ、またひとつ点いていく。

 俺たちの影が寄り添うように重なっていた。


「マリー」

「はい?」

「もし記憶が戻っても……俺のこと、忘れないで」

 彼女は少し目を見開き、そして微笑んだ。

「忘れられるわけ、ないでしょう? ――だって、今の私を作っているのは、あなたとの日々だから」


 その言葉とともに、夜の風が吹き抜けた。

 彼女の笑顔の奥に、どこか切ない影が揺れていた。


 その夜、俺の胸の奥で何かが微かに動いた。

 けれどそれが「恋」なのか、「記憶」なのか、

 このときの俺には、まだ区別がつかなかった。

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