第4話 午後の手紙

 午後の陽射しが、薄いカーテンを透かして部屋に流れ込んでいた。

 外では小鳥が鳴き、遠くでモノレールの音が響く。

 穏やかな、春の午後。

 けれど、その静けさの中に、言葉にならない違和感が漂っていた。


 マリーは、いつものように紅茶を淹れていた。

 アールグレイの香りが、部屋いっぱいに広がる。

 やわらかな蒸気がカップの縁に揺れ、陽光の中で光の粒が漂う。

 俺はソファに腰を下ろしながら、ノートパソコンを開いていた。

 宿題のレポートを書くふりをしながら、何度も画面を見失っていた。


「優」

「うん?」

「今日は風が気持ちいいですね。洗濯物、よく乾きそうです」

「……ほんとだ」


 その声が静かに胸に染みた。

 何でもない日常なのに、どこか不安定な美しさを感じる。

 マリーはまるで“今この時間だけが現実”だと信じているようだった。


 やがてマリーがベランダへ出ていく。

 風がカーテンを揺らし、淡い日差しが床を流れていく。

 そのとき、テーブルの下に一枚の封筒が落ちているのに気づいた。

 白い封筒。宛名は、達筆なアルファベットで書かれていた。


 ――“À Mademoiselle Marie Belleville”(マドモアゼル・マリー=ベルヴィルへ)


 裏面には、外国の切手のような印。

 開封されているのに、投函の跡がない。

 俺は迷いながらも、そっと手に取った。

 中には、一枚の便箋。

 そして、フランス語で書かれた短い文が目に入る。


「彼が目を覚ましたら、“約束”を果たして。

 ――“あなたなら、きっと思い出させられる”と信じています。」


 筆跡がどこかマリーの字に似ていた。


 ――彼?

 誰のことだ?

 胸の奥が、急に熱を帯びた。

 マリーが誰かの“約束”を抱えている。

 その“彼”とは……。


「優?」

 背後から声がして、封筒を慌てて隠す。

 マリーが洗濯物を抱えて戻ってきていた。

 風に髪をなびかせながら、少し微笑んでいる。

 しかし、その笑顔はどこか硬かった。


「何を見ていたんですか?」

「……いや、ちょっと。机の下に落ちてたから」

 封筒を差し出すと、マリーの表情がわずかに曇った。

 彼女はそれを受け取ると、胸の前でそっと抱きしめた。


「それは……手紙です。フランスから」

「大切な人から?」

 マリーはしばらく黙っていた。

 そして、小さく息を吐いた。

 「C’est une promesse…(それは約束)」


「約束?」

「……ええ。忘れたくないもの。

 でも、思い出したら……たぶん、あなたは私を許せなくなる。

 それでも、約束だけは果たしたいの。」


――その言葉に、胸の奥がきしむように痛んだ。

 彼女の指先が震えている。

 その瞬間、頭の奥で何かが弾けるような感覚が走った。

 雨の匂い。アスファルトに跳ねる水の光。

 まぶしいヘッドライト。

 そして――泣きながら自分の名前を呼ぶ声。

 “優……!”

 音もなく、その光景が脳裏に閃いた。

 息を吸い込むと、胸の奥がひどく痛い。


「……マリー?」

「どうかしましたか?」

「いや……なんでもない」

 彼女はわずかに首を傾げ、いつもの穏やかな微笑みに戻った。


 その言葉に、胸の奥がきしむように痛んだ。

 マリーは視線を落とし、微かに笑う。

 その笑顔が、泣いているように見えた。


「マリー……?」

「優、もしわたしが何かを隠していても、怒らないでくれますか?」

「……どうしてそんなことを?」

「ただ、そう言ってもらえたら……少し、楽になる気がするんです」


 返事ができなかった。

 マリーは静かに紅茶を口にし、目を閉じる。

 その姿はまるで、夢の中の人のようだった。


 窓の外で風が強く吹き、カーテンがふわりと膨らんだ。

 封筒の角がテーブルの上で震え、光を反射している。


 ――その光は、どこか遠い記憶を呼び覚ますように眩しかった。


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