第10話 思い出よりも、今を愛して

秋の夕暮れ、オレンジ色の光がアトリエの床に差し込む。

梨乃は静かに絵筆を握りながら、机の上の写真を見つめていた。

ぼんやりと浮かぶ影——自分がかつて愛した人。

しかしその顔は、霧のようにぼやけている。


「……誰だろう、私……」

小さな声に、真冬がそっと寄り添う。

「梨乃さん、無理に思い出そうとしなくていいんです。

 今、ここにいる自分の感情を大切にしてください」


梨乃はその温もりに、自然と体を預ける。

──確かに、思い出すことはできない。

でも、この人の手のぬくもりが、今の私の全てだ。


窓の外では、秋の風が銀杏の葉を揺らし、かすかに冷たさを含む。

蓮はその光景を静かに見守る。

胸の奥で痛みが走る。

──思い出すべきなのに、彼女は今の温もりを選ぶ……


結香もまた、その傍らで胸に手を当てる。

──私は止められない……二人の愛を、崩すことはできない……

罪悪感と無力感が重くのしかかる。


梨乃は写真をそっと置き、真冬の手を握った。

「……ごめんなさい、でも、今は……」

言葉に詰まるが、瞳には迷いと覚悟が入り混じる。


真冬は微笑み、そっと頬に触れる。

「大丈夫です。梨乃さんが選んだなら、それが正しい」

その言葉に、梨乃は小さく頷き、目を閉じる。


蓮はその様子を見つめながら、胸の奥で痛みを噛みしめる。

しかし同時に、決意も生まれる。

──俺は、どんな形でも梨乃を見守る。

過去の愛の影は、霞のように薄れていっても構わない。

今の彼女が幸せであるなら、それでいい。


夜が訪れ、アトリエには柔らかな灯りだけが残る。

真冬と梨乃は寄り添い、静かに会話を交わす。

「……ねえ、真冬さん」

「はい?」

「ありがとう……今の私を、受け入れてくれて」

真冬は優しく笑い、手を握り返す。

「梨乃さんが笑ってくれるだけで、僕は幸せです」


結香は少し離れた場所で、その光景を見つめる。

目を伏せ、胸に手を当てながら静かに息をつく。

──二人を止められない罪。

しかし、それでも見守るしかない。

愛は、優しさか、執着か——。

今、梨乃は優しさを選び、蓮は執着を押し殺している。


蓮はアトリエの扉の外で立ち止まり、深く息をつく。

雨上がりの夜風に吹かれ、胸の痛みが静かに波打つ。

──俺は、見守るだけでいい。

でも、俺の想いは決して消えない。


遠くの街灯に映る二人の影。

寄り添う梨乃と真冬、その傍らで見守る結香。

蓮は目を細め、心の中で静かに呟く。

「……幸せになれ、梨乃」


秋の夜は静かに深まり、アトリエには微かな温もりと哀しみが漂う。

過去を思い出せなくても、今の愛を選ぶ梨乃。

その温もりに包まれながらも、蓮と結香の胸には小さな痛みが残った。


窓の外で、風が葉を揺らす音が聞こえる。

──思い出よりも、今の温もりを選ぶ罪。

それは、誰も責められない選択だった。


蓮は深呼吸をし、夜空に浮かぶ星を見上げる。

──俺は、これからも、彼女を見守る。

その覚悟と痛みを胸に、秋の夜は静かに過ぎていった。

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