第9話 記憶の影、秋の光の中で

秋の昼下がり、アトリエには柔らかな光が差し込み、窓の外では銀杏の葉がひらりと舞う。

梨乃は机に置かれた絵具をじっと見つめ、指先で軽く触れる。


「……これ、なんだっけ……?」

小さく呟く声は、自分でも戸惑っていることを示していた。


真冬がそっと肩に手を置く。

「梨乃さん、大丈夫ですか?」

その声は、研究者としての慎重さと、個人的な愛情が入り混じった温かさを帯びていた。


梨乃は一瞬だけ目を伏せ、微かに頷く。

だが胸の奥では、曖昧な感覚が渦巻いていた。

──あれ、私……昔の誰かを……。

断片的な記憶が、まるで水面に浮かぶ波紋のように、かすかに揺れる。


その瞬間、蓮が静かにアトリエの入口に立っていた。

視線は梨乃に向かっているが、言葉は発しない。

──俺は、今、見守るしかない……


梨乃の目に、ふと懐かしい感情が走る。

しかし、顔や名前はぼやけて思い出せない。

その迷いを察した真冬は、そっと手を握る。

「大丈夫です。今、ここにいる僕を頼っていいんですよ」


梨乃はその手に触れ、自然と心が安らぐ。

──この温もりが、今の私の全て……


蓮はその様子を見つめながら、胸の奥でざわつく感情を押し殺す。

(……俺の想いは、まだ届かない)


午後、梨乃は少し休んだ後、絵筆を握り直す。

だが、筆を置く手が小さく震える。

真冬がそっと彼女の背中を支え、肩を軽く抱く。

その温もりは、梨乃の記憶の混乱を包み込み、安心感を与える。


「……真冬さん、ありがとう」

梨乃の声はかすかに震える。

真冬は微笑み、優しく頷く。

「梨乃さんの笑顔が見られるだけで、僕は幸せです」


蓮は静かに立ち尽くす。

胸の奥に痛みが走る。

──俺は、ただ見守るしかないのか……


その夜、アトリエの灯りの下で、梨乃はふと机の上に置かれた写真を手に取る。

そこにはぼやけた人物の影。

──誰だろう……この人、私……知ってるはずなのに……


結香は少し離れた場所でその様子を見つめる。

罪悪感と焦燥感が胸に渦巻く。

──過去を思い出しそうになる梨乃。でも、今は真冬の温もりが優先される……

結香は、自分の手では二人の関係を変えられないことを痛感する。


翌日。アトリエの窓から差し込む朝日の中で、梨乃は真冬に寄り添いながら絵を描いている。

時折、過去の記憶がちらりと頭をよぎる。


──私、誰を……愛していたんだろう……


しかしその記憶は、まるで霧の向こうで揺れる影のように、はっきりとは見えない。

その曖昧さの中で、梨乃は迷いながらも真冬の手を握りしめる。

──今、ここにある温もりが、私の幸せ……


蓮は少し離れた場所で、静かにそれを見守る。

胸の痛みは増すが、言葉をかけることはできない。

──彼女の幸せを壊してはいけない……


夕方、アトリエの外で、秋の冷たい風が吹き抜ける。

窓越しに見える二人の影。

梨乃は真冬の胸に頭を預け、安心した表情を浮かべている。

結香は影の隅で、罪悪感と切なさを抱えながら立っていた。


──愛は、優しさか、執着か。

梨乃は今、選んだ。

その温もりを、誰のものとして受け取るかを。


夜、アトリエの灯りが消えた後も、三人の心は微妙に揺れていた。

蓮は胸の痛みを抱えつつ、静かに誓う。

(……俺は、どんな形でも梨乃を見守る)

その想いは、秋の夜空に溶けていく星のように、静かに輝いていた。

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