第8話 秋風のアトリエ、遠ざかる記憶

夏の名残を残す初秋の風が、アトリエのカーテンをそっと揺らす。

蝉の声は途絶え、代わりに木々の葉擦れが静かな旋律を奏でる。


蓮は静かに、梨乃との距離を置き始めていた。

それは、彼自身が選んだ決断であり、愛の形を見つめ直すための苦渋の選択だった。


「……朝倉さん?」

梨乃の声が、少し寂しげに響く。


「ごめん、梨乃。今は少し距離を置きたいんだ」

蓮は胸の奥で痛みを感じながら、視線を逸らす。

「俺は……君を見守りたい。でも、踏み込みすぎるのは、今は良くない」


梨乃は静かに頷き、少しだけ寂しそうに笑った。

「分かりました……朝倉さんがそう決めたなら」


そのやり取りを、窓際で静かに見つめる結香。

彼女の瞳はどこか痛みを帯びている。

──二人を止められない罪悪感。

梨乃と真冬の関係が深まるのを、結香はただ静かに見守るしかない。


一方、真冬は梨乃に対して、これまで以上の優しさと執着を見せ始める。

「梨乃さん、無理はしないでくださいね」

その言葉には、研究者としての理性だけでなく、個人的な感情が滲み出ていた。


梨乃はその温もりに、心地よい安堵を覚える。

(……真冬さんといると、安心する)

蓮との距離を感じながらも、真冬の腕の中で感じる安心感が、梨乃の心を満たす。


秋の午後、アトリエの光が柔らかく差し込み、三人の影を長く伸ばす。

蓮は一歩離れて見守るが、胸の奥で小さな焦りがくすぶる。

──俺はこの距離で本当に正しいのか?

でも、梨乃の幸福を壊したくない――その一心で、蓮は自分の感情を押し殺す。


夕方、梨乃は軽く咳をし、真冬に寄り添う。

「……ごめんなさい、無理させて」

「大丈夫です。僕がそばにいます」

その微笑みに、梨乃は頷くしかなかった。


蓮はその様子を背中越しに見つめる。

胸の奥に痛みが走る。

──俺の居場所はもう、ここにはないのかもしれない。


夜、アトリエの窓から月明かりが差し込む。

梨乃は真冬の膝に頭をもたせかけ、静かに眠っている。

結香は少し離れた場所で、胸に手を当てながら黙って見守る。

──二人の幸せを、私は止められない……


蓮は外で静かに立ち、雨上がりの涼しい夜風に吹かれる。

街灯の光が濡れたアスファルトに反射し、長い影を作る。

心の中で小さく息をつき、蓮は決意する。


(……今は我慢するしかない。

 でも、俺の想いは決して消えない)


翌日。アトリエには秋の光が柔らかく差し込み、梨乃は少しずつ絵筆を握る。

だが、その表情には微かな迷いが混ざっていた。


記憶の断片が、ちらりと頭をかすめる。

──私、昔は誰を愛していたんだろう……

その問いの先に、ぼんやりと浮かぶ顔がある。

しかし、瞳や表情は霞んで、はっきりとは思い出せない。


「梨乃?」

真冬の声に、彼女は小さく息をつく。

「……大丈夫です。ちょっと、考え事してただけ」


真冬は微笑み、優しく彼女の肩に手を置く。

その温もりに、梨乃は自然と身を預ける。

(……今、この人のそばにいる自分が、本当に幸せ……)


蓮はその様子を遠くから見つめる。

胸の奥で何かが崩れる感覚。

──思い出よりも、今の温もりを選んでしまった梨乃。

でも、幸せそうなら、それでいい――そんな自分と、痛みを感じる自分が交錯する。


秋の夜は深く、アトリエの灯りだけが静かに二人を照らす。

梨乃の頭上には柔らかい光が差し、真冬の手は離れない。

結香はその隣で、心の中に罪悪感を抱えながらも、二人を見守る。


──愛は、優しさか、執着か。

梨乃は今、選んだ。

その温もりを、誰のものとして受け取るかを。


蓮は静かに深呼吸し、夜風に吹かれながら誓う。

(……俺は、どんな形でも梨乃を見守る)

胸の痛みを抱えつつ、秋の夜が静かに流れていった。

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