第11話【母の洞察と、非効率という名の愛】

その時、製麺室の奥から湯気の暖かさに溶け込んだような女性の声が聞こえてきた。


???:「ユイ!どうしたの、そんなに真剣な顔をして。何を相談しているの?」


厨房の扉がガラリと開き、ユイそっくりの優しい表情の女性が現れた。ユイよりも少し背が低く、エプロンの紐が腰でほどけかけているのを気にする様子もない。その存在感は、長年煮込まれたスープのように深く、すべてを包み込む温かさに満ちていた。


ユイ:「あ、お母さん!ちょうどいいタイミングだよ!この二人がウチのラーメンを研究してくれているんだ。こちらがハルキくん、こっちはリオちゃん!」


女性は目を細め、愛想の良い笑顔で俺たちを見た——が、その視線には、一瞬だけ鋭い観察の光が宿っていた。


母:「ようこそ、ふじさき食堂へ。私はユイの母、藤咲サキです。」


俺とリオは思わず背筋を伸ばし、反射的に敬礼のような姿勢で頭を下げた。


「ユイさんと同じクラスのの早川ハルキです。現在、貴店のラーメンの調律理論を研究しています。」


リオ:「同じく、ハルキ君のシステム監視と情動データ分析担当の神園リオです。よろしくお願いします。」


あまりにも堅苦しい俺たちの挨拶に、サキさんはフフッと笑った。


サキ:「あはは、ありがとうございます。ユイから噂は聞いてるわ。 二人とも本当に立派だこと。最近の子は賢いのね。」


彼女は自然な動作でカウンターに手をつき、俺たちの目線に合わせるように少し身を屈めた。


サキ:「ユイもいいお友達ができて良かったわ。この子は勉強は全くダメなんだけど、ラーメン作りだけは本当に才能があるのよ。この子は理屈ではなく、味の『気持ち』が分かるんだから。」


リオが、タブレットに視線を落としたまま呟いた。

リオ:「才能……つまり、論理化されていない経験則の集積による成果ね。非効率で、再現性には欠けるわ。」


俺も、無意識に頷いていた。


「その通りだ。効率化できない情動は、いずれ破綻する。だからこそ、論理で補強する必要がある。」


サキさんは、俺たちの言葉を黙って聞いていた。その表情は、温かいままだったが——どこか、寂しげにも見えた。


(才能……だと? いや、リオの言う通り、それは単なる非効率の集積かもしれない。でも……)


俺はまたしても論理の枠組みを超える言葉に、

微かな違和感を覚えていた。

サキさんは、ユイの頭を優しく撫でた。ユイは少し照れたように笑っている。


サキ:「ハルキくんの賢い頭で、その『気持ち』を解き明かしてあげてね。……あ、そうだ。せっかくだから、お茶でも飲んでいかない?」


「いえ、お気遣いなく——」


サキ:「遠慮しないで。ユイ、お茶入れてきて。」


ユイ:「はーい!」


ユイが奥の休憩室に消えると、サキさんの表情が少しだけ変わった。温かい笑顔はそのままだが、その瞳に——深い疲労の影が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。


サキ:「……ハルキくん、リオちゃん。実はね、今日二人に会えたのは、本当にタイミングが良かったの。」


彼女は湯呑みを三つ、カウンターに並べ始めた。その手が、ほんの一瞬、震えた。

サキさんは、それを隠すようにすぐ腰に手を当て、小さく息をついた。


サキ:「この店、今までは私とユイ、それにもう一人、マキちゃんっていうアルバイトの子と三人で回してたんだけど……そのマキちゃんが昨日、急に体調を崩しちゃって。検査入院することになったの。」


「それは……大変ですね。」


サキ:「ええ。本当に突然で。」


彼女は少しだけ目を伏せた。その横顔に、深い疲労が刻まれているのが見えた。


サキ:「それでね、今はユイと私の二人だけで……正直、きついのよ。」


その言葉は短かったが、彼女の疲労の深さを物語っていた。同時に彼女は湯呑みを棚から取ろうとして、指を少し滑らせた。

それを誤魔化すように笑ったが、爪の付け根は赤くひび割れていた。


リオが、タブレットを握る手に力を込めた。


リオ:「……ユイさんは、無理をしていたんですか?」


サキさんは、静かに頷いた。


サキ:「この子、無理してても笑ってるから。気づいたときには手遅れになりそうで……」


(そうか……ユイが、あんなに自然に笑っていたのは……)


サキさんは、俺の目をまっすぐ見つめた。

サキ:「ハルキくん。さっき、ユイのラーメンを『再現したい』って言ってたわね。」


「……はい。」


サキ:「じゃあ、お願いがあるの。」


彼女は深く、頭を下げた。


サキ:「ウチで働いてくれないかしら。ラーメンの研究兼ねて、アルバイトとして。」


俺は息を呑んだ。


サキ:「時給は1100円。平日は学校が終わってから、夕方4時から8時まで。土日は朝の仕込みから手伝ってもらえたら助かるわ。もちろん高校生だから、無理のない範囲でね。」


彼女は顔を上げ、俺を見つめた。


サキ:「最初は皿洗いと仕込み補助からになるけど、もちろん、ユイのラーメン作りも間近で見られるわ。」


「……」


サキ:「ユイのラーメンはね、あなた達が言う『非効率』が調味料なんだ。無駄な動きや時間、それが全部温もりになる。でも、このままではユイは、その温もりを理屈で説明できずに、いつか身体を壊してしまう。」


彼女の声には、母親としての切実さが滲んでいた。


サキ:「お願い。ハルキくんの賢い論理で、この店の非効率な温もりを理屈で安定させてもらえないかしら?ユイの『才能』を『技術』にしてあげてほしいの。そうすれば、この子が倒れずに済む。」


その言葉は、俺の理性に突き刺さった。


(俺の目的は、ユイのラーメンを解析し、再現することだった。しかし、目の前のサキさんは、俺の論理を、娘の情動(才能)を救うための道具として利用してほしいと、純粋な愛情を込めてスカウトしてきたのだ。)


リオ(タブレットに向かって小声で):「論理的解析完了。対象:ユイの母、藤咲サキ。感情パラメータ:極めて高次元の安定。情動のコアでありながら、論理的な『人材確保』という戦略を実行。これは……」


AIRA(リオのスマホから):『警告! 最終試練がハルキ様をスカウト!リオ様の生存確率、20%に低下!ハルキ様、このバイトは非効率です!すぐに辞退を!』


リオ(スマホを掴んで小声で):「うるさい! 私は冷静に分析するわ。感情的になんか……」


俺は口を開きかけて——止まった。


(バイト? 俺が? 非効率の渦中に身を置くということか……)


頭の中で、さっき自分が言った言葉が反響した。


『効率化できない情動は、いずれ破綻する——』


でも、次の瞬間、自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。


「……分かりました。サキさん。明日から、この店で働きます。」


(あれ……俺、迷わなかった……?)


サキさんの目が、少しだけ潤んだ。


サキ:「本当に? ありがとう、ハルキくん。」


「ただし、一つ質問させてください。」


サキ:「なあに?」


俺は、自分でも意外な言葉を口にしていた。


「なぜ、俺を選んだんですか? 俺は、ラーメン作りの経験なんてない。普通なら、経験者を雇う方が合理的なはずです。」


サキさんは、優しく微笑んだ。


サキ:「さっき、ハルキくんがユイの麺を食べた時の顔を見たの。」


「……顔?」


サキ:「ええ。あなた、ニヤッとしてたでしょ? あれは、『美味しい』じゃなくて、『分かった』って顔だった。」


俺は、ハッとした。


サキ:「理屈で分かって、心で嬉しくなって、それを隠そうとしなかった。そういう人なら、ユイの『才能』を壊さずに、『技術』にしてくれると思ったの。」


(俺の、あの無防備な笑顔を……見抜かれていたのか。)


その時、リオが静かに口を開いた。


リオ:「……藤咲さん。申し訳ありませんが、私はバイトはお断りします。」


サキさんと俺は、同時にリオを見た。


リオ:「私には、医学サークルでの実験があります。平日の放課後は、ほぼ毎日そちらに時間を取られるので、アルバイトをする余裕はありません。」


彼女は、タブレットを握りしめながら続けた。


リオ:「それに、私の役割は『観察と分析』です。ハルキが現場でデータを取得し、私がそれを解析する。その分業体制の方が、論理的に効率的ですから。」


AIRA:『正しい判断です、リオ様! 非効率な環境に身を置く必要はありません!』


リオ:「だから、私は時々、客として通い続けます。ハルキの活動を外部から監視し、必要なデータを収集する。それが、私の最適な立ち位置です。」


サキさんは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


サキ:「そう……残念だけど、無理は言えないわね。医学なんて……リオちゃんは頭がいい子だから、きっと忙しいんでしょうね。」


リオ:「……はい。」


(リオ……お前、本当にそれでいいのか?)


俺は、リオの横顔を見た。彼女は、タブレットの画面を見つめたまま、何も言わなかった。

その時、ユイが湯呑みを三つ載せたお盆を持って戻ってきた。


ユイ:「お待たせー! はい、お母さんの特製ほうじ茶だよ!」


彼女は俺たちの前にお茶を置き、自分も座った。


ユイ:「……あれ? なんか、みんな真剣な顔してるけど、どうしたの?」


サキさんは、娘の顔を見て、優しく微笑んだ。


サキ:「ユイ、良いお知らせよ。ハルキくんが、ウチで働いてくれることになったの。」


ユイは、一瞬、きょとんとした顔をした。それから——顔全体がパァッと明るくなった。


ユイ:「ほんと!? ハルキくん、うちで働いてくれるの!?」


彼女は嬉しそうに手を叩いた——が、その動作の直後、ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けた。まるで、ずっと張り詰めていた何かが、ようやく緩んだように。


ユイ:「やった! じゃあ、明日から一緒に仕込みできるね!」


(ユイ……お前、本当に限界だったのか……)


ユイは、リオの方を向いた。


ユイ:「リオちゃんも一緒に働いてくれるの?」

リオは、少しだけ視線を逸らした。


リオ:「……いえ。私は研究があるので。客として、観察を続けます。」


ユイ:「そっかぁ……残念だなぁ。リオちゃんとも一緒に働きたかったのに。」


リオ:「……すみません。」


AIRA:『リオ様、心拍数が上昇しています。敬語を使ったストレス値も——』


リオ(小声で):「黙りなさい。」


湯呑みの湯気がリオの眼鏡を曇らせた。

彼女はそれを拭おうとせず、そのまま視線を落とした。


サキさんは、娘の嬉しそうな顔を見て、優しく微笑んだ。


サキ:「ユイ、ハルキくんに無理させちゃダメよ。最初はゆっくり教えてあげてね。」


ユイ:「うん! 任せて! ハルキくん、明日楽しみにしててね!」


俺は、ユイの笑顔を見て、自分の決断が間違っていなかったと確信した。


(この店で、俺は論理を完成させる。非効率な情動の真ん中に身を置くことで、俺の『温かい記憶の論理』を完全に身体に刻み込むのだ。)


サキさんは店の奥から、まっさらな白いエプロンを取り出した。


サキ:「じゃあ、これがハルキくんの制服ね。明日は土曜日だから、朝9時に来てちょうだい。仕込みから参加してもらうわ。」


俺はエプロンを受け取った。その布の重みに——なぜか、母の手の温もりを思い出した。


「……よろしくお願いします。」


サキさんは、俺の目を見つめた。


サキ:「こちらこそ。ハルキくん、あなたは『再現』のために来たんでしょうけど、もしかしたら、それ以上のものが見つかるかもしれないわよ。」


「……それ以上?」


サキさんは、意味深に微笑んだ。

サキ:「それは、明日になれば分かるわ。」


——


店を出る時、ユイが手を振っている。


ユイ:「ハルキ君、明日朝7時にちょっとでいいから、スープの仕込みだけ顔出してね!」


「わかった」(はえーな……)


リオは無言でタブレットを操作している。AIRAは何か言っているが、もう聞こえなかった。

俺の手には、白いエプロン。明日から、俺は『作る側』になる。


(論理だけではない、汗と時間と温もりの中に飛び込むんだ。)


夕暮れの街を歩きながら、俺はふと気づいた。


(俺……本当に迷わなかった……非効率なバイトを、即答で受け入れた……?)


いつの間にか、俺は——論理を捨てるのではなく、情動と共に歩むことを、自然に選んでいた。


リオが、隣で小さく呟いた。


リオ:「……ハルキ。あなた、変わったわね……」


「……そうか?」

リオ:「ええ。昔のあなたなら、『バイトは時間の無駄』って即座に断ってたわ。」


「……そうだな。」


リオは、少しだけ複雑そうに微笑んだ。


リオ:「でも、今のあなたの方が……」


彼女は、ほんの一拍、言葉を飲み込んだ。

夕暮れの風が、二人の間を通り過ぎる。


リオ:「……なんでもないわ。明日、頑張りなさい。私は外から観察してるから。」


その言葉には、何か引っかかるものがあった。でも、俺は何も言えなかった。

ただ、手の中のエプロンを、少しだけ強く握りしめた。

リオのスマホから、AIRAの声が小さく響いた。


AIRA:『リオ様……本当にこれで良かったんですか?ハルキ様とユイ様が、二人きりで……』


リオ(小声で):「……うるさい。これが、論理的に正しい選択なんだから。」


でも、彼女の握りしめたタブレットの画面には——ユイとハルキが並んで笑っている姿のデータが、まだ表示されたままだった。


リオは、その画面を消さなかった。消せなかったのかもしれない。


——


翌朝6:50。まだ暗い商店街。

制服の上にエプロンをつけた俺は、自転車でフラフラだった。


「……朝7時集合って、マジで死ぬ……

 昨日23時にやっと寝たのに……」


ふじさき食堂のシャッター前で、

ユイが信じられないほど元気に手を振ってきた。


ユイ:「おはよー! ハルキくん、早いね!」


「俺、土曜補講サボってここに来てる……

 担任に殺される……」


ユイ(満面の笑み):「大丈夫! スープ炊いてる間、寝袋で寝てていいよ!」


「それ……俺は何しに来たんだよ……」


ユイ(本気で不思議そう):「え?

スープの香り嗅ぎながら寝ると、夢の中で味が分かるようになるんだよ!」


(俺の論理、壊れた……

 いや、壊された……

 でも……悪くないのがムカつく……)


その時、まだ暗い通りの角から

一台の自転車がゆっくり近づいてきた。


リオだった。


俺たちを見つけると、

慌ててブレーキを握り、キィッと止まった。


リオ:「……あ。」


「……リオ?」


ユイ:「リオちゃん! おはよー!」


リオはタブレットを抱えたまま、

一瞬だけ言葉を失って立ち尽くしていた。

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