最終話「橘桐子の涙 〜赤く染まる雨粒〜」

刑務所の鉄門が鈍い音を立てて閉まった。


「もう、戻ってくるなよ」


 看守の声は事務的だったが、橘桐子(たちばな・きりこ)には胸のどこかを刺すように響いた。


「お世話になりました……」


 ぺこりと頭を下げる。

しかし、振り返った桐子の瞳には、礼儀とは真逆の色——

憎悪の涙がうっすらと滲んでいた。


____


桐子が初めて世界に裏切られたのは、生まれた時からだった。


父はいない。母は家にいない。

母の香水だけが部屋に残り、夜の匂いと混ざり合って、幼い桐子の胸をむしばんだ。


_愛してほしい。

けれど、愛される方法を知らない。


桐子にとって小学校の裏庭の池は、唯一の逃げ場だった。


その背後から声がした。


「たちばなさん? だっけ?」


振り返ると、太陽のように明るい笑顔の少女が立っていた。


「私は徳実。八木徳実! 友達にならない?」


 桐子は困惑したが、胸の奥が熱くなった。


「……うん」


その日から、桐子の世界には“光”が差した。

だが、あれは光ではなかった。

後から思えば、炎だった。


____


ある日、「ねー!文房具屋さんに寄って帰ろうよ!」と徳実が提案した。


お店の中にはかわいいペンやノートがたくさん並んでいた。


「このペン可愛いー!」徳実がブタのペンを手に取った。「ねー!このペン。私たちのおそろいにしようよ。友情の証。ね!」


桐子が「お金がない」と言うと、徳実は迷いなく盗んだ。


「約束破ったら裏切り者ね」


その言葉は、優しい声色のまま、刃のように鋭かった。


桐子は胸の中にざらつく違和感を覚えたが、

その違和感こそ、生きている実感だった。


気づけば彼女は、徳実なしでは息ができないほど依存していた。


____


中学生になると、二人の関係はますます歪んでいった。


「ねぇ桐子、美波ってムカつかない?」


「……うん。調子乗ってるよね」


クラスメイトである美波の自然な才能、誰にでも向けられる優しさ。

それらはすべて、徳実が憎悪の対象として並べたコレクションだった。


桐子は生きるために、徳実の世界の“色”を共有し続けた。


____


ある日、徳実は言った。


「担任の飛永と付き合ってるんだー。最高っしょ?

 でも誰にも言わないでね。裏切り者は許さないから」


その数時間後、桐子の携帯に飛永からのメッセージが届いた。


そう、桐子も飛永と関係を持っていた。


密会。

車の中。

ホテルの薄暗い部屋。

桐子は“女”として抱きしめられるたび、自分がここに存在していることを確かめた。


“徳実に秘密で奪っている優越感”。

それは腐った果実のように甘く、危険だった。


だが、飛永が複数の女子生徒との不祥事で辞職すると、桐子の胸には空洞だけが残った。


“母みたいだ。女を捨てられない男に溺れる女。”

そう思うと、生きる意味がまた分からなくなった。


____


中学を卒業すると、桐子は中洲で年齢を偽りホステスとなった。

徳実は「歌手になる」と言って消えた。


正直、ずっと一緒にいた徳実がウザいと思い始めていた。

ようやく自由になれる——桐子はそう思った。


しかし、時間は残酷だ。

二人は再び繋がる。


ある時、中洲を歩いていると声をかけられた。

聞き覚えある声だった。


「桐子じゃん!」


振り返るとそれは徳実だった。

過去がよみがえった。過去に連れ戻されるようで変に嫌な気持ちになった。


いくつか話をするうちに、

「えー!あたしも桐子と同じところでホステスやりたい!」と言いだした。


言い訳をして断ろうとしたが、

「あたし達親友だよね?なに、あたしのことが嫌いなの?どーなってもいいの?」と脅しをかけてきた。


渋々、オーナーに相談をして徳実をホステスとして迎えることになった。


徳実は喜んだが、仕事ぶりはめちゃくちゃだった。傲慢な態度ゆえ、客離れ、クレームが頻繁に起きるようになった。


その度に桐子は客や店に気を使うようになっていた。

「申し訳ありません。」


ある時、徳実がしばらく休みを取った。

その間は平穏な時間が流れていた。


数日後、再び現れた徳実は、身体中を整形しており別人になっていた。


「どう?めっちゃ美しくなったと思わない?あたし、これから"リサ"として生きていくことにする!あ、でもリサになっても桐子との絆は永遠だよ」とウインクした。


____


ある時、徳実が激昂していた。

「ねぇ、中学の時の美波ってクソ女覚えてる?」


桐子は、あまり記憶になかった。

そんな子いたような、いなかったような…。


「あたし、歌手もしてるじゃん?美波のやつもイケメン騙して"carrot"っていうバンドをやってるのよ。メジャーデビューも決まってるみたいで、アイツめっちゃ調子乗っててムカつくんだわ。懲らしめてもいいよね?」


桐子は正直、自分には関係ない話だと思い「うん、懲らしめちゃえ!」と適当に返した。


数日後、徳実は、美波やその仲間達に悪事が全てバレたのかイライラしていた。


「ねー、桐子、今度はあんたが美波を懲らしめてきてよ。」


「え?あたしが?どうして?」


「桐子、昔から四柱推命とかタロット占いとか得意じゃん?美波のバイト先のシェフ、めっちゃ他人に影響されそうなバカそうな女なんだよね。桐子が占い師のフリをして、その女を騙して、美波をクビにさせるってのはどう?ついでにさ、そのシェフから有金、吸い取れるだけ取ってあたし達のお小遣いにしようよ!ね?」


徳実の目はギラギラと殺気だっていた。


桐子は、そんなバカな話…と思いつつ、

「うん。。わかった。」と返事をした。


後日、黒いベールをまとい、マナカキッチンを訪れた。扉を開けるとシェフのマナカが厨房で1人何やら試行錯誤をしている様子だった。


「ごめんなさい、ランチの時間はもう終わってまして、飲み物しかお出しできませんが?」とマナカがお詫びをいれる。


「構いません、それより、このお店からただならぬ"気"を感じましてね」

桐子は、占い師であることをマナカに告げた。

もちろん、偽名の「クンナ」という名を使って。


マナカは、徳実の言うように本当にバカな女だった。


「クンナさん、ただならぬ"気"ってなんですか?」マナカが尋ねる。


「それは私も職業として占っておりますので、鑑定料が必要になります。初回ですので、2万円でよろしければ」


「払います!」マナカは即答した。


それから、マナカは私の言いなりだった。

占いというよりも、クンナ信教の信者の域に達しているマナカ。「お布施」として、多額の金をクンナに手渡した。


しばらくして、店に従業員と名乗る美波が現れた。


「…あ!コイツが美波か。中学にいたかも。相変わらず綺麗だわ。徳実が嫌ってるのも納得…」

と心の中で思った。


美波は当たり前に、マナカを制止する。


マナカはいい金蔓だった。美波は邪魔だったので言った。


「美波さん、あなた自身がこの店の邪気なの!出ていきなさい!」そして塩をまいた。


マナカはそれを信じ、美波を追い出した。


マナカからの"お布施"は、徳実と山分けした。


「さすが、クンナ先生!」とニヤつく徳実。

「ちょっとやめてよ。あたしはあくまで桐子だよ。」


____


マナカキッチン。

マナカはすっかり桐子の支配下にある。


そんなある日、マナカキッチンの扉が大きく開いた。

タカシと名乗る見知らぬ男だった。


その後ろには美波のほかに数名の人間が立っていた。


タカシは真っ直ぐクンナを指さす。

「クンナ……いや、桐子。あんた、占い師でもなんでもない。徳実の知り合い、中洲のホステスだろ!」


「は?何言ってるの?私は——占い師よ」


タカシは封筒を机に叩きつける。

「これでもまだ言い張るのか?徳実と話してた録音と写真、証拠は全部ここにある」


「マナカさん、これが真実だ」タカシが言う。「ずっとこの女に騙されてたんだよ」


マナカは震える声で尋ねる。

「……クンナさん、これは本当なの?」


「——あはは。あんた、バカ?全部嘘よ。どんだけ人の言葉に流されるの? バカな女ね」


マナカの頬が青ざめる。

「私……私はいったい何のために……」


「ペテン師の桐子!」タカシが怒鳴る。「これは詐欺だ。絶対許さねぇ。警察に突き出すからな。法廷で会おうぜ」


「ふん。私は徳実に言われてやっただけ! 騙されたこの女が悪いのよ!」

桐子は吐き捨てるように言い残し、扉を蹴って店を出た。

外に出た桐子は、即座に徳実に電話をかけた。

「ちょっと徳実!全部バレたわよ!詐欺で訴えるって!どうするの!?」


『は?何言ってるの?私は何も知らないし関係ない。全部あんた1人でやったことでしょ?それに“親友”だったっけ、私たち? もう二度と関わらないでね。サヨウナラ』


通話が切れる。

「う、うそでしょ……」


徳実に裏切られた。


____


その後、桐子は詐欺容疑で逮捕され、有罪となり収容された。徳実は何の力を使ったのか分からないがお咎めなしだった。


収容の間、桐子はひたすら憎み続けた。

あの、裏切り者の徳実。

復讐。

それだけのために桐子はこの地獄を耐え抜いた。


____


雨の中洲。

徳実——いや、“リサ”は赤い傘をさして歩いていた。


「また、美味しいお店連れてってくださいね♡」


電話越しの甘い声。

桐子には、それが何よりの侮辱に聞こえた。


「徳実ーーーー!!!!」


雨音を切り裂く叫びに、リサは振り返った。


「あなた誰? 私はリサよ。近寄らないで——」

徳実は、ツンと突き放した。


「うるさい!徳実!あたしは、この時を待ってた!」


そう言って、ポーチの中からナイフを取り出した。


徳実は、震えながらも「ふん、そんな、おどしたってね、あたしには関係ないんだから。消えて」とそう言った瞬間。



桐子の手に握られた刃が、

雨粒ごと、空気を裂いた。


大雨が、ゆっくりと——

真っ赤に染まった。


徳実の白い首筋がぱっくりと割れ、

赤い雨粒が弧を描いて落ちていく。


"雨粒のあまね"は、その光景を見て、不敵に微笑んだ。


叫び声が飛び交う中、桐子は徳実の体を抱き寄せた。


「ざまあみろ……」


そして、ナイフの冷たい刃を自分の首元へ向け、静かに引いた。


二つの身体が、赤い雨と共に倒れた。


赤と雨。

涙と血。


——あたしたち、

ずっと親友だよね、徳実。


桐子の最後の涙は雨に混ざり、音もなく消えた。


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雨粒のあまねちゃん―それぞれの涙― 羽犬塚 聡 @Hainuzuka

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