第3話「田代正勝の涙 〜実らぬ、初恋〜」

ロシータ――それが今の名前。

美容系インフルエンサーとして、テレビやSNSを賑わせる存在。

派手な衣装と完璧なメイク。だが、その奥には、誰にも見せない「涙の跡」がある。


とある番組収録。

司会の女性タレントが笑顔で尋ねる。


「ロシータさん、初恋の相手はどんな方でした?」


彼女は、口角を上げてウインクを飛ばす。

「あたしの過去はデリート済み!そう、未来しか興味ないのよー」


スタジオは笑いに包まれた。

だが、収録が終わり、楽屋に戻ると、ロシータはひとり静かにタンブラーを手にした。

ラインストーンがきらめく蓋を開け、水素水をひと口。


「初恋か……」


窓の外では、静かに雨が降りはじめていた。

ロシータの肩に、透明な一滴が落ちる。

――それは“雨粒のあまね”が、そっとロシータの涙に寄り添った瞬間だった。


「ねえ、ロシータ。あなたの涙は、ちゃんと生きてるよ」

誰にも聞こえない声で、あまねは囁いた。



話は過去へと遡る。

――あの頃、私はまだ“田代正勝”だった。


中学生一年の春。

両親は離婚し、私は祖母と二人暮らしになった。

祖母は化粧品メーカーの販売員をしており、鏡の前で笑顔をつくることが日課だった。

「笑顔も化粧のひとつよ」と言って、私にも口紅を塗ってくれたことがある。


その頃からだ。

私は「美しいもの」に心を惹かれるようになった。

同時に、自分の恋愛の矢印が、他の男子とは少し違う方向を向いていることにも気づいていた。


だが、現実は冷酷だった。


「おい、ホモ野郎!」

「触ったらホモがうつるぞ!」


教室中に飛び交う悪意。

私はいつもひとりだった。

死にたいとは思わなかったが、「この世から消えてしまいたい」とは何度も思った。


そんなある日、クラスの席替えがあった。

私の前の席に、ひとりの男子が座った。

くるりと振り返り、言った。


「ごめん、今日、筆箱忘れたんだ。鉛筆貸してくんない?」


その瞬間、胸の中に何か温かいものが灯った。

彼の名前は――仲田ケイジ。


それからというもの、彼はよく話しかけてくるようになった。

「お前、どこの携帯使ってんの?」

「あの新曲、マジで神。おれ、ギターやってんだ」


その言葉に、私は初めて“人とつながっている”という感覚を覚えた。

ケイジと話すと、心が柔らかくなる。

彼が教室にいるだけで、世界が少しだけ優しく見えた。


いじめの主犯が、ある日ケイジに言った。

「おい、そいつとつるむのやめろよ。ホモがうつるぞ」


ケイジは、ふっと笑って言った。

「ホモって病気なん?知らんけど、正勝はいいやつだから好きだぜ」


その一言に、私はトイレの個室で泣いた。

嗚咽が止まらなかった。

誰かに“肯定された”のは、生まれて初めてだった。



だが、幸せは長くは続かない。

ケイジが転校するという噂を聞いた。

頭が真っ白になった。

世界の色が、また灰色に戻っていく気がした。


部屋で泣いていると、祖母がそっと入ってきた。

「何に泣いてるのかは聞かないよ。でもね、やって後悔した方が、きっと先で正解になる。しなかった後悔は、一生残るからね」


祖母のその言葉を胸に、私は手紙を書いた。

「ずっと、好きでした」と。


次の日、私はその手紙をケイジの下駄箱に入れた。


翌日、彼は声をかけてきた。

「帰り、ちょっと歩こうぜ」


夕暮れの公園。

ケイジは言った。


「俺、女の子が好きなんだ。だから正勝の“好き”には応えられない。でも、お前と友達でいられたの、嬉しかったよ。ありがとうな」


気丈に笑って「うん」と答えた。

でも、家に帰ってからは布団をかぶって泣いた。

胸の奥がぎゅっと締めつけられるように痛かった。

これが“恋”というものかと、初めて知った。


ケイジの引っ越しの日。

私は見送りに行かなかった。

「行けば、泣いてしまう」と思ったから。


涙は、静かに地面に落ちて、ひと粒の雨になった。

――あまねは、それを拾い上げ、空へと返した。

「この涙は、あなたが愛した証。忘れなくていいんだよ」と。



それから何年も経ち、私は“ロシータ”になった。

名前を変え、姿を変え、誰も知らない場所で生きていく。

祖母から受け継いだ「美」の力を武器に。

世界中の人を笑顔にするのが、今の私の仕事だ。


もう恋はしない。

泣くこともない。

――そう決めている。


でも、ときどき鏡の前で、ふと想う。

あの公園の夕暮れ。

ギターの音。

そして、「好きだぜ」と笑った少年の声。


ロシータの頬を、一粒の雨が伝う。

その涙に、あまねが微笑みながら囁く。


それが、私の中でいまも光る、

“消せない涙の粒”なのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る