荻野沙月・不倫相手の妻

 「奥さん、なんて言うかな。私たちのこと知ったら。」

 ベッドの中で、不倫相手にそんなことを言ってみるのは、本気で関係を壊したいわけじゃなくて、単なるじゃれつき。いっそ後戯の一部。

 本気でそう思っていた。本気で。自分の平静だった気持ちが、どんなふうに乱れていくかなんて、一切想像もしないで。だから私はそのときはまだ、無邪気だったし、不倫関係なんかに真剣じゃなかったのかもしれない。その均衡が崩れたのは、当の不倫相手が低く笑いながら、軽く首を傾げたせいだった。

 「妻ならなにも言わないんじゃないかな。感情を表に出すたちではないし、口うるさいたちでもないから。」

 土曜日の昼下がりだった。いつものホテルの一室で、私は裸でまだベッドの中にいた。彼は隣で上体を起こして、私の髪をゆるゆると撫でていた。なにも真剣じゃない、曖昧ないいとこどりの関係の中でも、一番いい瞬間に、私はいたことになる。心地よい眠気にとろとろと半分ふさがりかけていた目が、彼のその言葉を聞いた瞬間、くっきりと開いた。自分でも分かるくらい、私の表情は豹変していたはずだ。それでも彼は、全然動じないで、私の髪に指をしずめている。

 どうやって、土曜日の昼なんていう時間に奥さんを誤魔化して家を出て来たのか。彼は土曜日も日曜日も、私と過ごすことすらあった。だからといって、私に本気だとか、奥さんとは別れるつもりだとか、そんなこともまるでない。私は彼のことをまるで掴めなかった。だから、強がったのかもしれない。なにも真剣じゃない、そもそも彼を掴もうなんてしていない、と。

 「……つまんない。そんなひとじゃ。」

 「なにがつまらないの?」

 「張り合いがないわ。」

 自分でも、自分がどこまで本気で言っているのか分からなかった。不倫に張り合いなんて求めているのかしら、本気で。

 「妻はそういう人間だからね。張り合いを提供できなくて申し訳ないよ。」

 彼も、どこまで本気だかまるで分らない言葉を吐く。私の髪を弄る手はどこまでもやさしい。やさしいけれど、そこに愛情がこもっているわけじゃないことくらい、私にだって分かっている。

 張り合いがないのは、奥さんじゃなくて、彼本人かもしれない。

 そう思ったのは確かなのに、私はその瞬間から、髪を撫でる彼の手を手放したくないと、なにがあっても手放してやるもんかと、頭に血が上ったみたいになってしまったのだ。

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