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綾女さんは、僕をリビングに連れて入ると、すぐに紅茶を淹れて持ってきてくれた。かつて、母とともにこの部屋に通されていた頃、僕に出されていたのは必ずジュースだったから、なんだか大人扱いされているような、むず痒い気分になったのを今でもよく覚えている。綾女さんは静かに微笑んでいて、部屋の中はしんと静かで涼しく、図書館か美術館の中にいるみたいな感じがした。
「娘は今出かけてるの。」
綾女さんが何気なく言って、僕は、だったら今はこの広い家の中に綾女さんと二人きりなのか、と、落ち着かなくなってしまう。綾女さんには僕より少し年上の娘さんがひとりいた。僕が母に連れられてここへ来ていた頃は、その娘さんはいつも、お稽古事かなにかに出かけていて、一度も顔を合わせたことはなかった。
「お母様は、お元気?」
綾女さんが紅茶のカップを口に運びながら囀るようにそう問いかけてきて、僕は、母はここにしばらく来ていないのだろうか、と、内心で疑問に思いながら、はい、元気です、と答えた。脳裏をよぎるのは、今よりもっと幼かった頃に目にした、抱きあう綾女さんと母のシルエットだった。
綾女さんは、作り物のように整った白い顔を微笑ませたまま、声変わりをしてるのね、と言った。
確かにその頃、僕は声変わりの真っ最中で、声がぎすぎすとしわがれてしまっていた。これを越えればちゃんと大人の声になる、と、自分でも信じられないような、酷い声をしていたのだ。けれど綾女さんは、僕の声を不快に思うどころか、いっそ好ましいとすら思っているような、明るい目の色をしていた。
その目を見て、僕にははっきりと、自分がここまでひとりでやってきた意味が分かった。僕は、綾女さんに会いたかった。どうしても、母抜きで、ひとりとひとりで。もっと言えば、ひとりの男と女で。それは僕にとっての、性の目覚めだったのだと思う。
だからといって、いきなり綾女さんに迫れるわけもない。綾女さんはすこぶるうつくしい洗練された大人の女性で、僕は体育の授業の跳び箱に失敗した擦り剥き傷が膝に残る、小学六年生だった。
「トランプをしましょうか。あなたのお母様とよくやったのよ。トランプ占い。」
綾女さんがどこからともなく取り出したトランプをテーブルに広げ、僕は彼女の指示に従ってカードを切ったり、並べたり、選んだりした。そして日が暮れる前に、綾女さんが僕を玄関まで送ってくれた。本当は彼女は、バス停まで送って行くと言ってくれたのだけれど、僕が断ったのだった。
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