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はじめてひとりで綾女さんの家を訪ねたのは。小学六年生の夏だった。学校の終わりに、ランドセルを背負ったまま、僕はひとりで綾女さんの家までバスに乗った。母に連れられて何度も通ったことのある道のりだから、どこでバスを降りればいいのか、よく分かっていた。けれど、降りるべきバス停が近づいてきても、僕はなかなか降車ボタンを押せなかった。黄色いプラスチックの玩具みたいなボタンが、なぜだか触れるのも恐ろしいもののように感じられたのだ。
そのときは、買い物袋を下げた小太りのおばさんが、僕の降りたい駅で降車ボタンを押してくれた。彼女は当然ながらごくあっさりと、日常の一部としてボタンを押した。ずんぐりした、いかにも働き者の指で。
バスの後ろの方のシートに腰掛けていた僕は、バスが停まると慌ててシートから立ち上がり、転がるようにバス停に降り立った。それなりに混んだバスは、当たり前に生活のためにバスに乗る人たちを乗せて、がたがたと遠ざかって行った。
母と綾女さんの家に行っていたときは、綾女さんが毎回バス停まで僕たちを迎えに来てくれていた。いつも、白い日傘をさして。でももちろん、今日は誰もバス停で待っていてくれるひとはいない。
僕は肩で大きく息をついて、バス停から離れて道路の端っこを歩きだした。綾女さんの家は、バス停から真っ直ぐ5分ほど歩けば見えてくる。間違えようもない道のりだった。
綾女さんの家を見るのは、久しぶりだった。確か、三年ほどのブランクがあったのだと思う。それでもあの瀟洒な洋館は、三年前と変わらずに、優美なたたずまいで高級住宅街に馴染んでいた。
濃い緑色の鉄製の門の前で、僕はインターフォンに指を置いたまま、しばらく突っ立っていた。かんかん照りの日差しが背中を炙る。一刻も早く涼しい所に入りたいような気温だったのだけれど、指先は躊躇っていた。さっき、バスの降車ボタンを押せなかったときと一緒だ。でも、今回は代りにインターフォンを押してくれるひとが現れることはない。だから僕は、こんなに暑い日なのにかじかんだみたいになった指で、ゆっくりとインターフォンを押した。
中西礼一です。
僕が躊躇いがちに名前を名乗っても、綾女さんは少しも驚いた様子を見せなかった。まるで僕が尋ねてくることを事前に電話ででも聞いていたみたいに、少し待っていてね、とだけ言って、あっさり庭へ出てきてくれた。ベージュの丈の長いワンピースを着た彼女は、三年前と少しも変わらず、あの日々の続きみたいな感じで僕を見ると、暑いわね、と、静かに微笑んだ。
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