しずかな

仰波進

短編



最後の入院は三月。


そのうちの何日目だったかは、もう佐伯には数えられなかった。


けれど、午後三時すぎ、


廊下のガラス戸を経由して、ベッドの脚元にだけ落ちる小さな四角い光の癖だけは、


毎回 微妙に違って見えた。




少しだけ黄色い日もある。


淡く、ほこりっぽい日もある。


濃いレモン色のまま、ほとんど動かない日もあった。




佐伯は、それを見ていた。




呼吸は浅い。


吸気の入口でひっそりひっかかる。


その「ひっかかり」を、


痛い、苦しい、と呼ばない。




呼べば、その言葉が勝手に意味を連れてくる。


映画の字幕が、黙っていても湧いてくるみたいに。


それを避けたかった。




たしかなことは、ただ質感。




——胸の奥が、紙やすりを軽く当てたみたいにざらつく。


——そのざらつきが、一瞬だけやわらかくなる。


——それが終わると、また少しきつい。




名前のない変化の連なり。


佐伯はそれを“見続ける側”にだけいる。


大きな意義はない。


たぶん、“そうするのが比較的ラクだった”というだけ。




看護師が点滴を替える夜、


「痛いですか」と声がして、


佐伯は、少しだけ目線を向けた。


「痛い」でも「痛くない」でもなく、


ゆっくり現れて、ゆっくり去る圧力を、


そのまま見ている。


ただ、それだけだった。




ある日の光は、ちょっとだけ青を混ぜていた。


夕方の海の底を踏んだ時に、


足裏がうっすら凍る、あの気配を薄めたような青。




“ああ、今日はそうなんだな”




と、彼は思った。


その「青」が、壁の色や天気の説明を一切持たない、


ただの“濃度”だということが、


少しおかしくて、


ほんの少し、好きだった。




翌朝、呼吸の長さが、気づかないくらい少しだけ短くなった。


そして、その短さの“輪郭”が、ふっと甘くぼやけた。




佐伯は胸の内側で、小さな独り言のようにつぶやいた。




——これは、ひとつの“終わりかた”の形なのかもしれない。




言葉というより、感想にもなりきらない、


浅い余韻の気泡みたいなもの。




やがて、息が一つ、そこで静止した。




そこには「意味」も「教訓」もなかった。


ただ、


午後三時の光の四角形が、


わずかに角度を変えて、床を静かに照らしていた。


                仰波進


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しずかな 仰波進 @aobasin

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