十六話 走らない筆



テーブル、床に散らばる紙の匂い、飛び散るインクの香り、苦くなった冷めた紅茶の香り。全部今は腹立たしかった。書いては感情に任せ丸め込み、なぜ捨てた。ゴミ箱は、紙で溢れかえっている。私は糊でくっつけたみたいに椅子から離れない。ただ、血走った目で乱暴に文字を綴ってはインクで溺らせた。

歯軋りの音、乱暴に引っ掻く万年筆の音、ティーカップを乱暴にソーサーに戻す音が響き渡る。酷い環境だった。でも、私にはそれを正せるほど余裕がなかった。だってこんなこと、初めてだ。文字が、文が書けない。ただのスランプは経験した。けれど、こんなにストレスを感じてるのは初めてだった。泣き出したい。不安定な自分に吐き気がする。彼の言葉、私の言葉がフラッシュバックしては呼吸が浅くなる。なんで、あんなこと言っちゃったんだろう。なんで、あんなこと言わせちゃったんだろう。乱暴にテーブルを叩きつけて、頭を抱えた。落ちた万年筆が原稿にインクの池を作る。

もう、どうとでもなれ。

大好きだった家に戻ってきて、こんなにしてしまう自分が心底憎い。

その時、呼び出しベルが鳴った。久しく聞く音だった。全身に電気が走るようにビクビクして、ゆっくり腰を上げた。そして、酷く乱れた髪を整えて、扉に手をかける。もしかして、フレッド?開けてみると、黒い髪を後ろに束ね、琥珀の瞳をした紳士が立っていた。フレッドじゃ、ない。それに安堵のような落胆のような気持ちになった。紳士は、どことなくフレッドに近しい雰囲気があった。茶色いスーツベストに黒いスラックス。胸ポケットには金のチェーンの懐中時計。フロックコートを身につけてるのを見て、かつてのフレッドを思い出して苦しくなった。あぁ、もう。

「ごきげんよう!お嬢さん」

紳士ははつらつとした声で言う。

「君はフレッドの奥様で間違いないかな?フレッド・スチュアート博士の」

それに眉を寄せ、思い出す。そうだ、まだ離婚していないんだった。

「えぇ」

「それは良かった!私はチャド・カール。フレッドとは学び舎で仲良くなった同胞だ。フレッドのことでね、話がしたくて」

私はフレッドの同胞チャドに聞く。

「フレッドがどうかしたのですか?」

チャドは頷く。なにか、あったの?

「フレッドがね、最近怖いくらい研究室に引きこもってて。使用人も困っててね。なにか君が知ってたりしないかなって」

私は口を噤んだ。フレッド、博士のことなんて私は分かりっこなかった。今は、知りたいとも思わない。

「知らないわ」

扉を閉めようとすると、彼は扉を押さえつけた。その強引さに腹を立てた。彼は察しているのだ、私たちのことを。

「じゃあ、君が説得してよ。フレッドに、研究室を出るように」

黙ってる私にチャドは「もう俺は疲れたよ」と泣き言を言う。そして、私の手を握って「慰めてくれる?」と冗談を言うから手を払った。

「人に隙を見せないのはいいことだけどね」

チャドは、声色を変えて言う。

「知らないのに、知りたくないからって拒絶するのは残酷だと思うよ」

まるで、私たちに起こったことを全て知ってるような口ぶりのチャドを思わず見てしまう。チャドの琥珀に映る私は不安げに瞳を揺らしている。チャドは笑って「それでは」と踵を返した。去っていく背中を私は見つめるだけ。

「知るのは、怖いのよ」

私の呟きは、街の雑踏に消された。

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