十五話 リングは語る
「何故だ」
まるで譫言のそれは、確かに私の耳に届いた。振り返ってはだめだと思った。今振り返ったら、そこにいるはずの博士が、博士ではないと知ってしまうから。でも、博士に手を引かれて顔を合わせてしまった。博士のターコイズは感情的に揺れている。何故だ、何故だと。私は目を逸らす。
「何故君は私の愛を受け入れてくれない?」
まるで、私が悪いみたいな言い方。でも博士が不器用で言葉を上手く操れないことはよく知っていた。私は博士を睨んだ。
「何故って?私たちはそういう関係じゃないからよ」
博士はそれに噛み付くように返した。
「でも私たちは婚約した!」
「えぇ!利害が一致して合理的だったからね」
いつから狂い始めたのだろう。なんで、こうなるってわからなかったのだろう。男なんて、所詮こんなもの。いや、私が悪い。博士に、普通の男性である博士に過度な期待をして利用した私が。
「そもそも俺は、君と利害が一致したとは思っていない」
絞り出すような告白に酷く腹が立った。散々、ここまでやってきて、散々婚約ごっこしてきて、なにを言い出すか。不満があったなら婚約する前に言え。
「今更なにを言い出すの!?そもそも、貴方も私と本気で婚約するつもりなんてなかったでしょう?思いついたようにプロポーズして、近くに婚約した女がいるとわかって欲情してしまっただけでしょう!?」
こんなこと、言いたいわけじゃない。博士に、ここまで良くしてくれた博士にここまで言えてしまう自分が醜い。
博士はショックを受けながら黙ってしまった。それが何よりもの答えで、堪らなく悲しかった。
どこで壊れてしまったの。
もうここにはいられないと私はフレッドの肩を押して、玄関に向かった。ドアノブに手をかけて、最後にフレッドを見た。泣き出してしまいそうだった。
「そもそも、リングだって準備していなかった癖に」
それが、私の言葉がなにを意味するのか、その時は知らなかった。後ろでフレッドが悔しそうに、胸ポケットからリングを出していたことも、私は知らない。
私は走った。逃げ出すように。こんな時に限って、スモッグの隙間から綺麗な月が見えていた。
知らないことが、安全だと思っていた。愛だの恋だの、欲だの。全部醜くてフィクションの世界じゃないと美しくない。でも、知らないままでいるのは危う事だと、フレッドが教えてくれた。私は、ずっと目を塞いでることができないとわかってたはずなのに、今、知らなければならないとわかって、酷く恐れている。怖い。知るのが。
知っている風に話をして、文字を綴った。創作のための経験は厭わない。毒だって虫だって口にしてやる。でも、自分の感情、心を変えるものは経験したくなかった。しなくてもわかって た気でいた。だから、今こうして私は逃げるしか無くなってしまった。
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