十二話 幸せについて
柔らかい日光が差し込む昼下がり。コーヒーの苦くて甘い匂いが漂う。婚姻手続きをすると言ってから研究所の方から仕事の休暇を取るように言われて、やむを得ず研究をストップした。いつもなら、ラボに引きこもって研究に身を投じていた。薬物、鉱物、アルコールの匂いが恋しい。だから、こういう時間にどうすればいいかわからなかった。とりあえず、なんにもしないわけにはいかないので、次の研究資料を手に取り、リビングのソファに座った。私はソファに深く腰掛けて読書に集中した。集中するのは好きだ。そのことだけ考えてれば余計なことを考えなくて済む。
エリーゼは私の家に来てはいるがずっと奥の一番日が当たる部屋で紅茶を飲みながら執筆している。すっかり私の家にも慣れて自由になったエリーゼに、ほんのり安堵する。明日には、結婚許可証が発行される。エリーゼは、結婚式も披露宴も嫌がるから婚姻手続きはそれで終わり。かく言う私も結婚式などはするつもりはない。金ばかりかかるし。
頁を捲る音が、静かな部屋に響く。すると、紅茶の香りを纏ったエリーゼがリビングに来た。ふわりと香る紅茶とインクの香り。シンクにティーカップを置くなり洗い出す。
「私が洗うよ」
そう声をかければエリーゼは笑って「いいのよ博士」と緩い声で言う。ここ最近詰め詰めで手続きをしていたから疲れているのかもしれない。でも、せっかく彼女が大丈夫と言うからそれを無碍にしたいとも思わなかった。
水の流れる音が止まり、エリーゼは手を拭いた。白く美しい手の水っけが布に吸収される。そして、手袋をつければエリーゼは私の傍に歩いてきた。
「どうかしたのか?」
私がそう聞いてもエリーゼはなんにも言わない。緩くなった目で私を見ては笑うだけ。隣に座ってくるエリーゼはうとうとしながら私に迫った。顔が近い。吐息、匂いがダイレクトに来る。それに、体が反応して身を引く。でもエリーゼは顔を近づけてくるから、私はどうしようかと考えていた。そして意を決して顔を自分も近づけた時、ぽてっと私の肩に頭を落として寝息を立て始めた。寝た。私の隣で、私にもたれかかって。私は、あとから鳴り出す心臓を抑えて本を閉じた。そして、エリーゼを、起こさないようにゆっくり手を伸ばしてテーブルに本を置く。
エリーゼの柔らかい髪が肩にかかる。くすぐったいような感覚に身を捩ってもエリーゼは起きないから結構しっかり眠っているようだ。
私は罪悪感を拭うように俯いた。体が反応した時、私は咄嗟になにをしようとした?私たちは合理的な結婚で、彼女はそれ以上望んでいないと、散々わかったのに。醜く、人間らしく欲深い自分に、笑えてくる。
夕食。静かな夕食の沈黙を破ったのは珍しく私だった。
「おい」
私はナイフとフォークを下げて、ゆっくりエリーゼを見た。咀嚼して嚥下するエリーゼを見る。エリーゼはその後首を傾げて私を見ていた。
あぁ、エリーゼ。君は。
「君は私のどこに惹かれて婚約してくれたんだ?」
不躾な質問だ。でも、聞かずにはいられなかった。それくらい自分の欲は大きく膨らんで、破裂寸前だった。それに、もう言い逃れはできないと自分でもわかっている。これが、もうただ傍に置きたいだけじゃないことを、私はもう身をもって実感していた。
エリーゼは、はっとして目を伏せる。長い睫毛がそのグレーダイヤモンドに被さる。そして、私を映して、細められた。彼女は美しくはにかむ。
「合理的で、便利なところかしら」
私はショックと衝撃を同時に受けて声を詰まらせた。その美しさが恐ろしくもあり、魅惑的でもある。私はごくりと息を飲んだ。そんな私を見て彼女は今度は無邪気な笑みを浮かべた。
「冗談よ」
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