七話 黒い欲情



欲というものは、作品を書く際に最も美しく素晴らしいスパイスで彩りだ。私は、それを文字にして紡ぐ仕事を愛している。誇りに思っている。でも、自分に起こる欲情には嫌悪してしまうから生きづらかった。

部屋の空気は重い。ロンドンの大好きな朝日が今や気持ち悪い。シーツを握って、出ていく男の背中を睨む。

終わった。やっと。ようやく去っていく二度と会わない男の背中を見て泣き出しそうになった。

私はこれを処理と呼んでいる。私の最も嫌う欲は性欲だった。でも人間には波のようにそれが押し寄せてくる。とくに、私の場合月経前だとそれが感じやすくなる。体の不調に長くいらいらするくらいなら、さっさと処理しようと私は男娼を呼ぶ。そんな自分が大嫌いだった。醜くて、気持ち悪い。毎回吐き出しそうなのを堪えて処理をする。なかには、まるで恋人のように甘い言葉を言う男もいるが、それこそ無駄なのだった。

また一ヶ月後に同じ目に遭うと思うともうやってられなかった。気持ち悪い。

その時、足音が捲し立てられて、ドアが開いた。ビクッと肩を揺らしてドアを見ると、髪を乱して焦っている博士がいた。なんたる不幸。私は下唇を噛んだ。

博士は、あの男は恋人かと尋ねた。気持ち悪いのを押し殺して否定する。私がいつもの調子で処理だと言えば、博士は顔を真っ赤にして叫んだ。

「そ、そんな身元のわからないやつを呼ぶくらいなら、俺を呼べばいいだろ!!」

そんなことを言われると思わなくて私は腹立たしく思った。呑気な博士に。博士は、友だ。私をまっすぐ受け止めてくれて変な気遣いをしない男。でも、今は気遣いせざるを得ないのかそんなことを言う。

私はふざけた調子でいれば博士は腹を立てるように顔を赤らめた。

だんだん腹立たしくなって私は嘲た。馬鹿みたいに、私に説教をする若造に。

「面白い坊やだこと」

彼のスイッチはなんとなくわかっていた。私は彼をスイッチを押さないように関わってきた。作品を書くと、キャラを理解する力が強まる。だから私には博士の怒りのスイッチなんて丸わかりだった。その証拠に彼の瞳からすっと光が消えた。ターコイズが暗くなる。

博士の顔がみるみる冷たくなるのは、少し恐ろしかった。冷静沈着、他人に興味が無い冷めた人間のフレッド博士。それでも彼は、ただ見下すような冷たさを持っているわけではない。彼の中の情熱。全てが暖かい男。そんな博士がみるみる怒りで冷たくなのは恐ろしかった。私、今なんて言った?そう思うより先に、喘ぐように唸る博士に胸ぐらを掴まれて馬乗りになられる。

そして、私が恐れていた言葉を投げかける。

「俺を馬鹿にして、自分の醜さを隠したいなら好きにしろ!でも一つ覚えておけ!俺は、ずっとお前は、歳とか身分とか気にせずに俺の友としてそばにいてくれてるのかと思っていたよ」

怒りから覗く悲しみ。彼はふと、ターコイズに私を映すことなく言った。

「幻滅した」

やけに頭に残る言葉だった。短い単語なのに、強い衝撃。

博士は、乱れた髪を撫で付ける。しかし、酷い顔はそのままだし、髪ははらはらと落ちてきた。

博士は私の無くした原稿を投げ捨てて去っていく。その背中を歪んだ視界で見た。彼の手を掴みたい。でも、私にはそんなことできなかった。彼が出ていくのを見て、私はボロボロ涙を流した。

こんなに、熱くて、虚しくて、悲しいのは初めてだった。

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