六話 黒く濁って



静かな書斎で私は手元のレポートにペンを走らせていた。淡い朝の日差しに目が痛くて、カーテンを閉めに向かった。

ボルドーのカーテンを閉めると、足でなにかを踏んでしまった。くしゃりと歪む。紙だ。私は、さてなんのレポートかなと拾い上げると、それがレポート用紙ではなく、純粋な文字の羅列の浮かぶフォーマル用紙だと気がついた。柔らかく伸び伸びとした文字。内容に目を通すこともなく私は思い出した。エリーゼの原稿だと。彼女と交流してだいぶ経った。私の書斎に本を借りに来た際に落としたのだろう。ふと時計を見る。締切の一日と三時間前。私は、顔を顰める。渡しにいかなければ彼女は困ってしまう。けれど、外に出るのは好きではない。特に彼女の住むエリアに行くのは。少し悩んで結局コートに手を伸ばした。


エリーゼの家の扉は不用心にも開いていた。叱ってやらんとなと顔を顰めて、彼女のもとへ向かった。珍しく、リビングは静まり返っていて、彼女はいない。いつもならリビングに差し込む美しい朝日を浴びながら彼女は執筆しているのに。珍しい。まだ寝ているのか?そう思ったとき、こん、こんと足音が聞こえた。エリーゼのパンプスの音ではない。もっと重厚的で、硬い音。すぐに、男だと気がついた。誰か入り込んだか?急に危険な匂いがして、私は早足で寝室に向かった。その際に男がさらりと出ていった。なにか持ってる様子も、不審な様子もない。でも、私にははっきりと感じた。職業柄匂いには敏感なのだ。あの男からエリーゼの香水の匂いがした。間違えるはずない。スパイシーなローズと、アンバーの香り。エリーゼの匂い。私は、男を目で追ったがすぐに心配になってあの男が出てきた寝室に向かった。

扉を開けて、「エリーゼ!」と声を上げれば、そこには生まれたままの姿のエリーゼがいた。すぐにエリーゼはシーツに包まり、顔を真っ青にして私を見た。かく言う私は顔から火が出そうなほど真っ赤にしていた。

「お前!?」

私は言葉に詰まる。あの男と、つまり、そういう事を?エリーゼが?

「さっきの男は恋人か?」

エリーゼはすぐさまシャツを着てボタンを留めながら「違う」と否定した。なら、尚更誰だ??

私が困惑していると、エリーゼは焦りながら笑った。

「わかるでしょ。処理ってやつ」

いやわからんが?私は感情が昂ったり、沈んだりするのに苦しくなった。

「そ、そんな身元のわからないやつを呼ぶくらいなら、俺を呼べばいいだろ!!」

私が興奮気味にそう怒鳴ればエリーゼは笑った。

「珍しい博士だ。心配ありがとう。でもああいうのはお金さえ払っとけばなんにもしてこないんですよ」

「そういう問題か?」

私は呆れて、でも腹立たしくてエリーゼを睨んだ。すっかりいつもの服に着替えたエリーゼはいつも通り。

「博士だって、私と同じでしょう?こういう処理するでしょう。それとも私が女だから?」

エリーゼがそう言うから、私はますます顔を赤らめた。

「処理は、一人で……」

「え、てことは」

エリーゼは興味があると話を続けようとするから私は「人の性事情を詳しく聞こうとするな!!!」と叫んだ。全く、とんだ恥知らずだ。久しぶりに感情が高ぶって気持ち悪い。

「とりあえず、変な男に体を許すな」

エリーゼは少し顔を歪めたあと笑った。

「なぁに、そんなに心配?私そんなに馬鹿な女じゃないけど」

「そういう話では」

エリーゼは冷たく笑う。

「面白い坊やだこと」

それに、自分でも異常な程の怒りを覚えた。抑えろ、彼女はちょっとした挑発をしただけだ。そう理性は叫ぶ。でも、体はみるみる冷たくなった。彼女に、そう思われてたことが悲しい。彼女に、舐められていたことが腹立たしい。彼女を見下していた自分が、憎たらしい。

私は、彼女の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らした。その勢いで馬乗りになってしまったが、そんなこと気にもとめずに叫んだ。

「俺を馬鹿にして、自分の醜さを隠したいなら好きにしろ!でも一つ覚えておけ!俺は、ずっとお前は、歳とか身分とか気にせずに俺の友としてそばにいてくれてるのかと思っていたよ。……っ幻滅した」

彼女の瞳が揺れる。グレーダイヤモンドが滲む。肩で息をする自分に吐き気がした。歯軋りをして、彼女から手を離した。今、彼女の顔なんて見たくない。彼女に自分の顔なんて見られたくない。

私は彼女に原稿の一頁をひらりと投げ捨てて家を出た。

こんなに冷たくて、腹立たしくて、悲しいのは、初めてだった。

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