第二章:妹みたいな存在

夏のプールは、午前中から子どもたちの声で騒がしかった。

水しぶきの音に混じって、笛を吹く俺の声もかき消されそうになる。

バイトを始めてまだ一か月。多少は慣れてきたけれど、気を抜くとすぐに事故に繋がる。

だから俺は常に視線を泳ぐ子たちに向け、誰がどこで立ち止まっているのかを見逃さないようにしていた。


列の端にセリアの姿を見つけたのは、その日の二回目の授業だった。


「はい、順番に泳いでみろー」


声をかけると、子どもたちがばしゃばしゃと水に入っていく。

小学生が多い中で、セリアだけは明らかに年上で、中学生らしい落ち着きがあった。

とはいえ泳ぎはまだ下手で、バタ足も弱々しい。俺は思わず視線を長く留めてしまった。


やがて練習が終わり、子どもたちが更衣室へと引き上げていく。

俺は片づけを手伝っていると、背後から声がした。


「お兄ちゃん」


振り返ると、制服に着替えたセリアが立っていた。髪はまだ半乾きで、肩に張り付いた水滴が光っている。


「……コーチ、って呼べよ」


「やだ。お兄ちゃんがいい」


俺が苦笑いで返すと、彼女は当たり前のように近づいてきて隣に座った。

周囲には他のスタッフもいたが、誰も特に気にしていない。小さな妹に懐かれているとしか見えていないのだろう。


「さっき、泳げなかったのに頑張ったな」


褒めると、セリアは少し嬉しそうに頬を赤らめた。


「うん。だって、お兄ちゃんに見てもらいたかったから」


年下にそんなことを言われて、俺は返す言葉に困った。

彼女はただ無邪気に甘えているのかもしれない。それでも俺の中で妙な引っかかりが残った。


休憩室に入ると、先輩コーチが笑いながら俺に話しかけてきた。


「おまえ、あの子に懐かれてるな。妹みたいでかわいいじゃん」


俺は曖昧に笑って返すしかなかった。妹のように見える。それは確かに周りからすれば自然な解釈だろう。

でもセリアの目は、もっと違うものを映している気がしてならなかった。



~~~



その日の帰り道、プールの出口で再び彼女に呼び止められた。


「お兄ちゃん、今日もありがとう」


「いや、仕事だからな」


「それでも……お兄ちゃんに助けてもらえてよかった」


彼女はそう言って軽く頭を下げた。何気ない仕草のはずなのに、胸の奥に妙な重さが残る。


俺の頭には、幼い頃に聞いた人魚の話がよぎった。

好きになった人間を海に連れていく存在。

あのときはただの昔話だと思っていたけれど、セリアの視線を受けていると、あの寓話が形を持ち始めるような気がした。


彼女は「妹みたい」と笑われる一方で、本人は迷いなく「お兄ちゃん」と呼ぶ。

その距離感の違いが、俺の中で奇妙な居心地の悪さを生んでいた。


次の週もまた、彼女は当たり前のように列の最後に並んでいた。

目が合うと、嬉しそうに微笑む。俺は笛を吹き、声を張り上げながらも、なぜか胸の奥でざわつく感覚を抑えきれなかった。



きっと彼女にとって俺は、ただのコーチではない。


そして、俺にとっても彼女は、ただの生徒ではなくなり始めていた。

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