第一章:泡の下で
プールサイドに立つと、塩素の匂いが鼻に残った。
夏休みの初心者クラスは子どもも多く、笛を吹くたびに水しぶきや笑い声が跳ね返ってくる。
俺はアルバイトのコーチとして、列をつくる生徒たちを見回していた。
「じゃあ順番に泳いでみよう。無理だと思ったら途中で立っていいからな」
声をかけると、子どもたちは「はーい!」と返事して水に入っていく。
勢い余って腹打ちするやつもいれば、顔をつけられずに立ち止まるやつもいる。
俺の役目は安全を見守りつつ、必要なら助けることだった。
最後尾に並んでいたのは、少し年上の少女だった。ほかの小学生に比べれば背が高く、中学生くらいだろうか。深緑がかった髪は肩まで伸びて、プールの照明を受けると黒に近い色に沈んで見える。
彼女は周囲の子どもたちのはしゃぎ声に混じらず、静かに順番を待っていた。
「次、いってみようか」
俺が声をかけると、少女はわずかに頷いて水に入る。
その動きはゆっくりで、冷たさを探るように片足ずつ沈めていった。
最初は普通に見えた。だが、クロールの真似をしようとした途端、何かが違うと感じた。
手足は確かに動いているのに、前へ進まない。息継ぎもぎこちなく、顔を水につけたまま長すぎる。
「……おい、無理するなよ」
声をかけた瞬間、少女の体が静かに沈んでいった。
派手に水しぶきが上がるわけでもなく、すっと水底へ消えていく。周囲の子どもたちがきゃあきゃあと笑う中、俺だけが違和感に凍りついた。
「やばっ……!」
笛を放り投げて飛び込む。水が耳を塞ぎ、視界が一瞬白く濁る。
その奥で、小さな影が沈んでいくのが見えた。手を伸ばすと、驚くほど簡単に掴めた。
抵抗はなく、まるで彼女自身が沈むことを選んでいるかのようだった。
「っ、こっち来い!」
腕を引いて水面に浮かび上がる。抱え込むようにして彼女を引き寄せると、その体はひどく軽かった。
「ごほっ、ごほっ……!」
「吐け、吐け。楽にしろ」
背中を叩くと、水を吐き出して大きく息を吸う。
肩を掴む指先は震え、必死に俺に縋りついていた。
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しばらくして落ち着いた頃、少女は俺を見上げた。濡れた髪が頬に張り付き、瞳は青緑に光っていた。
「……助けてくれて、ありがとう。お兄ちゃん」
「俺はコーチだから、当然だ」
「でも、お兄ちゃんに助けてもらえて、よかった」
その言葉を口にした時の微笑みが、妙に鮮烈に残った。
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休憩時間。椅子に腰掛けていると、少女がタオルを肩に掛けて隣に座ってきた。
周りの子どもたちははしゃぎまわっているのに、彼女だけは静かに俺を見つめている。
「怖くなかったのか?」
「ううん。お兄ちゃんが助けてくれるって分かってたから」
「普通は怖いだろ」
「……また溺れてもいいよ」
「は?」
「だって、また助けてくれるでしょ?」
悪びれた様子はなく、当たり前のように言った。
その目は冗談を言っているものではなかった。俺は笑って流そうとしたが、胸の奥が妙にざわついた。
~~~
帰り際、ロッカー前で靴を履こうとしていると、制服に着替えた彼女が出口に立っていた。
「……あ、お兄ちゃん」
「……コーチ、って呼んでくれないか」
「やだ。お兄ちゃんって呼びたい」
頑なにそう言って笑う。小さな声で続けた。
「今日のこと、絶対に忘れないから」
その声が頭の奥に響いたまま、俺はプールを後にした。
助けたはずなのに、助けられたのは自分のほうではないか
──そんな感覚だけが、妙に強く残っていた。
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