第30話 エンブ
テノグア山にはモンスターが多い。穏やかな気候で、山の幸が豊富であることを好み、様々なモンスターの住処となっている。
そのため、縄張り争いも激しい。他種のモンスターが縄張りに入ってくるようなら、臆することなく襲い掛かる。
この三ヶ月、僕は何度もその洗礼を受け続けた。故に、そのときの対処も心得ていた。
逃走である。
この地に住まうモンスターは縄張り意識が強い。しかしそれは、縄張りを犯そうとしてくるモンスターに限る。つまり、縄張りに入っても何もせずに逃げれば問題ない。
四六時中、縄張りを脅かす敵がいるのだ。縄張りを素通りするだけの僕に労力を割く余裕は無い。
問題は、獲物を探すモンスターである。奴等の縄張りに入って見つかれば、当然襲われる。そうなれば、武器の無い僕に抵抗する術は無い。
故に、今の僕にできることは2つだけである。
逃げること。そしてモンスターと遭遇しないように祈ること。この2つであった。
「お願いしますお願いします……どうか何事も無く山を降りさせてください神様。というか、これまで散々な目に遭って来たんですから、これくらいの願いは叶えてください」
山を駆け下りながら、僕は祈った。本来ならもう少し格好をつけて祈らなければいかないが、そんな余裕も時間もない。そもそもずっと酷い目に遭わせられたのだ。これくらいの無作法、神様も許してくれるだろう。
それに、フェイルが言っていた。「リンなら10分くらいで来れる」と。つまりあの場所から麓までは、それくらいの距離だということだ。
リンさんと僕の足の速さは違う。けど僕は全速力で、しかも下り道を走っている。同じくらいか、それより短い時間で山を下りられると踏んでいた。
十分。たった十分間だ。それ以上は願わない。だから僕の願いを叶えてください。
緩やかな坂を駆け下りる僕の視界に、度々モンスターの姿が眼に入る。奴等は僕を見かけても無視し、手を出してこない。祈りが通じたのか、それともいつも通りなのか、どちらにせよ襲ってこないのであまり考えないことにした。
走り出してから5分、見晴らしの良い崖に着く。下を覗くと、5メートルほどの場所に地面がある。それほど高くはなさそうだ。崖の下にはまだ森が続いているが、その先を見ると街道がある。森を出るまでに、そう時間はかからなさそうだ。
僕は着地場所を確認してから崖から飛び降りる。地面に着地すると、衝撃を殺すために前転する。そして前転した勢いで足を動かし、再び走り出す。
そのときだった。
「――っ!」
身体を止め、周囲を見回す。周りは木々と茂みばかりで、人はもちろん、モンスターの姿もない。
だけど、何かに見られているような視線を感じた。
もう一度、周りに視線を向ける。だけどやはり姿はない。視界に限らず、音を頼りに探っても見つからなかった。
しかし、未だに見られている感覚はあった。じっくりと観察する好奇の目を向けられている。
気味が悪くなり、僕は声を上げた。
「誰かいるのか?!」
冷静に考えれば可笑しな行動だった。もし敵対心のある相手なら、この声で出てくるわけがない。むしろ僕が焦れていることを察して、ますます出てこなくなるだろう。
だが、それは姿を現した。
木の上から葉が舞い落ちる。視線を上げると、そこにモンスターが一匹いた。
体高は僕の腰より少し低く、横幅は狭い。二本の足で立っており、腕はだらんと下に垂らしている。全身が灰色の毛に覆われているが、顔と手足の先には体毛が生えていない。ただ顔は、人のつくりとよく似ている。
そして、赤い眼をしていた。
「お前は……」
僕が気を失う前に見た星と同じ色。瞬時に、このモンスターの正体を知る。このモンスターは、僕を襲ったモンスターだ。
同時に、別の事を思い出した。
『キキキッ』
モンスターが木から木へと飛び移る。木々の間を飛び回り、段々と高度を下げていく。地面に着くと僕の方に振り向いて、また『キキッ』と笑う。
鳴き声、特徴、挙動。それらはあるモンスターと酷似していた。
信じたくない。認めたくない。頭に浮かんだ想像を否定したくて、必死に相違点を探す。だが観察すればするほど、むしろ同じであるかのように見えてくる。
現実を受け入れたくない僕にかまわず、モンスターは眼にも止まらぬ速度で僕に跳びかかってきた。前動作で動きを察していたお蔭で反応できたが、それでも身体に触れられる。紙一重だった。
モンスターは壁に着地すると、跳ね返るようにしてまた跳びかかって来る。奇抜な動きに反応が遅れ、足がもつれて地面に転がる。そのお蔭で二撃目も避けられたが、同時に嫌な事実を受け入れざるを得なくなった。
「最悪だ……」
特級モンスター、エンブ。それが目の前のモンスターの正体だった。
「マイルス周辺にいる特級モンスターといえば、エンブですね」
昨日、フィネさんと一緒にヌベラを探している最中のことだった。
何も言わずに捜索し続けるのは気まずかったので、ララックさんに言われたことを話題に出した。マイルス周辺にいる特級モンスターの話だ。
さすがにフィネさんは知っていたらしくて、歩きながら説明してくれた。
「マイルスの北西にテノグア山がありまして、そこに生息してると言われてます。身体はそんなに大きくなくて弱そうに見えるうえ、穏健なモンスターだから危険度は低いと思われてたんです。けどその外見に油断して狩ろうとした冒険者は全員命を絶ちました。その事実を知り、国はエンブの強さを測ろうとして腕利きの冒険者に調査を依頼しました。多くの上級モンスターを狩った、経験豊富な上級冒険者にです。数日後依頼を終えて帰ってきた冒険者が、『エンブは特級の対象となるモンスターだ』って報告をしまして、周知されるようになった訳です」
腕利きの上級冒険者が断定する程の強さ。その事実に驚き、身震いした。それほど強力なモンスターがこの近くにいるなんて……。
しかし、だ。
「けど、そんな危険なモンスターが近くに居るのに、何で放置してるんですか?」
僕の疑問にフィネさんは難しい顔をしながら答える。
「たしかにエンブは危険な強さを持っていますが、それを除けば無害な存在らしいです。普段は穏健で目の前に冒険者がいても襲い掛からず、むしろ遊ぼうとしてくるほど、友好的なモンスターなんです。こっちから手を出さない限り襲われる心配は無い、と。それに戦うとしたら、かなり被害が出るみたいです。エンブは全モンスターのなかで一二を争うほど素早くて、小さな身体に似合わない程のパワーがあります。そのうえ人の言葉を理解できるほどの知能を持ってます。そんなモンスターが縄張りとしている山で戦ったら、被害が甚大になると想定されています。あとエンブは人を襲うモンスターを狩っているみたいなので、わたし達にとっては有益なモンスターと言えます。持ちつ待たれつな関係だから放っているっていうのが放っておいてる理由なんです」
「なるほど……」
話を聞く限りは、思っていたほど危険ではないようだ。特級に指定されているが、そこまで警戒する必要はないだろう。
そう考えて安心していると、
「あと、これはちょっとした補足情報なんですが」
フィネさんが話を続けた。
「特級って、時間と研究が進めば対象から外されることがあるんです」
「……どういうこと?」
「最初は特級の対象になってたけど、モンスターの生態や弱点といった情報が分かるにつれて危険度が下がることがあります。それを基に攻略法が編み出されるのです。倒し方が分かると、準備次第では中級冒険者でも倒せられるモンスターがいて、そういうモンスターが特級から外される事があります。実際に10年前に特級の対象になっていたほとんどのモンスターが、今では対象から外されてます。ちなみに、特級対象から外されるまでの期間は平均して18年。そのなかでエンブは、今の特級のなかでは一番情報が多いモンスターです。そこで問題です。エンブはいったい何年間、特級モンスターとして名を残しているでしょうか?」
いきなりの出題で驚いたが、話を盛り上げようとしているフィネさんの心情を思い、その問題について考えることにする。
話の内容では、エンブは素早くて力が強いうえに賢い。だが情報と研究が進めば危険指定から外されるということは、情報が一番多いモンスターであるエンブはじきに危険対象から外されるはずだ。そしていくつも弱点があるってことは、それなりに長い期間研究されていたということだ。
それらの情報をもとに、「20年」と答えた。色んな攻略法があっても特級の対象から外されていないということは、平均より長いはずだと考え、切りの良い数字を上げた。
それなりに自信があったが、「残念!」とフィネさんは答える。
「ちょっと自信あったんだけどなー。ちなみに何年?」
「50年」
耳を疑った。一瞬冗談かと思ったが、ダンジョンやモンスターの事に関しては、フィネさんを含めた職員は軽はずみな事を言わないということを思い出した。
「情報はある、研究も進んでいる、色んな弱点が見つかっている。にもかかわらず、エンブは50年も特級モンスターとして今も名を残しています。つまり、何が言いたいのかというと……」
フィネさんの言いたいことを察した。
エンブは弱点が判明しても倒せないモンスター。そんなモンスターを前にしたら、僕が取るべき行動は1つしかない。
「戦うな、ってことですね」
フィネさんは、「正解です」と答えた。
フィネさんとの会話を思い出した僕は、次にとる行動を考えた。
目の前にいるモンスターは、間違いなくエンブだ。聞いていた情報より身体は小さいが、特級モンスターであることには変わりない。そんなモンスター相手に、戦って勝てる気はしない。だから逃げること以外に選択肢は無い。
問題はどうやって逃げるかだ。
僕よりエンブの方が足が速い。逃げても先回りされてしまうだろう。崖を上って引き返しても、エンブも同様に登ってくるだろう。
つまり何とかして、エンブをここに止まらせる必要があった。
「……どうすればいいんだよ」
無茶な難題を前にして、弱音を吐いてしまう。だが今の状況を顧みれば、そう思っても仕方がないはずだ。
目で追うのが精一杯の速さで跳び回るエンブに対して、僕は碌に反撃できずにいる。手を伸ばして捕まえようとしても、エンブはいとも簡単に僕の手を避ける。しかも反撃のおまけつきだ。手を伸ばすたびに、伸ばした手を叩き落とされていた。
早く山を下りたいのに、なんで特級モンスターの相手をしなければいけないんだ。時間をかけたくないこともあって、焦りが募る。
何とかしないと……なんとか……。
「ダメだ」
頭に血が上っていた。こんな状態で考えても、良い案は思い浮かばない。まずは落ち着かないと。
エンブに警戒しながら、乱れた息を落ち着かせる。呼吸が落ち着くと、少しだけ頭が冴えた気がした。
間近でエンブを見て、分かったことがある。聞いた通り、スピードはかなりのものだ。しかしパワーはそれほどでもない。勢いに乗った一撃をくらったが、ワーラットの攻撃よりは軽い。賢いとも聞いたが、目の前のエンブは知能が高そうに思えない。さっきから周囲を飛び回り、隙を見て突っ込んで来るだけだ。これを利用すれば反撃できそうだ。
もう少し観察すれば情報が得られるだろう。しかし、早く山を下りてミストを助けたい。早急にけりを着けよう。
近づいて来たエンブに手を伸ばす。予想通り、エンブはそれを避ける。その直後、エンブは地面に着地して跳びかかって来る。しかも真正面からだ。
チャンスだった。僕は左手を出してエンブの肩を掴む。逃がさないように右手も使って逆側の肩も掴む。
捕まえた。そう勝利を確信した。
するとエンブは身体を左に捻り、捻りを戻す反動で右脚で僕の左腕の肘を蹴った。思いがけない攻撃に、掴んでいた左手の握力が緩んでしまう。その隙を逃さずに、エンブは掴んでいた僕の左手を振り解いた。すると僕の右腕に抱き着き、脚を僕の顔に向ける。直後にその脚で、僕の顔を漕ぐような動作で蹴飛ばした。
衝撃で倒れない様に、身体を後ろに仰け反らせながらも耐える。何とか身体を起こしたが、眼前にエンブの顔があった。僕よりも早く体勢を立て直したのか?
その疑問の答えを考えるよりも早く、エンブは僕の額を強く叩いた。掌で叩かれ、バチンと音が鳴る。あまり痛くない攻撃だ。しかし、遊ばれている様な感覚が痛いほど伝わった。
少しだけ、イラっとした。
「この野郎……」
体勢を低くし、肘を軽く曲げて手を前に出す。捕まえやすい体勢をとって、エンブの攻撃に備える。
攻撃は後だ。捕まえればいくらでも出来る。まずは捕まえることだ。決してムキになったわけではない。
自分に言い訳をしながらも、エンブから目を離さない。エンブはさっきよりも多く鳴きながら跳び回っている。心なしか楽しそうな声に聞こえるのは気のせいだろうか。その鳴き声が、余計に僕を苛立たせた。
するとエンブはさっきまでとは違い、僕が隙を見せずとも跳びかかってくる。左から来たエンブに反応して手を伸ばすが、手が届く前に僕の頭にすれ違いながらタッチする。すぐに右に向くが既に姿は無く、直後に足元から鳴き声が聞こえる。下を向くと同時にエンブの掌が目に映る。下から跳び上がったエンブに額を張り手で突かれる。身体を仰け反らしながら頭上に浮かぶエンブに手を伸ばすが届かない。体勢を崩して仰向けに倒れたがすぐに起き上がって振り返る。
エンブは目の前でしゃがみ込み、僕の姿を見ていた。その顔が笑っているように見えた。
「調子に、乗るな」
言葉の意味が分かったのか、エンブは楽しそうに笑う。それを見て僕も笑った。
変な感覚だった。捕まえられないのが悔しい。捕まえられない自分が情けない。そう感じながらも、エンブに対して不思議と憎しみや敵意を持てなかった。
再びエンブは四方八方を跳び回る。大分速さに慣れてきたお蔭で、エンブの姿を追えるようになった。右から突っ込んでくるのが見えて手を伸ばす。今度は間に合う。身体を掴もうとするが、エンブは身体を回転させるようにして僕の手を躱し、僕の頭に頭突きをした。
勢いに乗った頭突きに耐えられず、体勢を立て直す暇も無く、仰向けに倒れてしまった。
「いったぁ……い?!」
頭突きを食らった場所を手で押さえていると、身体の上にエンブが乗った。エンブのにやけた顔を見て、今の状況に戦慄した。
圧し掛かられて動けない僕に対し、エンブは存分に両手を振るえる状態だった。
エンブは「キキっ」と短く鳴くと、右手を振り上げる。手で防ごうとしたが、エンブが両足で器用に僕の両腕を踏んづけて押さえているため動かせない。
エンブの掌が近づくのを見て、死を覚悟する。しかし、その直後に響いた音は、弾けるような軽く高い音だった。
額に伝わった衝撃の正体は、意外にもただの平手打ちだった。エンブは僕の額を軽く叩くと、僕の上から飛び退きいて「キキキッ」と鳴く。その様子は、僕が立ち上がるのを急かしているように見えた。
意味が分からず、呆けてしまった。
エンブにとって、今のは絶好の攻撃チャンスだったはずだ。てっきり今までの攻防は僕を挑発させるのが目的で、今みたいな有利な状況を作るためのものだと思っていた。今の場面は、全力で攻撃されるれることを覚悟していた。
しかし、実際は違った。
さっきまでと同じように僕の額を叩くと、距離を取って僕の様子を窺っている。まるで僕の準備が出来るのを待つように。
流石に違和感を抱いた。このエンブはフェイルが放ったモンスターで、僕の足止めが目的の筈だ。そして僕の足止めをするのならば、僕を殺すのが一番有効だ。しかし僕を殺す絶好の機会をわざと逃した。
思い返すと、今までにも僕に致命傷を与えられるほどの機会はあった。あのときは僕を挑発させるためにあえて攻撃しなかったのかと思ったが、実は単に攻撃する気が無かっただけかもしれない。
いったい何故だ?
今までのエンブの行動と、フィネさんから聞いた情報を思い出す。何か手掛かりはあるはずだ。
跳び回る動き、額にタッチするような攻撃、嬉々とした顔、穏健な性格、高い知能、人間相手に遊ぼうとする程の無害さ。
ふと、ある記憶を思い出した。ミシノ島に居たときの小さな頃の記憶だ。あのときの僕は、ある光景をいつも羨ましそうに見ていた。あのときと今の状況はよく似ている。
「まさか……」
ある答えが頭に浮かんだ。最初は思いもしなかった答えだ。しかし、一度思いつくとそれ以外考えられなくなる。
試してみる価値はある。
僕は後ろに振り返って走り出す。後ろは崖下の壁しかないが、そこに向かった。壁に着いた僕は、壁に背にして振り向いた。
エンブは不思議そうに首を傾げている。何故僕が壁に背を向けのか分からないからだろう。
たしかにこの行動は、さっきまでの僕なら取らなかった行動だ。壁に寄って背を向ければ、背後に回り込まれる心配はなくなるものの、逃げ場が無くなる。エンブ相手に守勢にまわれば、一方的な攻撃を受けてしまう。
だがそれを知ったうえで、僕はこの行動をとった。
「来なよ」
僕の動きを怪訝に思うエンブに、僕は言った。
手を前に出し、掌を上に向け、指をニ度曲げる。僕の挑発に、エンブは『キキ』と短く鳴いて跳び回り始めた。
上下左右に跳び回りながら、僕に攻撃する隙を窺っている。僕はエンブの位置を確認しながらタイミングを計る。出来る限り近づかれて、正面に着地する直前。そのタイミングを狙った。
エンブが徐々に距離を詰めてくる。二三歩踏み込めば触れる程の範囲で跳び回っている。まだだ。まだ動き出すには遠い。せめて一歩で届く距離にまで来て欲しい。
じれったくなって動きたくなる。だけど我慢した。大丈夫。我慢することには慣れている。
エンブがわざとらしくゆっくりと動く。ダメだ。距離が遠い。
木に着地してバランスを崩す。あれはわざとだ。行くべきじゃない。
一歩半の場所に着地をする。あと少し……。
そして、時は来た。
エンブが一歩で届く距離で跳び回り始めた。木に着地して跳んだ方向を目で捉えると、僕は一歩踏み出す。重力の向き、体勢、視線の動き。それらの要素から、エンブが正面の地面に着地すると判断した。
その判断は当たった。
エンブが僕の正面に着地して、それを見て僕は手を伸ばす。エンブはそれに反応して、すぐさま上に跳ぶ。木の枝に脚を着き、落ちるように跳ぶ。
重力と跳躍力による速度は、僕の目では追えない程だ。だが眼に残ったエンブの残像と着地音を頼りに、跳んだ場所を推測する。足元だ。
僕はすぐに視線を足元に移す。すでにそこに姿は無く、足跡が残っているだけ。
視線を移した直後、ほとんどスペースの無いはずの背後から気配を感じる。
思わずニヤついた。
頭を下げながら振り向くと、頭上を何かが通り過ぎる気配を感じた。背後を向くと、エンブがさっきまで僕の頭があった高さまで跳び、そこで腕を盛大に空振らせていた。
攻撃に失敗して空中で戸惑うエンブに向かって、僕は振り向いた勢いを殺さずに左手の拳を突き出す。エンブは僕の腕を捕まえようとするが、空中に浮いた状態では僕の攻撃を受け止めきれない。仮に受け止めたとしても問題無い。
この左は、疑似餌だから。
エンブが両手で僕の拳を止める。その直前、僕は拳を解いて掌を広げる。そしてすぐにまた左手を握り、エンブが伸ばした両手を掴んだ。
「捕まえた」
空いた右手をエンブの顔に向けて伸ばす。遮るものは何も無い。
右手は真っ直ぐとエンブに向かう。
そして当たる直前、
「僕の勝ち、だね」
エンブの額を軽く叩いた。
額を叩いた後、左手を広げてエンブを解放する。地面に着地したエンブは残念そうな顔を見せたが、すぐに『キッキッキ』と笑ってその場で跳ねる。まるで遊び足りないと言っているようだ。いや、実際にそう言っているのだろう。
そもそもエンブには、戦う気が無かったのだから。
「ごめんね。僕は行かなくちゃいけないから、これで終わりなんだ。お、わ、り。分かる?」
両手の人差し指を交差させながらエンブに言い聞かせる。それを理解したのか、エンブは寂しそうな顔を浮かべた。
やはり、か。エンブの態度を見て、仮説が正しかったことを確信した。
あのエンブは子供で、ただ遊びたかっただけだったんだ。
体格を見て、あのエンブは子供だと推測できた。止めを刺せる瞬間に敢えてそうしなかったのは、そもそも戦いではなく遊んでいる気だったからだ。
額にタッチするのは、おそらくエンブの遊びの一つだろう。タッチしたら勝ちという、非常にシンプルなゲームだ。
もし本気で戦おうとしたら、今頃僕は死んでいただろう。僕が殺されなかったのは、エンブと戦おうとせず、逃げようとしたからだ。殺そうとしてくる相手が遊び相手になれるはずがない。僕から殺意を感じなかったから、遊び相手に選ばれたのだろう。
情報の大切さを身に染みた時間だった。エンブの事を事前に知っていたから僕は生き残り、エンブから逃れることもできた。
山を下りようとしたとき、僕は後ろに振り向いた。エンブは相変わらず、寂しそうな表情で僕を見ている。
その姿がいたたまれなく思い、僕は手を振った。
「またね」
エンブは嬉しそうな顔で手を振り返す。おそらくもう会う機会は無いだろう。だが、あの顔を見ると何もせずにはいられなかった。
後ろめたさを感じながら、気を取り直してまた山を下り始める。エンブとの遭遇で大分時間を食ってしまった。急がないと……。
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