第2話:鬼退治

 今宵の空は上質な天鵞絨の生地をいっぱいに敷きつめたかのようだった。


 散りばめられた星々の輝きは、どの宝石よりも力強くて美しい。


 ひゅうと吹く夜風が頬をそっと優しく撫でていく。ほんのりと冷たい。


 不意に、異臭が京志郎の鼻腔をつんと突いた。血の香りである。


 放たれた矢のごとく、京志郎は鬱蒼たる森をぐんと駆けた。


 視界の隅に木々を流し、程なくして開けた場所へ出た。


 血の香りがより一層強まる。


「――貴様が人斬り源八か」


 京志郎は目前にいる男に尋ねた。


 七尺近い背丈、大柄の体躯はまるでこの男が羆であるかのように錯覚させる。


 異様に発達した筋肉はさながら鎧のように分厚い。


 そして、手にした五尺余寸の野太刀が月光を浴びてぎらりと輝く。


 浪人笠によって顔はわからない。


「……そこにある死体、貴様がやったとみて間違いないな?」


 源八と思わしき男はなにも答えない。


 足元に転がる死体には、首がなかった。


 ここである違和感が京志郎の目に留まる。


(なんだあの傷跡は)


 強引に千切ったような傷を、京志郎はじっと見据える。


 よくよく見やれば、野太刀には一滴の血も付着していない。


 とてつもなく嫌な予感がした。


 京志郎は悪いことに関しての勘がよく当たる男だった。


 その際は、いつもうなじの辺りが妙に疼く。今正しく、うなじが疼いていた。


「……貴様を殺せとの命令だ。神妙にしろ」


 京志郎はすらりと腰の太刀を抜いた。


 刃長は二尺一寸四分約64cmで、胴太で重ねも非常に厚い。


 ずしりとした重さをその手でしかと感じ、京志郎は正眼に構えた。


 刹那、気が走った。先の先を取ったのは、人斬り源八。


 どんと力強い踏み込みは、たちまち彼を一陣の疾風へと変える。


 ぐんと迫る勢いは大砲で、並大抵の者ならばここで呆気に取られよう。


 京志郎は至って冷静だ。冷たくも鋭い眼で肉薄する敵手を静かに見据えている。


 振りかぶった野太刀が京志郎へと迫る。ごうと大気がうなりを上げた。


 稲妻のごとき唐竹斬りは容赦なく頭頂部へと落ちる。


 幾多の命を奪った凶刃は、するりと京志郎をすり抜けた。


 虚空を斬った刃はそのまま地面を叩く。ぱっくりと地に裂け目が生じた。


「どこを見ている」


 人斬り源八がはっとした様子で振り返った。


 背後に京志郎がいた。切先はいつの間にか天を差している。


 次の瞬間、一陣の銀閃が落ちた。


 咄嗟に飛び退いた源八。京志郎の剣速は、それよりも速い。


 ざっくりと割れた面が露わになった時――


「なっ……」


 と、京志郎はその目をぎょっと丸くした。


 浪人笠の下にあった素顔は、およそ人のものではなかった。


 浅黒い肌。異様に長く伸びた犬歯。おどろおどろしい形相。


 そして額に生えているのは二本の角――鬼。御伽噺の存在を前に、京志郎はひどく打ち震えた。


 京志郎を嘲笑うかのように、源八――もとい鬼がけたたましい咆哮をあげた。


 野太刀が苛烈に迫る。嵐のごとき太刀筋は大木をも難なく両断するほど。


 一瞬だけ呆気に取られた京志郎だったが、すぐに状況に適応した。


 いかに強大な太刀筋であろうと、要は当たりさえしなければどうということはない。


 京志郎の目はあますことなくすべてを捉える。


 わずかな息遣いや何気ない歩行、それらすべてから一度に千の未来を予想する。


 夢定心刀流むじょうしんとうりゅう剣術・さとりの法――基礎にして奥義の一つである。


 結果として、敵手はまるで心を見透かされたような錯覚を憶える。


「終わりだ」


 京志郎は大刀を横薙ぎに払った。


 流水のような滑らかな太刀筋は鬼の首をあっという間に断った。


 鬼の首がことりと落ちる。その形相は驚愕によってひどく歪んでいた。


 京志郎は小さく吐息をもらす。額には汗はおろか、わずかな呼吸の乱れさえもない。


「この程度か」


 どうやら鬼というものを過大評価していたようだ。京志郎は小さく肩を落とした。


「せっかく強い者と闘えると思ったのだが……鬼というのも存外大したことはないらしい」


 琵琶湖より冷たい風がひゅうと吹く。


 周囲に漂う濃厚な血の香りも、やがて消えていった。


 時同じくして、鬼の亡骸も京志郎の目前で煙のようにすうと消えた。


 最初からそこになにもなかったかのように。


(俺は夢を見ていたのか?)


 京志郎はぎゅうと頬を抓った。痛い。


 夢ではないらしい。京志郎は改めて鬼の亡骸があった場所を見やった。


「黒い蛙……」


 いつの間にか黒い蛙がそこに鎮座していた。


 円らな瞳をぱちぱちとさせて、京志郎の顔をじっと覗き込んでいる。


 不吉だ。京志郎はなんとなくながらも、そんなことをふと思う。


 いずれにせよ、長居する道理はもうない。納刀して踵をくるりと返す。


「しかし、これはどう報告すればいいんだ?」


 京志郎は難色を示した顔でうんうんと唸った。


 依頼は確かに遂行した。しかし肝心の内容はあまりに現実的ではない。


 嘘だと誤解されるかもしれない。もちろんそれだけは京志郎も避けたかった。


「――、まさか本当にただの人間が魔人を倒しちゃうなんて」


 不意に背後より声がした。


 次の瞬間、京志郎はその場から大きく飛び退いた。


「――――」


 京志郎は言葉を失った。


 美しい。その感想が真っ先に脳裏にぱっと浮かんだ。


 色白の肌に張り付く長髪は、琵琶湖の水面に映る銀鉤のごとく。


 瞳は鬼と同じく赤色――もっとも、こちらの輝きは紅玉に匹敵する。


 小柄な体躯で顔もまだまだおぼこい。


 全身より発する雰囲気は、幼子と呼ぶにはいささか無理がある。


 魅力だけならばそれこそ、大人と大差ないと断言してもよかろう。


 ただし、立派な双角が彼女を人外だと無情にも告げている。


 付け加えて、見知った顔であった。まずい食事処にいた娘だ。


「……お前は何者だ? さっきの鬼の仇を討ちに来たのか?」


 京志郎は正眼に構えた。


「お前とは随分と失礼な人間だな。余が誰かわからないのか?」


「知らん」と、京志郎は即答した。


「し、知らんって……そんな堂々と威張っていうことでもないのに」


「知らないものを知らないと言ってなにが悪い」


「――、はぁ……これだから下等な人間は」


 やれやれ、と鬼娘は肩を竦めた。


 明らかに他人を蔑む言動である。京志郎の眼光も鋭さが増す。


「まぁいい。それでは汝に余が何者であるか教えてやるぞ。感謝するんだな人間」


「いや、別にいらん」


「なんでだよ! そこは普通有難く思って傾聴するところだぞ!」


「別に知りたくもなければ興味もない」


 ましてやこれから殺す相手に興味など持つはずもなし。


 京志郎はグッと腰を落とした。肉薄し鬼娘を斬る体制を整えようとする。


「待て待て待て! 余を斬るとか正気か!?」


「正気だから斬るんだが?」


「えぇい、いいから余の話を聞け! まずは聞け!」


 随分と小うるさい輩だ。京志郎は溜息をそっと吐いた。


 鬼娘は「んん!」と、実にわざとらしい大きな咳払いを一つする。


「聞いて驚け人間! 余は地獄を管理する閻魔大王――」


「閻魔大王だと? お前が?」


 京志郎は鼻で一笑に伏した。


(こんなうるさい餓鬼が閻魔大王だと? なかなか面白い嘘を吐く)


 さて、自称閻魔大王だがぎろりと京志郎を睨んでいた。


 月光が照らす鬼娘の顔は、炎のように赤い。


「……の、娘である愛華あいかである! ひれ伏せ人間、貴様の死後の行き先をここで決めてもいいのだぞ?」


 鬼娘、もとい愛華がにやりと笑った。


「……それで?」と、京志郎は刀を構え直す。


「陶酔し切った前口上はもう終わりでいいか? それならいい加減に――」


「だぁぁぁぁぁ!」


 愛華が大声で怒鳴った。


 赤くなった顔からは今にも本当に炎が吹きそうな勢いだ。


「貴様本当に馬鹿なのか? 閻魔大王の娘だって言ってるだろ、ねぇ? それ聞いても斬る気でいるとか頭大丈夫か!?」


「俺は冷静だが」


「余計に質が悪いわ! まぁいい、とにかく話を進めせてもらうからな。どうして余が人間のフリまでしてこの現世にきたか、貴様にはそれがわかるか?」


「いや――」


「わからないかぁ。そっかぁ、そうだよなぁ。だってぇ、脆弱で愚かな人間だし余の崇高な考えがわかるはずないもんなぁ」


「よし斬ろう。そこで大人しくしていろ、せめてもの慈悲として一太刀で首を落してやる」


「いや怖すぎるだろお前……。とにかくだ、余はある使命があってここへきた。そして貴様には余の手伝いをする権利を与えてやろう。光栄に思うがいいぞ、人間」


「は?」と、京志郎は間の抜けた声をもらした。


(こいつはなにを言ってるんだ? こいつのほうこそ一度医者に罹ったほうがいいのでは……)


 もちろん、診てもらうべきはその狂った頭であるが。


「……今ものすごく失礼なこと考えたな?」


「いいや、まったく」


 へらっと笑う京志郎。


「……詳しい話は明日にでも聞かせてやるとしよう。ではな、佐瀬京志郎よ」


「待て」


 制止しようとした時、


「あっ」


 と、京志郎は目を丸くした。


 黒い蛙が、愛華へとぴょんと軽々と飛び乗った。


 完全に懐いている様子に、京志郎はようやくハッとする。


 すべて愛華を名乗るあの小娘の仕業だったらしい。

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