第2話 帰り道と家庭の温度

 夕暮れの校門を出たとき、風が少し冷たくなっていた。陽介は鞄の肩紐を握り直しながら、さっき閉じたノートの重みを思い出していた。

(……明日こそ言えたらいいんだけどな)

歩道の先に、部活帰りの生徒たちの姿がちらほら見える。笑い声が風に混じって流れてくる。それを聞きながら歩いていると、心の奥に小さな緊張と、ほんの少しの期待が同居しているのを感じた。


「……はあ」


息を吐く。今日の会議で言えなかったこと、先輩の言葉、そしてノートに書いた亮介への短い返事。全部が頭の片隅で同じ場所を回っているようだった。

家の前に着くと、窓から温かい光が漏れていた。鍵を回して玄関を開けると、夕飯のいい匂いが広がった。


「ただいまー」

「おかえり」


台所から母の声が返ってくる。包丁のリズムが止まり、かわりに皿を重ねる音がした。

靴を脱ぎながら、陽介はふと小さく笑った。家に帰ったときのこの温度は、いつもほっとさせてくれる。

リビングに向かうと、母がキャベツを盛りつけていた。


「今日ね、プリン安かったの。ほら、陽介と――」


少しだけ間が空いて、


「……亮介の分」


陽介の胸が、ちくりとした。


「二つ買ってきたんだ」

「だって、食べるでしょ? あの子も」


"あの子"という言い方が、母にとってどれだけ自然なのかが分かる口調だった。もう何年も、この家ではそれが当たり前になっている。


「……まあ、そうだろうね。ありがとう」


陽介が返すと、母は「はいはい」と笑ってサラダをテーブルへ運んだ。

夕飯の間、母は学校の話を聞きたがった。


「ところで、文化祭、準備進んでるの?」

「うん、まあ……ぼちぼち」


あまり詳しくは話さないが、母は深追いせず「無理しないでね」とだけ言った。それがなんとなく嬉しかった。

食事を終えて部屋に戻る。机の上には勉強道具と、閉じたままのノート。昼間から意識し続けていたその表紙を、陽介はそっと両手で持ち上げた。

椅子に腰掛け、ページを開く。

そこには、朝にはなかった青いインクの文字がすでに書かれていた。


――「緊張するのは悪いことじゃないよ。言えるタイミングは、陽介が決めていいんじゃないの」


読み終わるころには、胸の奥がじんわりと温かくなっていた。

(……わかってくれてるな、やっぱり)

それは、友達とは違う、亮介だからこそ、胸にすっと入ってくる言葉だった。

陽介はペンを取って、返事を書く。


――「うん、ありがとう。明日は言えるように頑張ってみる」


書き終えた文字が思った以上に素直で、少しだけ恥ずかしい。

ノートを閉じて机に置く。そのままベッドに倒れ込み、天井を見つめる。

(明日、ちゃんと言えるかな)

緊張よりも、どちらかというと期待の方が強かった。

しばらくして目を閉じると、部室の光景や先輩の言葉がゆっくり思い返される。


「おまえの案、悪くないと思うぞ?」


その声が頭の中で優しく響いた。

(うん……大丈夫。きっと)

まどろみの中で、机の上のノートが月明かりに照らされていることに陽介は気づかない。静かな光が表紙に落ちて、ページの端がゆっくりと揺れた。

こうして一日が終わっていく。

明日は、今日より少しだけ前に進める気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る