栄光と挫折

 洋平の広告代理店の業績は好調だった。

洋平は忙しく動き回りながらも、時間をやりくりして合宿制の自動車学校でオートマ限定の普通自動車運転免許を取得した。

その間も羽柴のデイトナのことが片時も頭から離れることはなかった。

ティーンエイジャーが高嶺たかねの花の美しい年上の女性に恋をした時と同じ気持ちだ。

 無機質な金属のかたまりであるデイトナだが、洋平にとっては擬人化された恋人そのものだった。

左右に回り込んだフロントウインカーレンズは切れ長のアイライン、美しく両サイドに張り出したリアフェンダーはセクシーなヒップライン、

鮮やかなイタリアンレッドのボディは真紅のルージュを引いた瑞々しい唇、そのどれもが洋平の心を魅了した。

その憧れのデイトナにもう少しで手が届くのだ。


 「洋平、先ずは本物のフェラーリに乗ってみたらどうだ。デイトナはその後でもいいんじゃねぇか?」

羽柴はそう言って洋平にオートマチックのフェラーリを何台か見せてくれたがどれもしっくりこない。

デイトナとの出会いがあまりにも強烈すぎて他のフェラーリに胸がときめかないのだ。

「羽柴さん、俺、やっぱ羽柴さんのデイトナに乗りてぇ!」

「そうか、オートマのフェラーリでも魅力を感じなかったか」

「はい、デイトナとの出会いが強烈過ぎました!」

「いいぜ、洋平。お前がそれほどデイトナにぞっこんなら譲ってやるよ」

羽柴のデイトナはレプリカながらボディ、内装、エンジンのどれをとっても完璧な状態だった。

そのままショーカーコンテストに出しても入賞できるレベルだ。

そんなデイトナを羽柴は1千万円丁度で洋平に譲り渡した。


 デイトナの契約は多忙な羽柴に代わって部下の大原が洋平の会社に出向いてきた。

大原とは羽柴の事務所で何度か面識があった。

「大原さん、消費税が掛かるんじゃないんすか?1千万だから80万。まさか税込みじゃないっすよね?」

「洋平さん、社長がね、1千万丁度で売買契約書にサインしてもらうようにって言ってたんですよ。もちろん消費税込みでね。

もし洋平さんが消費税の話を持ち出したら、念願のデイトナに乗れるようになったお祝いだって伝えるように言われてます。だからいいんですよ」

「マジっすか?なんか俺、羽柴さんに甘えっぱなしなんすよね」

「確かに社長は洋平さんには甘いですよね。でも、前に言ってたんですよ。洋平さんは弟みたいなもんだって」

「えっ、ホントすっか。ホントなら嬉しいな。羽柴さんって一人っ子なんすか?」

「いえ、弟さんがいたんですけど若くして病気で亡くなってましてね。あっ、この話は聞かなかったことにしといて下さいね。余計なことは喋るなって念を押されてますんで」


 その晩、洋平は羽柴に電話した。

「羽柴さん、消費税オマケしてくれてありがとうございました。ホントに何から何まで良くしてもらって、何て言っていいのか…」

「何言ってんだ洋平。お前が念願のデイトナに乗れるようになったお祝いだよ。気にすんな」

「ホントにありがとうございます。赤の他人の俺を弟さんみたいに可愛がってくれて…」

「弟?」

「あっ…」

「洋平、お前、大原から何か聞いたな?」

「あっ、いや、俺は何にも…」

「洋平、お前バレバレなんだよ。嘘ついてもすぐに分かるんだよ。確かにお前の調子のいいところは死んだ健三郎に似てるよ。だから面倒みてやりてぇって思うのかも知れねぇ。でもな、洋平は洋平、健三郎は健三郎なんだ。それに、あいつはもう帰ってこねぇしな」

「羽柴さん、俺、いつになるか分かんねぇけど、必ず羽柴さんの役に立てる男になってみせますから」

「おっ、そうか。楽しみに待ってるぜ」


 念願のデイトナの納車日になった。

納車場所の整備工場に出向いた洋平に、羽柴が整備を任せている担当メカニックが操作方法や注意点を丁寧に説明してくれた。

ウッドを基調にしたセンターコンソールボックスにはクラシックなトグルスイッチが並んでいる。

洋平の体格に合わせて作り替えたバケットシートに滑り込むと、全身を優しく包み込むようにホールドしてくれた。

皮巻きのステアリングの感触と匂い。

エンジンはV8、キャブレターではなくインジェクションなので始動にそこまで神経質になる必要はない。

イグニッションキーをアクセサリーの位置まで回し、電磁ポンプの作動音を確認すると最後までキーをひねる。

デロ、デロ、デロローン!

腹に響くV8の重低音が辺りにこだまする。

恍惚こうこつとした表情の洋平がそこにいた。

「デイトナちゃん、やっと俺の下に来てくれたんだ。これから末長く、仲良くやっていこうな」


 その日の夜、洋平はデイトナとドライブに出掛けた。

煙草を吹かしながらまばゆい夜景に包まれた都内をデイトナと走り回る。

幼い頃からの夢だった車の運転が今では現実となっている。

それも夢にまで見た憧れのデイトナだ。

「たまんねぇな!」

アクセルを踏み込むと腹に響くエキゾーストノートと共に、フロントウィンドウから見えるオフィス街の灯りが勢いよく後方へ飛んでいった。

洋平は心から満足していた。


 洋平が住んでいるマンションの1階は雨風しのげる屋内駐車場になっているが、それでもデイトナに車体カバーをかぶせて大切に保管した。

デイトナはすでに生産から30年以上経過していたが、羽柴が細部まで整備していただけあってエンジン、電装系に至るまでノントラブルの最高のコンディションだった。

洋平は暇さえあれば洗車していつもピカピカに磨いていた。

面倒なことは何でも人任せにしがちな洋平だが、デイトナの洗車だけは行きつけのガソリンスタンドで自ら手洗い洗車した。

洗車機で洗うと美しいボディに細かな傷が付いてしまうし、ガソリンスタンドの店員とはいえ、他の男がデイトナに触れるのが嫌だったからだ。

近くのコンビニに煙草を買いに行く時にもデイトナに乗っていった。

当然その距離だとエンジンは温まらない。

洋平はコンビニを出ると当てもなく都内を走り回った。


 洋平はデイトナに乗って旧盆で賑わう喜界島へ里帰りすることにした。

故郷に錦を飾りに行くのだ。

 島では旧盆が近付くと島外に出ていた島っちゅ(島民)たちが一斉に帰省する。

島っちゅたちは実家に帰ると先祖の墓を参り、日が暮れる頃から各集落の公民館で行われる盆踊りに参加する。

老若男女の分け隔てなく、皆で島相撲の土俵の周りをグルグルと踊り続け、疲れれば踊りの流れから離れて休み、元気になるとまた踊りの輪の中に流れ込む。

広場では幼い子供たちが駆け回り、屋台の前は長蛇の列をなす。

夜が更けるまで何時間も踊り続け、フィナーレが近付くと締めの六調の激しいリズムに合わせてピークを迎える。

一糸乱れぬその動きからは島っちゅたちの連帯感の強さがにじみ出ていた。

フィナーレでは公民館の屋上でファーヤーダンスを踊る青年団と打ち上げ花火。

都会では決して見ることのできない光景だ。

夜更けに祭りが終わると辺りは静寂に包まれ、フライドポテトの包み紙が風に舞い、ビールが入っていたプラスチックのコップが地面の上をコロコロと転がっていく。

祭りの後の静けさはいつも寂しくはかない。


 洋平はまだ明けやらぬ早朝にデイトナに乗り込むと東京から鹿児島まで半日掛けて高速道路を飛ばした。

夕方前に鹿児島に到着すると鹿児島北埠頭で喜界島行きのフェリーにデイトナを載せた。

ほとんど休憩なしのロングドライブだったが相棒がデイトナだと疲れを感じなかった。

港とフェリーを繋ぐスロープの段差を通る時は、車高が低いデイトナの腹をこするんじゃないかとヒヤヒヤした。

 デイトナだけフェリーで運んで自分は飛行機で島へ向かえば、この後11時間もフェリーに揺られることはないのだが、片時もデイトナと離れたくない洋平は1等客室を予約していた。

洋平はデイトナをフェリーに載せると車両を固定するラッシャーたちに、

「頼むぜぇ。俺の命の次に大切な車なんだ。傷付けないでくれよなぁ」

とプレッシャーを掛ける。


 フェリーの食堂は満席で何人もの顔見知りの島っちゅに会ったがその中に同窓は誰もいなかった。

内地で働いている同窓たちは長期の休みが取れず、ハイシーズンの割高な時期でも飛行機で帰省する者が多いのだ。

 辺りが薄っすらと明るくなり始めた午前4時半、フェリーは喜界島の湾港に到着した。

フェリーからデイトナを下ろす時も洋平はゆっくりと慎重に運転した。

すぐ後ろにはコンテナに爪を差し込んだフォークリフトが待機していたがそんなことにもお構いなしだ。

「やっと着いたぜ、喜界島。この美しい朝日は俺とデイトナの帰省を祝ってくれてるみてぇだな」

洋平は早朝の故郷の島をデイトナで1周することにした。


 先ずは朝日を背に受けながらスギラビーチへ向かう。

洋平はスギラビーチに着くとデイトナを路肩に止めて芝の上へ降り立った。

朝日はこの時間になると、喜界島の背骨である百之台越しにスギラビーチの海をキラキラと輝かせていた。

「やっぱ綺麗だよなぁ、スギラの海はよぉ」

洋平は煙草をくゆらせながら呟いた。

 子供の頃から見慣れた故郷の海だが、デイトナでドライブに行く湘南の海に比べると同じ日本の海とは思えないほど美しかった。

煙草を吸い終わると、足元に火の点いたままの煙草を投げ捨ててグリグリと靴底で踏みにじる。

散り散りになった吸い殻を拾おうともしない洋平。

吸い殻の破片はそよそよと風に飛ばされていった。

故郷の海の美しさに感動しながらも、誰かがこの海を美しく保ってくれてることにまでは考えの及ばない洋平だった。


 スギラビーチから県道に戻り南下する。

荒木集落の入口から右折すると目の前に荒木港が見えてきた。

野球のグラウンドほどの小さな港だが、海底まで透き通った海はとても美しい。夏場は港の中で海亀が泳いでいることもある。

 洋平は誰もいない港の駐車場でステアリングを左一杯に切り込みアクセルペダルを踏み込んだ。アクセルターンをするつもりだ。

デロデロデローンとV8サウンドを響かせながらキュルキュルとタイヤが鳴き始めるとデイトナはテールを右に振り始めた。

辺りは白煙に包まれゴムの焼けた臭いが鼻をつく。

突然、V8のトルクフルなエンジンがテールを勢い良く右に振った。

洋平に凄まじい横Gが掛かる。

「うわっ、やべっ!」

洋平は咄嗟とっさに逆ハンを切りながらアクセルペダルから足を離した。

いきなりガクンとデイトナの回転が止まる。

「うひゃー、ヤバかった。このまま海に突っ込んでたら洒落になんねぇぜ。故郷に錦を飾るどころか、皆んなの笑いもんになっちまうとこだった」


 荒木港を左折して細い上り坂へ右折すると、大海原を臨む芝生の広場が見えてくる。

なだらかな芝の丘の上には小さな東屋が建っていてテーブルと椅子が設置してある。

そこから青い海を見下ろすと遠くには奄美大島が見渡せた。

ウリバマ。

元来スピリチュアルといわれる喜界島だが、その中で最も神聖な場所がウリバマだ。以前は神事も執り行われていた場所でもある。

喜界島は数年前に高名な霊能力者が訪れた時、余りの霊力の強さに喜界空港に着陸した飛行機から降りることができなかったという逸話いつわが残っているほどだ。

ウリバマは眺望も素晴らしく、ザトウクジラが北の海から下りてくる冬季には親子クジラが仲良くブローやブリーチングする姿を楽しめる場所でもある。


 ウリバマから県道へ戻ると東へ向かう。

手久津久てくづくの墓地下を抜け、左手に黒糖の精糖工場跡地の煙突を見上げながら上嘉鉄かみかてつへ向かう県道で洋平はアクセルを踏み込んだ。

人家のないサトウキビ畑と防風林に挟まれた県道にデイトナのV8サウンドがデロデロとこだました。

そのまま県道を北上すると島の東側にある早町そうまちが見えてくる。

まだ7時前なので早町に一軒だけあるスーパーのヨネモリストアは開店していない。

ヨネモリストアの一杯立てのドリップ珈琲が飲みたいところだがそのまま通過した。


 県道から斜めに右折して志戸桶しとおけ集落の細い道を下っていく。

他者に対する迷惑などかえりみない洋平でも、早朝の集落の細い道ではアクセルを緩めて静かに走った。

9月になるとこの細い道路の両端には刈り取られた胡麻の束が延々と並べられる。

胡麻の実を乾燥させるために道路端で干すのだ。

この光景を見て誰かがセサミストリートと名付けた。


 志戸桶海水浴場を越えると左手に防風林、右手に鮮やかな青い海が広がる。

この辺りは東経130度線より東側になるので右手の海は太平洋だ。

左手を見上げると喜界島の最北端に位置する白亜のトンビ埼灯台が見えてくる。

トンビ埼は冬に強いコチ(北東風)が吹くと海が一番荒れる場所でもある。

細い海沿いの道には潮風に飛ばされた細かな砂が乗って滑りやすい上に、放し飼いの山羊も歩き回っているので洋平は慎重に運転した。


 トンビ埼を西に回り込むと右手にハワイビーチが見えてくる。誰が名付けたのかは分からないが珊瑚に囲まれた小さなビーチだ。

一見タイドプールの様に見えるがわずかな珊瑚の隙間から潮が出入りしている。

その中には150種類近い珊瑚が生息していると言われている。

満潮前後の時間を狙ってシュノーケリングをすると、眼下にはお花畑のような色とりどりの珊瑚が広がり、南の海の色鮮やかな小魚たちを愛でることができる。


 小野津集落の先にある海亀の産卵地でもある小野津ビーチを抜け、小野津の緑地を横切る東経130度線を飛び越え、伊実久いさねくのサトウキビ畑の間を通り、

突き当たりの県道を右折すると右手に池治浜が見えてくる。

洋平の実家であるホテルオーシャンがある海岸沿いの集落だ。


 島では自分たちの集落から見える青い海のことを、

赤連あがれんブルーが一番綺麗だ!」

とか、

「いやいや、花良治けらじブルーに勝る海はない!」

のように、集落自慢が始まると決して主張を曲げない。

洋平も御多分に洩れず池治ブルーが一番綺麗だと確信している。

確かに飛行機から見下ろす池治ブルーは飛び抜けて青く、そして広い。

洋平が自慢したくなるのも分からないではない。


 洋平は池治浜の駐車場にデイトナを止めるとアダンの木のトンネルを抜けてビーチへ歩いていった。

足元には細かく砕けた珊瑚のかけらが散りばめられている。

潮の干満差が激しい喜界島では干潮の今の時間には広大なビーチが現れていた。

 ビーチをザクザク歩き、潮風で表面が風化した木製のベンチに腰を下ろすと煙草に火を点けた。

青い空に煙草の白い煙が、初夏のたかたろう(入道雲)のようにモクモクと舞い上がった。

「やっぱり何にもねぇ島だな」

 島一周のスタート地点となったスギラビーチはもう目と鼻の先だ。

ゆっくり走っても1時間もあれば一周できてしまう喜界島だが、手久津久の巨大ガジュマルや阿伝あでんの珊瑚の石垣、サトウキビ畑の一本道など見所は沢山ある。

 数年振りに島に帰ってきて、最初に見たスギラビーチの美しさには感動を覚えたものの、幼少期からこの恵まれた自然の中で育った洋平にとってこれらの風景は当たり前過ぎてすぐに見慣れてしまった。

一度島外に出て、都会の世知辛さに揉まれると島の自然を懐かしく思う若者もいるのだが、盲目的に東京への憧れだけで生きてきた洋平は何も感じなかった。


 旧盆前後は夜になると各集落の公民館や居酒屋で世代ごとの同窓会が開かれ旧交を温める。島では同窓の絆がとても強いのだ。

日が暮れるとライブハウスSABANIに洋平の同級生たちも集まってきた。

その頃には洋平がデイトナで帰省している噂が広まっていた。

洋平はデイトナをSABANIの駐車場に乗り付けてみんなの注目を浴びた。


 幼少期からお調子者で口だけ達者な洋平は、

「また洋平がホラ吹いてるぞ」

「あいつはフリムンだからな」

といつも馬鹿にされて相手にされなかった。

フリムンとは島口で『愚か者』と言う意味だが、一方で『神に触れた者』と言う神がかり的な意味を持つ言葉でもある。

洋平の場合は前者なのだが、洋平自身は自分が何か特別な力を授かっていると信じていた。

いつかビッグになって、自分を馬鹿にしていた奴らを見返す日が必ずやってくると信じていたのだ。

「洋平、凄いな!お前、いつかフェラーリに乗るって言ってたけど本当に買ったんだな」

「まあな」

「東京の大学出て社長してるんだってな」

「ちっせぇ会社だけどな」

「洋平、私をフェラーリに乗せてよ。あんたも車もめっちゃイケてるね!」

同窓生の中で一番のべっぴんさんだった奈緒にそう言われた時には天にも昇る心地だった。


 にぎやかなSABANIのカウンター越しにバーテンダーの武志が話し掛けてきた。

「洋平、みんなの人気者だね」

「ありがとう、タケちゃん。東京から長距離運転して帰ってきた甲斐があったってもんだよ」

「詩織と謙造を見かけないけど帰ってきてないの?」

「詩織は店が忙しいみたいで帰ってこれないって。謙造は警察学校に入ったでしょ。内地だと旧盆は関係ないから休みは取れないんだって」

橘詩織と木下謙造は同じ集落で育った同級生だ。3人は幼い頃からいつも一緒に遊んでいた。

洋平が周りからホラ吹き呼ばわりされても詩織と謙造だけはいつもかばってくれた。

特に詩織は空手を習っていたので、洋平をいじめる相手をコテンパンにやっつけてくれた。

「そっか。2人にもフェラーリ見て欲しかったでしょ?」

「うん、また今度ね。それより、タケちゃんもフェラーリに乗せてやるよ」

「俺はいいよ。車のことはよく分かんないし、飛ばされるとすぐに車酔いするから」

洋平はみんなにチヤホヤされて、生まれて初めて故郷の島を居心地が良いと感じていた。

『これからは島に帰ってくるたびにみんなにチヤホヤされるんだろうな。最高に気分がいいぜ!』


 東京に戻ってからも洋平は忙しい日々を送っていた。

どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、デイトナを飛ばせば気分がスッキリして明日への活力がみなぎってくる。

洋平にとってデイトナは大切な恋人であると同時に、かけがえのない存在となっていた。


 デイトナに乗り始めて2年ほど経ったある日、洋平の元上司である元請けの広告代理店の社長、大西から呼び出された。

「洋平、うまい話があるんだけどさ、お前も一口乗らないか」

「何すか?うまい話って」

「FXって聞いたことないか?正確には外国為替証拠金取引っていうんだけどさ。俺の先輩がFXの運用代行しててさ、元手があれば結構儲けさせてくれるみたいなんだ。

洋平、お前もフェラーリのレプリカなんて乗ってないでさ、FXで一儲けして本物のフェラーリに乗ったらどうだ」


 洋平はデイトナに対して何の不満も無かった。

ただ、会社が儲け出して金持ち連中と付き合うようになると、

「何だ、レプリカかよ。本物のデイトナかと思って損したぜ。中身はただのアメ車だろ」

と周りのフェラーリ乗りから馬鹿にされるのがうとましかった。

そんな彼らにマクバーニー・コーチクラフトやマイアミバイスの話をしても無駄だった。

彼らはフェラーリにステイタスを感じているのであって、どんなに素晴らしい芸術作品のような仕上がりであっても決してレプリカは認めない。


 見栄っ張りの洋平がそんな嘲笑にうんざりしていたのも事実だ。

本物のフェラーリに乗ってそんな連中を見返してやりたいとも思っていた。

「洋平、金なら亜細亜銀行が貸してくれるから大丈夫だ。お前の実家のホテルを担保にすれば貸してくれるぜ」

「えっ!あんなど田舎のホテルでも担保に取ってくれるんすか?」

「あぁ、大丈夫だ。人数集めてデッカい金を動かした方が条件が有利になるんだ。どうだ、この話、乗ってみないか?」


 洋平の脳裏をフェラーリマラネロ550がかすめた。

マラネロはデイトナの流れを汲むV型12気筒エンジンでフロントエンジンリア駆動のスーパーカーだ。

オートマチックトランスミッションは無いが、運転に慣れてきた洋平はマニュアルトランスミッションの限定解除を受けようと考えていた。

「大西さん、返事はもう少し待ってもらえないすか」

「1週間くらいなら待てるけどさ、早く返事しないと仲間外れにしちまうぞ」


  洋平は羽柴に電話した。

「羽柴さん、フェラーリマラネロって手に入りますか?」

「何だ、もうデイトナは飽きたのか?」

「いえ、そんなんじゃないんすけど…、」

「いい車だぜ。ハイパワーでとにかく面白い車だ。でも、マニュアルしかねぇぞ」

「ミッションは前に羽柴さんに紹介してもらった学校で限定解除しようと思ってます」

「そうか。そこまで考えてるんならそれもいいかもな」

「もう一つ、聞きたいことがあるんすけど…、」

「何だ?」

「羽柴さんはFXってやったことあります?」

「FXか。典型的なハイリスクハイリターン商品だな。今の世界経済は比較的落ち着いてるみてぇだが、アメリカとC国の貿易摩擦もエスカレートしてるしな。何かコトが起これば大損しかねねぇぞ。

的確な情報と余程の知識がねぇと手ぇ出さねぇ方がいいな。投資のやり方次第じゃ元本どころかそれ以上のもんを全部持っていかれるぜ」

「先輩の知り合いが運用代行してるらしくって、そんなに知識がなくても投資できるみたいなんすよ。利益が出たらスパッと売り抜こうと思ってます。それに、銀行が島の実家を担保に金を貸してくれるみたいなんすよ」

「それって亜細亜銀行じゃねぇのか?あの銀行はC国と繋がって北海道や南西諸島の土地を買いあさってるって話だ。洋平みたいに一攫千金狙ってる奴をカモにする銀行だ。マジで気を付けろよ!」

「そうなんすね。気を付けます」

「それとな、洋平。デイトナに乗らなくなったら俺に声をかけてくれよ。あのデイトナは俺にとっても特別な車なんだ。洋平だから譲ってやったんだぜ」

「羽柴さん…、すんません」

「気にするな。洋平がフェラーリに乗りたいって言うなら俺は反対なんかしねえよ」


 洋平は電話を切った。

『やっぱ羽柴さんは手堅いぜ。でも、上手いことやったら莫大な利益が出るはずだ』

洋平は大西に電話した。

「大西さん、この間の話、俺も一口乗らせて下さい。宜しくお願いします」

 洋平は実家のホテルを担保に亜細亜銀行から借り入れた2千万円と自己資金1千万円の合わせて3千万円を大西の先輩経由で投資した。

上手くいけば短期間でマラネロのオーナーになれるはずだ。洋平はマラネロを運転する自分の姿を妄想していた。


 年が明けて2020年になった。

洋平の広告代理店の業績は好調だったが、2月に入ると全国に不穏な空気が広がった。

横浜に入港したクルーズ船『ダイヤモンドプリンセス号』で未知のウイルスが蔓延まんえんしたのだ。

最初はすぐに収束するだろうと予想されていたが、コロナショックは世界中に飛び火して日本国内でも緊急事態宣言が発令された。

フェイクニュースで物資は不足し、予定されていたイベントは軒並み中止となった。

その影響で洋平の広告代理店も業績が悪化した。

投資していたFXもドル円相場の変動で明暗が分かれた。

心配になった洋平は大西に連絡した。

「大丈夫だよ、洋平。ヤバくなったらその場で精算できるし、今でも数千万は利益が出てるんだからさ。

儲けはいくらか減るかも知れないけど損することはないからさ」


 しかし大西が依頼した運用会社は大損失を出してしまった。

その噂を聞いた洋平は大西に連絡したが携帯電話はいつも留守電になってしまう。

会社を訪ねても扉は閉ざされ営業している気配すらない。

大西は夜逃げしていたのだ。

大西はFX取引を始める前から先物取引きに失敗してかなりの借金を抱えていた。

一発逆転を狙った大西は北海道の実家を担保に亜細亜銀行から1億円近い金額を借り入れて投資していたが、自分の会社だけでなく実家の牧場も全て失っていた。


 コロナショックと元請けの大西の会社の倒産でテレビ広告の仕事は激減し、洋平の広告代理店も窮地に立たされた。

FXの借金の返済の目処めども付かない。

このままでは大西のように実家のホテルまで失ってしまう。

苦労して一代で築き上げた会社も潰したくないし、祖父の代から続いている実家のホテルも失う訳にはいかない。

 景気の良い時にはそこそこ稼いでいたものの、金持ち連中と遊び回って金使いが荒かった洋平にはそれほど蓄えは残っていない。

手元に残っていた預貯金は会社の資金繰りで底を付きかけていた。

高く売れそうな資産はデイトナだけだ。

デイトナは羽柴が信頼していた整備工場にメンテナンスを任せていたので完璧な状態を保っている。

工場の社長にデイトナの売却について相談してみた。

「大林さん、あなたが羽柴さんからデイトナを買った頃は1千万でも安いくらいだったんですよ。あの完璧な状態、下手なフェラーリよりもずっと価値があった。でもですね、今は時期が悪すぎる。コロナの影響で高級車が全然売れないんですよ。うちで買い取るならどんなに頑張っても300万が限界です」

洋平は途方に暮れた。

浮気がバレて最愛の恋人に愛想を尽かされた気分だった。

元はと言えば洋平の浮気心がこの事態を招いたのだが。


 不意に携帯電話の着信音が鳴った。

発信元は羽柴だった。

洋平はためらいながらも電話を取った。

「もしもし、羽柴さん…」

「洋平、大丈夫か?工場から連絡が入ってな。金に困ってんのか?」

「すんません、せっかく羽柴さんが忠告してくれたのに、俺、FXの投資話に乗っかっちまって、実家のホテルも亜細亜銀行に持って行かれそうなんです。

頼みのデイトナもこんな時だと高くは買い取れないって言われて…、」

「洋平、水臭ぇなぁ。何で最初に俺に連絡してこねぇんだよ」

「だって俺、羽柴さんが大切に乗ってたデイトナまで失いそうなんすよ。連絡なんかできる訳ないじゃないっすか」

洋平は半ベソをかいていた。

「よく聞けよ、洋平。デイトナは俺が売値と同じ1千万で買い取ってやる。それとな、亜細亜銀行から実家を担保にいくら借りた?」

「えっ、なんで…、」

「洋平、いくらだ?」

「2千万です」

「じゃあ俺が残りの1千万を貸してやるからデイトナを売った金と合わせて亜細亜銀行の借金を完済しろ。さすがに俺も個人でその金は貸せねぇから会社からの融資ってことにするぞ。それと税務署に言い訳が立つように洋平の実家を担保に取らせてもらうぜ。返済はある時払いでいいから利息だけは何とか払ってくれよな。利息さえちゃんと受け取ってれば税務署にも申開きが立つってもんだ」

「羽柴さん、ホントにそれでいいんすか?」

「当ったりめぇだ。洋平、お前は出来は悪いけど、俺にとっては可愛い弟みたいなもんなんだよ。それにな、前にも話したが亜細亜銀行ってのはな、C国とグルになって日本の土地を買い漁ってやがるんだ。そんな非国民企業の好き勝手にさせてたまるかってんだ」

「羽柴さん、ありがごうございます。この御恩は一生忘れません!」


 洋平の人よりひいでた時代を先取りする能力は、他力本願な儲け話には何の役にも立ってくれなかった。

羽柴のお陰で実家のホテルだけは失わずに済んだものの洋平の会社の業績不振は続いた。

洋平は会社存続のためにどんな小さな、どんな地味な仕事でも誠実にこなしたが、世界中を巻き込んだコロナショックの不況の波からは中々抜け出すことができずにいた。

仕事の合間に月末の資金繰りのために東奔西走とうほんせいそうする毎日。

何とか月末を乗り越えても、月が変われば再び繰り返される追い込みの日々。

過労で疲れが蓄積し、夜中に目覚めると不安で眠れなくなる。

ようやく夢をかなえて立ち上げた自分の会社なのに、今ではただその歯車の一つとしてエンドレスに回り続けているだけ。先の見えない焦燥感。

洋平は心底疲れ切っていた。疲労と焦りからいつもイライラしていた。

 そんな中、社員たちは沈没寸前の船から逃げ出すように一人、また一人と会社を去り、最後まで残ってくれていたのは事務員の美幸だけになってしまった。

美幸はそんな最悪と思える状況下でも、

「大丈夫ですよ、社長。何とかなりますって」

と笑顔で洋平を励ましてくれていた。

 ある日、美幸がスケジュール管理のミスを犯した。

美幸も事務仕事以外に洋平のスケジュール管理や顧客対応など多忙を極めていたのだ。

 日々追い込まれている洋平に、美幸を思いやる余裕などなかった。

「何やってんだよ、美幸ちゃん!こんな大事な時にそんなミスしてたら大切なお客さんが離れて行っちゃうだろ!」

『バンッ!』

普段は笑顔を絶やさない美幸が、両手で激しく机を叩くと勢いよく立ち上がった。

今にも泣き出しそうな表情で下唇を噛み締める美幸。

「もう無理!限界です!少しでも社長の役に立ちたいって頑張ってきたけど、今の社長を見てることの方が辛いんです。私、辞めさせていただきます!」

「み、美幸ちゃん、ごめん。俺、そんなつもりじゃ…」

 今のオーシャンエンタープライズはすでに洋平一人の力で再建できる状態ではなかった。

そこに美幸の退社がとどめを刺した。


「なんでこんなことになっちまったんだよ。ずっと順調にいってたのによぉ…」

一人きりになった事務所の中で洋平は泣き崩れた。

子供のようなその泣き声が泣き止むことはなかった。


 翌日から洋平はベッドから起きることも、食事をとることもできなくなっていた。

携帯やメールの着信音にすら反応できない。

うつ状態のどん底におちいったのだ。

そんな洋平を見かねた羽柴が洋平に委任状を書かせ、懇意にしている司法書士にオーシャンエンタープライズの清算手続きを依頼した。

会社は大きな負債を抱えることもなく清算手続きを終えた。


 自分のサクセスストーリーの象徴だった会社も、自尊心も、最愛のデイトナまでも失った洋平は、その年の暮れに島の実家にひっそりと身を寄せた。

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