フリムン

ぼんたろう

不機嫌なベスパ

 目の前には東シナ海の紺碧こんぺき色の海が広がり、その海の色は雲一つない青い空へと繋がっている。

青い空の下には平べったい奄美大島が左右に広がっていた。

紺碧色の海は単色ではなく微妙にコントラストが違う。

紺碧色と瑠璃るり色のグラデーションが交互に続いているのだ。

海底が砂だと鮮やかな紺碧色に、珊瑚礁だとより深い瑠璃色に変化する。

さらに日差しの当たり具合でその色彩は刻一刻と変化していく。


 大林洋平はそんな景色が一望できる喜界島のスギラビーチにいた。

洋平はビーチから一段上がった緑地に設置してある木製のベンチに片膝を立てて座り煙草を吹かしていた。

椅子とテーブルが一体になったベンチは何年も吹きさらしになっていて、表面は荒れて艶はなくなり、所々ささくれて座るときしんだ。

誰かがテーブルの上でキャンプ用のガスコンロを使ったのだろうか、一部が黒く焦げている。

洋平が吐き出した煙草の白い煙は、雲のように青い空へ上がっていくと風に吹かれて散りじりになる。

洋平はそんな様を何とはなしに眺めていた。


 奄美群島にある喜界島はまだ1月だというのに温かく、初冬から春まで吹き続ける冷たい北風も小休止していた。

暖かな日差しが優しく包み込んでくれるのでTシャツ1枚で過ごせる陽気だ。

スギラビーチは砂浜以外の三面が珊瑚礁に囲まれていて一見タイドプールのように見えるが、正面左側にある小さな出入口がそのまま東シナ海に繋がっている。

ビーチのあちこちから聴こえてくる美しいイソヒヨドリのさえずりが波音に溶け込んでいく。

このように風光明媚ふうこうめいびなスギラビーチだが、島で生まれ育った洋平にとっては当たり前過ぎて何の感動も覚えないごく日常的な風景だった。

「はぁ〜、平和だねぇ。内地じゃコロナコロナって大騒ぎしてるっていうのによぉ」


 不意に洋平のスマートフォンが鳴った。

「は〜い、もしもしぃ」

間の抜けた声で洋平がこたえる。

「もしもしじゃねえだろうが!お前は小麦粉1袋買いに行くのに一体何時間掛かってんだ。早く帰ってこないとお客さんの晩飯の用意ができんだろうが!」

電話は父親のすなおからだった。

洋平は直に言い付けられた買い物に出掛けてそのままスギラビーチで油を売っていた。

いつものことだが、直は洋平が買い物に出掛けていつまで経っても戻らないので痺れを切らせて電話してきたのだ。

「えっ、すぐ戻るよ。買い物帰りにスギラで一服してただけだよ」

「このアンポンタンが!はよ帰ってこい!」

乱暴に切られた電話からはツーツー音が鳴っていた。

「年寄りはせっかちだねぇ。俺みたいに大らかな人間にならないと長生きできねぇよ」


 洋平の実家は島でホテルを経営している。

ホテルといっても名ばかりで見た目は和風の旅館そのものだ。

直は洋平が大学生の時に一大決心して、雨漏りと白蟻に食い荒らされた建物を改築した。

名称も大林旅館からホテルオーシャンに変更した。

 喜界島は南北に東経130度線が走っていてその東側の海が太平洋、西側は東シナ海になる。

ホテルオーシャンがある池治いけじ集落は東経130度線より西側にあるので目の前に広がる海は東シナ海だ。

しかし洋平は、

「ホテルオーシャンが絶対にいいって!ホテルイーストチャイナシーなんて全然イケてねぇよ。名前がクールじゃねぇと今時のお客さんは泊まりに来てくれねぇよ。それにさ、いつかは俺がこのホテル継ぐんだからよ」

とホテルオーシャンを推した。

「クールって言うけどよ、オーシャンの方が常夏とこなつのイメージで暑苦しくねぇか?それにうちは冷暖房完備なんだから夏でも十分涼しいだろ」

「ふふっ、親父。クールってぇのは涼しいって意味で使ってんじゃねぇよ。まっ、その辺のことは俺に任せとけば間違いねぇって」

洋平は鼻で笑って自分の意見を押し通した。

 直は洋平の『跡継ぎ』の一言で一大決心したのだが内心では、

『コイツ、本当にホテルを継ぐ気あるのか?子供の頃からてーげーな奴だったしな』

とお調子者の洋平の言葉に半信半疑でもあった。

てーげーとは『いい加減な』という好ましくない意味と同時に『良い加減に程々に』という肯定的な意味でも使われる島口しまぐち(=島の方言)だ。

洋平に関しては好ましくない方の意味で使われているけれど。


 ホテルオーシャンは規模こそ小さいものの立地は抜群に良かった。

陸側の母屋から片側1車線の県道を渡ると駐車場がある。そこからアダンの防風林越しに遠浅の池治浜が見下ろせる。

砂浜は波打ち際を越えるとすぐに岩礁になり裸足では痛くて歩けなくなるが、波打ち際から100mほど先にあるリーフ(外礁)の先の海底は広大な砂地になり、色鮮やかな青い海が広がっている。これが『池治ブルー』と呼ばれるゆえんだ。

 夕暮れ時に視線を西側に向けると、奄美大島に沈んでいく美しい夕日に見とれて時間が過ぎるのを忘れてしまう。

夕日が沈む前の西日が作り出す一筋の光の道が海上をキラキラと輝かせ、その夕日が奄美大島に近づくと海と空が同時に紅く染まる。

ゆらゆらと島影に沈んでいく夕日はさながら線香花火の最後の瞬間のように、辺りを一瞬真っ赤に染めたかと思うとフッと島影に消えていく。

何度見ても飽きることのない、そして一日たりとも同じ風景はない。

 

 洋平が新しい煙草に火を付けると再びスマートフォンが鳴った。

「何だよ、しつこいなぁ。今戻ってる途中だよ!」

「洋平、久し振りだな。またどこかで油売ってサボってんのか?」

「えっ?」

洋平は慌ててスマートフォンの画面を見た。

聞き覚えのあるその声は東京の羽柴大二郎だった。

「羽柴さん、お久し振りっす。別にサボってた訳じゃないっすよ。外回りの営業も大事なんすよ」

「そうか、元気そうで何よりだ。ところで、2月に入ったらそっちへ行こうと思ってるんだが宿は空いてるか?」

「えっ、マジっすか。もちのろんっすよ。バッチリサービスさせてもらいますから。羽柴さんには足向けて寝られないくらいお世話になってんだから」

「サービスはいいよ。ちゃんと料金取ってくれねぇと次から行きづらくなるからな」

「も〜う、羽柴さんったら欲なさすぎ〜。全然変わってねぇなぁ。日程が決まったらすぐに知らせて下さいよ」

「決まったらすぐに連絡するよ。じゃあまたな」

「はい、失礼します」

洋平は電話を切った。

「羽柴さんに会える。マジで嬉しいな」

洋平は東京で自分の会社を潰した時に羽柴に助けてもらった恩義がある。


 洋平は喜界島の高校を卒業すると東京の大学に進学した。

大学は私大の文系で成績がそこそこの洋平でも合格できる大学だった。

何よりも洋平がこだわったのは『東京の大学』だった。

決して安くはない学費は母の紀子が親に頼み込んで、鹿児島本土にある実家の山を売って工面した。

 そんな洋平の口癖は、

「東京でビッグになって島の奴らを見返してやる!」

お調子者で口だけは達者な洋平は大学の先輩たちに取り入るのが上手で可愛がってもらえた。

コンビニや居酒屋でコツコツバイトするタイプではなく、先輩の口利きで紹介された芸能人やアイドルが出演するイベントのバイトに精を出した。

洋平は派手できらびやかな生活に憧れていたのだ。

バイト中に運よく芸能人と一緒に写真に収まると、いかにも親交があるかのように島の同窓たちに送りつけて自慢した。

 

 洋平が大学に入学した年に世界を震撼させたリーマンショックが起こり、卒業の前年には東日本大震災が発生した。

洋平は震災当日に福岡の博多駅リニューアルイベントのバイトで東京を離れていたので難を逃れた。

その頃の洋平は広告代理店のバイト3年目でバイトリーダーを任されるようになっていた。

震災の影響でJR博多シティのイベントは直前に中止になり、その後しばらくはイベントやバラエティ番組自粛ムードの中で仕事は激減していった。

『こんなに自粛ばっかしてたら経済回んなくなるんじゃねぇの?復興と経済は車の両輪だろ』

洋平は長引く自粛ムードに疑問を抱いていた。

大学卒業後はバイトしていた広告代理店に就職する約束をしていたので特に就職活動はしていなかったが、他の卒業生たちはリーマンショックや震災の影響で就職難だった。


 広告代理店に就職したお調子者の洋平にはひいでた才能があった。

時代の流れを先取りする嗅覚だ。

街を歩いている時や電車通勤の車内、仕事中の出先でも常にアンテナを張り巡らせていた。

若者のファッションや会話、メイク、アクセサリー諸々。

洋平の観察の対象は若者だけでなく30代のOLやサラリーマン、さらに上の世代まで際限ない。

何が流行って何が廃れていくのか。雑誌やTV、ラジオに至るまでメディアは常にチェックしていた。英会話は出来ないが海外のドラマやバラエティ番組のチェックも怠らない。海外のトレンドは数年後に必ず日本で流行るからだ。

取引先やテレビ局関係者の話にも聞き耳を立て、洋平の的確な予測は上司や先輩を驚かせた。

 洋平の立ち上げた企画はことごとく当たり成果を上げた。

小さな会社だったので洋平の功績は大きく、入社2年後には営業課長の肩書きが付いていたが、洋平はそれだけでは満足しなかった。

一国一城の主、それが洋平の夢であり目標でもあった。


 洋平はその後も実績を積みながらチャンスをうかがっていた。

そんなある日、社長の大西に呼ばれた。

「洋平、お前もそろそろ独立してうちの下請けやってみないか。お前なら十分やっていけると思うぜ」

大西は洋平の企画力の的確さは評価していたが、その分社内での自分の存在感が薄れてきたのを感じ取っていたのだ。

本心は厄介払い、しかし、洋平の利益に直結する企画力は捨てがたい。

「でもな、洋平。当たりそうな企画があったら先ずは俺に相談してくれよな。売り込みならコネがある俺に任せた方が安心だろ」

この辺りは抜かりのない大西だった。

 洋平は念願の広告代理店『オーシャン・エンタープライズ』を立ち上げ一国一城の主となった。

震災後の自粛ムードも和らぎ、開業後は薄利ながらも次から次に大西の下請け仕事が回ってくる。

洋平も企画を立ち上げ大西経由で大手広告代理店に売り込んだりと目が回るほど忙しかった。

割の悪い仕事でも嫌な顔一つせず引き受けたので会社は業績を伸ばし、数人の従業員を雇えるまでに成長した。


 そんな洋平には密かなコンプレックスがあった。

車の運転免許証を持っていないのだ。

高校3年生の時に島の自動車学校に通っていたが、あまりの運転センスの無さに教習の度に教官に頭を小突かれ、仮免許試験にも3回落ちて心が折れてしまった。

普通自動車免許を取ることはできなかったが、入学料免除で小型自動二輪コースへ移り、半分お情けで免許だけは取得していた。

公共交通網が整った都内では車やバイクがなくても不便はないが、洋平にはイタリア製のスクーター、ベスパに乗るという夢があった。

洋平が生まれる前に放映されていたテレビドラマの再放送を観て、松田優作が乗っていた白いベスパに憧れていたのだ。

今の令和の時代だとその探偵ドラマはNGワードが多過ぎて再放送できないだろうけれど。


 洋平は社長業にも慣れて時間のやりくりがつくようになっていた。

それに今なら経済的にも余裕がある。

ある日、洋平は営業の帰りに郊外にあるベスパ専門店へ向かった。

店内には50ccから250ccのベスパが所狭しと並べてある。

オーナーは小型自動二輪免許しか持たない洋平に、

「探偵物語の松田優作やローマの休日のグレゴリー・ペックはガタイがいいからニーゴー(250㏄)のベスパが似合ってたんですよ。

小柄な日本人がニーゴーに乗ると猿がぶら下がってるみたいで実は似合ってないんです。

その点100㏄のスモールベスパだと小柄な日本人でもバランスが良くってバッチリ似合うんですよね。

本質を知ってるベスパ乗りはね、中型免許を持っていてもスモールベスパに乗るみたいな、これぞ江戸っ子の粋ってもんなんですよね」


 今の時代に江戸っ子の粋が通じるかどうかは別にしても、このセールストークは見栄っ張りの洋平のハートを鷲づかみにした。

その場でベスパ100の購入契約を交わした。

それにしてもこのオーナー、250ccを熱望して来店した小柄な客にはどんなセールストークを使っているのだろう。

「ニーゴーはトルクが違いますよ。100なんかと違って日光の峠道でもノンストレスでグイグイ登って行きます。余裕のある人間はね、余裕のあるニーゴーに乗ってるんですよね」

とでも言うのだろうか。


 誰でも簡単に運転できる日本製のスクーターと違って、ベスパはクセが強く乗りにくいバイクだった。

セルモーターは付いてなくエンジンを掛けるのはキックスターターのみ。

このキックスターターが曲者くせものでコツをつかむまで一発で指導させるのは至難の技だ。

さらに失敗を繰り返しているとプラグがカブッて掛からなくなる。

イグニッションキーもない。

キーはハンドルロックのためだけにあってエンジンを切る時はキルスイッチを押して切る。

華奢きゃしゃなキルスイッチを強く押し込むと、スイッチが中に入り込んでエンジンが掛からなくなる。

そうなるとキルスイッチをバラして修理せなばならない。


 ギアチェンジはベスパお得意の左手でクラッチレバーを切りながら左のグリップを回転させるグリップチェンジだ。

クラッチは決して軽くないので頻繁にギアチェンジしていると左手首が痛くなるし握力が無くなる。

100ccのベスパだと3速シフトでもトルクがあるのでまだ乗りやすいが、非力な50ccだと忙しくシフトチェンジしなければならず、それが苦になってベスパを降りるオーナーもいるほどだ。

 フロントのドラムブレーキはいきなりガクンと利くので注意しなければならないが、かといってそれほど制動能力は高くない。

リアブレーキはステップから上に飛び出したブレーキペダルを踏まねばならず、慣れないうちはどこにペダルがあるのか分からずに焦ってしまう。


 6ボルトバッテリーの灯火類は不安定で暗く、夜間の信号待ちではアクセルをあおらなければ後続車に右左折の合図を分かってもらえない時がある。

燃料は混合給油で給油毎にガソリン1L当たり20mlのエンジンオイルを添加する。

こんな手の掛かるスクーターなので、エンジンが一発で始動したりノントラブルで目的地に到着しただけで大安吉日のような気持ちになれた。

たとえトラブルに遭ってもベスパが愛おしいと思える強者つわものだけが真のベスパ乗りになれるのだ。


 洋平はトラブルが発生するたびに店にクレームをつけていたが、

「これだけ経験したら大林さんも一端いっぱしのベスパ乗りですよ。日本でも大林さんみたいな真のベスパ乗りが増えてくると私も嬉しいんですけどね」

と返されると悪い気はしないもので、そのままずるずるとベスパに乗り続けていた。


 初秋の晴れ渡った爽やかな日曜日。

洋平はアヴィレックスのフライトジャケットMA1にリーバイスのビンテージジーンズ、レッドウィングのワークブーツにカスタムペイントを施したショーエイのジェットヘルといった出立いでたちで、ベスパを軽快に飛ばしているといきなりエンジンが止まった。

メカ音痴の洋平でも、今までに散々トラブルを経験していたので一通りの対処はできるようになっていた。

ガソリン残量は十分ある。

ガソリンコックもオンの位置になっている(乗らない時はエンジンのカブり防止のためオフにするので意外にこれは忘れやすい)。

プラグキャップの緩みや外れも無い。

スパークプラグの火花も飛んでいる。

しかし、エンジンは始動しない。

「一体どうなってんだよ、このポンコツが!動く気がないなら東京湾に捨てちまうぞ!」

洋平はレッドウイングのワークブーツでベスパの後輪を思い切り蹴った。

「痛てててっ!」

自分が痛い思いをしただけでベスパの機嫌は直らなかった。


 その時、腹の底に響いてくる重低音のサウンドと共に近寄ってきた真っ赤な車がベスパの真後ろに止まった。

「マジッ!フェラーリじゃん。それもデイトナ。凄ぇな。初めて見たぜ!」

洋平は感動していた。なぜなら、フェラーリ・デイトナ365GTB4は洋平がフェラーリの中で一番好きな車だったからだ。

フロントウィンドウに太陽光が反射してドライバーの姿は見えない。

「まさか、フェラーリの女豹みたいな絶世の美女が下りてくるんじゃねえだろうな。同じイタ車同士、お茶でもいかがですかって誘われたりしてよぉ」

洋平は妄想しながらニヤニヤしていた。

ちなみにフェラーリの女豹の愛車は308GTBだ。

デイトナのドアが開きドライバーが降りてきた。

その姿を見て洋平の緩み切った顔は凍り付いた。

『なんでヤクザがデイトナに乗ってんだよ。俺、何か怒らせるようなことしたかよ?』


 デイトナから降りてきた男は、仕立ての良いダークグレーのシルクのスーツに淡いブルーのワイシャツ、首元はノータイでお決まりの金のネックレスを着けていた。

ヘアスタイルは茶系のクルーカット。

スーツの上からでも分かる盛り上がった筋肉質の大柄な姿は、人というよりはマウンテンゴリラのシルバーバックがスーツを着ているような感じだ。

レイバンのサングラスをかけた眉間には深いシワが刻まれており、周りに強烈な威圧感を放っていた。

『俺ってこのゴリラみたいな奴に殴り殺されちまうのか』

洋平はその場からすぐに逃げ去りたかったが、蛇ににらまれた蛙のごとく動くことができない。

 

「どうした。故障か?」

男は固まって動けない洋平に声を掛けてきた。

いかつい姿とドスの効いた声とは裏腹に、その言葉には親近感と優しさが感じられた。

「いや、いきなりバイクが止まっちまって」

洋平はドギマギしながら答えた。

「ガソリンは?」

「入ってます」

「プラグは?」

「火花は飛んでました」

「さすがベスパ乗りだな。一通りは点検済みって訳だ。となると、結構飛ばしてたんじゃねえのか?」

「へっ?そう言えば…」

洋平はエンジンが止まる前のベスパの様子を思い出していた。

「夏場は暑くてしばらく乗ってなかったから久し振りに乗ったんすよね。気持ち良く飛ばしてたらいきなり止まっちまって」

「それってパーコレーションじゃねぇのか?」

「へっ?パ、パ、パーコ…?何すかそれ?」

「空冷のベスパはな、暑い日に調子に乗って飛ばしてるとエンジンが熱くなり過ぎてな、キャブレターの手前でガソリンが気化してエンストすることがあるんだよ。

特に今日みたいな暑い日に飛ばし過ぎるとな」

「へーっ、そうなんすか。随分詳しいんすね」

「俺も古い車やバイクに色々と乗ってたから経験済みなんだよ」


 男は胸ポケットから赤いパッケージのラークを取り出してロンソンのガスライターで火を付けると、仕立ての良いスーツにシワがつくことなど気にもしない様子で縁石えんせきに腰を落ろした。

「こんな時はな、イライラせずにゆっくり煙草でも吸いながらエンジンが冷えるのを待ってればいいんだよ」

男は洋平にもラークを1本勧めて火を付けてくれた。

「そう言えば自己紹介がまだだったよな」

男はそう言って洋平に名刺を手渡した。

「羽柴だ」

名刺の肩書は不動産ブローカー、羽柴大二郎と印刷してある。その他には会社の住所と連絡先だけが書かれたシンプルな名刺だ。

「本業は土地ブローカーだ。他には輸入車も扱ってる。こんな見た目だけどカタギだぜ」

洋平はあたふたしながら上着の内ポケットから名刺入れを出して羽柴に差し出した。

「大林です。広告代理店をやってます」

羽柴は名刺を眺めながら、

「洋平って呼んでいいか?広告代理店か。俺みたいに地味な仕事じゃなくって華やかな仕事なんだろうな」

「そうなんすよ。テレビの仕事なんか特にそうっすよ」

洋平は嬉しそうに答えた。

「俺とは無縁な世界だな」

羽柴はラークを深々と吸い込むと白い煙を勢いよく吐き出した。

その白い煙が晴れた秋空に吸い込まれていく。


 羽柴はラークを吸い終わると路面で揉み消しながら立ち上がった。

「洋平の相棒、そろそろ機嫌直してるんじゃねえのか。エンジン掛けてみなよ」

「えっ、もう大丈夫なんすか」

洋平は半信半疑でキックペダルを蹴り込んだ。

ブルン、ブルン、ブルルルルッ。

「ホントだ。すげぇ。羽柴さんの言った通りだ」

「だろ。バイクや車なんてのは女と一緒だよ。時間と愛情と、たっぷり金をかけてやんねぇとすぐに不機嫌になっちまう。男にはそれを許容できる器量が必要なんだ」

『なんか深いよなぁ。この人の言ってることって』 

息を吹き返したベスパは何事もなかったかのようにアイドリングしていた。

「洋平は車も持ってんだろ?やっぱりイタ車か?」

「いえ、車は持ってないんですよ。て言うか、免許持ってないんです」

「あれか?若い頃にブイブイ言わせて取り消しになっちまったか?」

「いえ、違うんです」


 洋平は不思議な感じがしていた。

見栄っ張りな洋平は、誰に対しても自分の弱い部分をさらけ出すことができない。しかし羽柴に対しては違っていた。羽柴からは何でも受け止めてくれそうな度量の深さが溢れ出ていた。

そんな羽柴には自分の弱い部分を隠さずに素直に話せそうな気がした。

「俺、高校の時に島の自動車学校で仮免に3回落ちてそのままなんです」

「なんだ。そんなことか。だったらこっちで取ればいいじゃねえか。社長だったら時間の融通も利くだろ」

「だって仮免3回っすよ。その時の教官に散々頭小突かれてトラウマになっちまったんすよ」

羽柴は豪快に笑い飛ばした。

「洋平、心配すんな。お前が本気で免許を取りたいんなら俺の知り合いを紹介するぜ。合宿制の学校だけど2週間で確実に取れる。料金はそれなりに掛かるけどな」

「ホントっすか?2週間くらいなら何とかなりますよ」

「そうか。だったら日程が決まったら連絡してくれ。場所は埼玉だから都内からだと近いし、仕事が忙しかったら抜け出すことだってできるからな。ところで、さっき島って言ったよな。どこの島出身なんだ?」

「きっと羽柴さんは知らないっすよ。鹿児島県の喜界島っていう小さな離島です。珊瑚礁が隆起してできた島なんすけど」

「どこかで聞いたことあるな」

「奄美大島の隣にあるゴマ粒みたいな小さな島っすよ」

「思い出したぜ。ゴマの生産量が日本一の島だろ?」

「さすが不動産ブローカー、何でも知ってんですね。白胡麻生産量は日本一です。でも、後は何にもない島なんすよね。他には象の檻って呼ばれてる自衛隊の通信基地くらいっすかね」

「自衛隊の通信基地か…。そんだけ何もねぇ島だったらさぞかし海は綺麗なんだろうな」

「海の綺麗さだけは半端ないっすよ。島には東経130度線が走ってて太平洋と東シナ海の両方に面してるんです」

「そんな綺麗な島なら俺も一度行ってみてぇな」

「羽柴さん、絶対気に入ってくれると思いますよ」


 洋平は子供の頃から車の運転をすることが夢だった。

直が運転する軽トラの助手席に乗って買い物に行く時、直は洋平の右手をシフトレバーに乗せてシフトチェンジしたり、膝の上に乗せてハンドル操作を任せたりしていた。

洋平はそんな経験があるので幼い頃からずっと車の運転に憧れていたのだ。

『やった。これでやっと夢が叶うぜ!』


「羽柴さん、一つ聞いてもいいすか?」

「何だ、洋平」

「俺が買えそうなフェラーリでオートマってあるんすかね?いえね、俺、多分オートマ免許しか取れねぇからミッション(マニュアル)のフェラーリには乗れないんすよね。あっ、いや、最初からフェラーリに乗ろうなんておこがましいこと考えてる訳じゃないっすよ。

いつかはフェラーリに乗ってみたいなって思ってたから」

「何言ってんだよ洋平。最初からフェラーリでいいじゃねえか。いつかはフェラーリじゃなくて最初からフェラーリの方がカッコいいと思わねぇか。俺、フェラーリしか乗ったことありませんってな」

「えっ、それってマジカッコいいっすね!」

洋平はフェラーリを運転している自分の姿を妄想した。


 「俺もいつか、羽柴さんみたいにデイトナ転がしてみてぇな」

「何だ、デイトナ知ってんのか。よほどフェラーリが好きなんだな。洋平、ちょっとこっちに来てみな」

羽柴はデイトナの方へ歩いて行って運転席のドアを開けた。

「洋平、運転席に座ってみろ」

「えっ、だって俺、免許持ってないっすよ」

「心配するな。座ってるだけなら誰も文句言わねえよ」

洋平は恐る恐るデイトナのドライバーズシートに座ってみた。

バケットタイプのシートは羽柴の体型に合わせて作られているようでかなり大き目だ。

「俺の体型に合わせて特別に作らせたバケットシートだから相当デカいぞ。アクセルが踏めるようにシートの位置を合わせてみな」

羽柴はそう言いながらシート位置の調節レバーを引いて洋平の丁度良い位置にシートを合わせた。

「いいか、洋平。イグニッションキーを回すから右足でアクセルを踏み込むんだ」

「えっ!、だって…、」

羽柴は有無を言わさずキーを回すとキュルキュルとセルモーターが回り始めた。

「今だ、洋平。思いっ切り踏んでみろ!」

洋平は言われるがままにアクセルを踏み込んだ。

デロロロロオオーン!

デイトナの腹に響く排気音が轟き渡る。

度肝を抜かれた洋平は反射的にアクセルから足を離していた。

洋平の心臓の鼓動は破裂せんばかりにバクバク打っていた。

デイトナのマフラーからはデロッ、デロッ、デロッと心地好い排気音が響き渡っている。

「すげぇ、羽柴さん、すげぇ!俺、絶対、いつかデイトナに乗りてぇ!」

「じゃあ、頑張って今から1億稼ぐか」

羽柴は笑いながら言った。

「えっ、そんなにするんすか!マジかよぉ。1千万ならまだしも1億…」

洋平は落胆した表情で下を向いた。

天国から地獄へ突き落とされた気分だった。


 その様子を見た羽柴が豪快に笑った。

「洋平、心配すんな。このデイトナならお前でも乗れるぜ」

「へっ?」

「シフトレバーをよく見てみろ」

センターコンソールから飛び出したデイトナのシフトレバーはフェラーリ特有の溝を切ったシフトパターンではなくオートマチックのシフトレンジだった。

「あれっ?オートマだ」

「エンジン音もよく聞いてみな」

羽柴は右足を伸ばしてアクセルペダルを踏み込んだ。

デロローン、デロッ、デロッ、デロッ!

心地好いデイトナの排気音。

「フェラーリのエクゾーストノートを聞いたことがあるなら分かるはずだ。何か違わねぇか」

「なんか、音が低いっすよね。以前聞いたフェラーリのエンジン音は吹かした時にもっと甲高い音が響いてたような」

「その通りだよ。このデイトナのエンジンはV12じゃねえ。 V8なんだ」

「 V8って羽柴さん。アメ車のエンジンじゃねえの?」

「このデイトナはな、マクバーニー・コーチクラフトっていうカスタムビルダーがシボレー・コルベット・スティングレーベースに作ったレプリカだ。

でもな、そんじょそこらのレプリカとは違うぜ。完成度が高いからアメリカのテレビドラマにも使われてたくらいだ。マイアミバイスって刑事物のドラマがあっただろ。あれに出てたのと同じなんだよ」

「マイアミバイス、知ってます。オープンのデイトナが出てましたよね」

「本物のデイトナを完璧な状態で維持するなんていくら金が有っても足りやしねぇよ。それになぁ、エンジンを壊さないようにビクビクしながら乗ってねえといけねぇ。

大体、都内でフェラーリぶん回せるとこなんて首都高くらいのもんだぜ。このデイトナなら首都高でもフェラーリに引けは取らねえし、オートマだからタバコ吹かしながら余裕でバトれるぜ」

 

 羽柴が発する一言一言が呪文のように洋平の心に突き刺さった。

『もう本物のフェラーリかどうかなんてどうでもいい。このデイトナに乗りてぇ』

「羽柴さん、俺が免許取ったらこのデイトナ売って下さい!」

「おいおい、随分と気が早いな。焦ることはねぇ。先ずは免許取って色んなフェラーリに乗ってみな。最近のフェラーリはオートマも増えてきてるんだぜ。

俺が段取りつけて試乗させてやるからよ。それでもこのデイトナが欲しいって言うなら考えてやるよ」

この日から洋平の頭の中はデイトナ一色に染まった。

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